大友家子孫

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増補訂正編年大友資料29巻    田北学(大友一族)編

2023-02-23 20:36:13 | 歴史・家のルーツを知る

(令和5年2月23日、夜)

《能一文書》 竹内理三博士寄稿

(35)為音信五對到来、當時之仕合不如意令推量候處、奇特之志、令祝著候猶重而可申候        恐々謹言                                  〈年未詳〉卯月十四日          (大友)能乗(花押)                        能一小七殿                「義統の子宗五郎」

《読み》音信として 五対到来、当時の仕合せ、不如意推量せしめ候処、奇特の志、執着せしめ候。猶重ねて、申すべき候。  恐々謹言           ※ 不如意:心のままにならぬこと、暮らし向きがよくないこと。         ※ 恐々謹言:大変ありがとう。謹んで御礼申し上げます。

(令和5年2月24日、夜)

《大友家文書》(慶長二年頃)                    (36)頃年(こうねん)中庵屡(しばしば)献書及微物於神       君、々々(神君)乃賜御書、   十一月献沈香時有御書

《読み》頃年(こうねん)中庵(義統)屡(しばしば)献書及微物を神君(家康)へ献じた。神君はより御書を賜った。十一月、沈香を献じ、時に御書が届いた。※頃年:今、現在           ※ 微物:美物(ごちそう:果物、野菜等)沈香:香木

(37)遠路使札(しさつ)并(ならびに)沈香、送給候、祝著(しゅうちゃく)之至候。委細は阿部伊豫守可申候間、令(せしめ)省略候。                  恐々謹言                         十一月十五日            (徳川)家康 御判

《読み》遠路からの手紙並びに沈香を送り給い候。大変喜ばしく思います。委細は阿部伊豫守が申すので、省略します。大変感謝します。家康(判)

《大友家文書》                        慶長二年丁酉十一月秀吉、以穀千石為中庵配所給有書     

《読み》慶長二年丁酉十一月、秀吉は、穀物千石を以って、中庵配所へ給わる。書もあり。

(38)八木(?)千石、さたけにて、御くら米の内を以って、大ともかたへたしかにはかり渡すべき候也                            慶長二年十一月二十七日 ましだもんのせう(増田右衛門尉長盛)

            いしだ治部少ゆう(石田三成)

(令和5年2月25日 夜)

《大友家文書録(もんじょ)》

(58)慶長四年(1599)己亥(きがい)閏三月中庵献書、併雁三隻於江城奉賀神君移干伏見城臺徳公乃賜御内書

《読み》中庵書、併せて雁三隻(3羽)を献じ、江戸城に神君を奉賀す。伏見城へ送られて、臺徳公(秀忠)乃御内書を賜る。

(59)御使札(おんしさつ)本望至候。如承意伏見御城へ、内府被相移之由、申し越し候。然者(しからば)為祝儀雁一折(ひとおり、三隻:さんそう?)三(?)、贈給候。祝著(しゅうちゃく)至候。尚期後音時候 恐々謹言   後三月二十四日    江戸中納言 秀忠(花押)   中庵老(大友吉統)御返事

《読み》御使札(おんしさつ)(お手紙)本望の至りに候。承意の如く、内府は伏見御城へ、相移つらるる之由、申し越し候。然者(しからば)祝儀として(の為に)、雁一折(三隻:さんそう)三(?)、贈り給い候。祝著(しゅうちゃく)の至りに候。尚後音(こうおん)の時を期し候 恐々謹言

※ 御使札:お手紙  ※ 本望の至り:大変うれしい      ※ 承意の如く:おっしゃる通り  ※ 祝著:うれしい    ※ 後音を期し:後の(次の)手紙を待つ

(令和5年2月26日 夜)

《吉弘鎮整(しずまさ)氏文書》

(60)猶々左近殿内々娘へ別而御懇切之由承候。誠ニ(に)過分之儀候。早々以使可申候へ共、手前取紛打過申候。必爰元透次第一人指下候而一禮可申候。此由能々(よくよく)心得可給候。何(いずれ)も従元達所(?)可申候。以上。将又(はたまた)先度六角釜給候。慥届申候。一段祝著之至候。茶碗の儀ハ(は)先々可被相嗜候。為存知候。敷戸民部入道罷下候由候條、仍(よって冬以来度々預書状候。自是(これより)茂雖(いえども)可申遣候、

《読み》

猶々(なおなお)左近殿内々娘へ別して御懇切之由、承り候。誠に過分之儀に候。早々使いを以って申すべく候へ共、手前取紛れ打過申候。必らず、爰元(ここもと)透次第(すきしだい)一人指し下し候而(そうろうて)、一禮申すべく候。此由(こよし)能々(よくよく)心得給うべく候。何(いずれ)も元達所(?)従(より)申すべく候。以上。将又(はたまた)先度六角釜給わり候。慥かに届け申し候。一段祝著之至りに候。茶碗の儀ハ(は)先々相嗜しなまるべく候。存知(ぞんち)のために候。敷戸民部入道罷下り候由候條、仍(よって)去冬以来度々書状を預かり候。自是(これより)茂と雖(いえども)申遣わすべく候、

(令和5年2月27日 夜)

便宜無之候間不能其儀候、年内上野弥平迄被申越旨、同元達之所之折々細君之趣慥聞居候。銘々得心申候。可心安候。殊左近殿上洛候。不相替預馳走候。互ニ(に)入魂(じっこん)無別儀候之條、是又気遣有間敷候。此方事茂、従増田殿天満ニ(に)給候條、家作相調四五日前罷移候。先以外聞實儀珍重之至候。彼是岐部左近入道(入道一達)可申候之間、不及口能候。恐々謹言         慶長四年卯月十二日        中庵(大友義統)(花押)  吉弘加兵衛(統幸)家作相調四五日前罷移候。先以外聞實儀珍重之至候。彼是岐部左近入道(入道一達)可申候之間、不及口能候。恐々謹言  殿

《読み》便宜之なき候間、その儀能わず候。年内に上野弥兵衛迄申し越さるる旨、同元達の所の、折々細君の趣、慥(たし)かに聞き居り候。銘々得心申し候。心安かるべく候。殊に、左近殿上洛候。相替わらず馳走に預かり候。互いに入魂別儀なく候之條、是又気遣い有る間敷く候。此の方事茂、増田殿より(従り)天満に給わり候條、家作相調え、四五日前罷り移り候。先(まず)以って外聞實儀珍重之至に候。彼是岐部左近入道(入道一達)申すべく候之間、口能に及ばず候。恐々謹言    

(令和5年2月28日 夜)

《大友家文書録

(65)今度、依公儀御赦免令上洛候。此中折々如申候。不慮之進退付而多年牢籠(ろうろう)候之處、従(より)最前以無二之覚悟、于今見届之段、感悦無極候。此節別而辛勞御心懸之次第、永代、不可有忘却候。必々宗巖身上可然成立候者、追而、一稜可賀之候。殊出京供之儀申付之間彌(いよいよ)可励馳走事肝要候。猶駿河守岐部左近入道可申候。                   恐々謹言

       六月五日          中庵(在判)    天徳寺治右衛門尉 殿 (舊〈旧〉姓柴田統生殿) 

《読み》

今度(このたび)公儀御赦免により、上洛せしめ(令)候。此の中(うち)折々申候如く、不慮之進退に付い而(て)多年牢籠(ろうろう)候之處、最前従(より)無二之覚悟を以って、今に(于)見届け之段、感悦極り無(な)く候。此節別而(べっして)辛勞御心懸之次第、永代忘却有るべからず候。必々(必ず必ず)宗巖(義統、中庵)の身上然る可(しかるべ)く、成立候わば(者)、追而(おって)、一稜(ひとかど)之を賀すべく(可)候。殊(こと)に京へ出る時のお供之儀、申付くる之間、彌(いよいよ)馳走に励む(可)べき事、肝要に候。猶(なお)駿河守岐部左近入道が申すべく(可)候。                   恐々謹言      ※ 無二之覚悟:特別な覚悟  一稜:特に  出供之儀:しゅっきょう、出て仕える   馳走に励む:忠義を尽くす

 ( 令和5年3月1日 夜 )

《田北隆信氏文書》

(66)其方事、順儀之覺悟、淵底聞届候。奇特之心懸感入候。併當時之事候間、何方(いずかた)へも罷出、身上相続候様ニ、才覚肝要候。又、作左衛門事、此節能砌罷下、中庵(義統)御上洛供仕候。仕合可然候。重而可申候         恐々謹言

慶長四年六月十七日    能乗(大友義延又名義述)(花押)

      田北六郎(統辰)殿

読み》

其方事、順儀之覺悟、淵底聞届候。奇特之心懸(こころがけ)感じ入り候。併しながら當時之事候間、何方(いずかた)へも罷出(まかりいで)、身上相続候様ニ、才覚肝要候。又、作左衛門事、此の節、能き(よき)砌(みぎり)罷下(まかり下り)、中庵(義統)御上洛の供仕り(つかまつり)候。仕合(しあわせ)然可(しかるべく)候。重而(かさねて)申す可く(べく)候。恐々謹言

( 令和5年3月2日 朝 )

《田北隆信氏文書》

(67)為見舞罷下候。遠路奇特之心懸感入候。然處中庵(義統)御上洛供仕、一段仕合ニ候。随分路次中用(?)身肝要候。仍息六郎(統辰)事、當時之儀候間、何方へ(いずかた)も罷出、一身相續候。才覺可然候。尚重而可申候。恐々謹言

《読み》

見舞いとして罷り下り候。遠路の奇特之心懸(こころがけ)感じ入り候。然處(しかるところ)、中庵(義統)の御上洛の供を仕まつり、一段、仕合(しあわせ)ニ(に)候。随分、路次中、身を用い、肝要候。仍(すなわち)息(子息の)六郎(統辰)事、當時之儀候間、何方へ(いずかた)も罷り出で、一身相續候。才覺然かるべく候。尚、

重ね而(て)申す可く(べ)候。恐々謹言

(  令和5年3月3日 朝 )

《 大友家文書録 》 

(68)(慶長四年六月)十八日發牛込、向洛、原尻作十郎統忠(小田原願秀子)等従之、◎十九日、使清田統貞還、干水戸居授書、駿河守、小田原願秀(俗名統直干時薙髪)等、命其留守事、此行辱 臺徳公命賜及吉原之駅馬

  猶々駿河へ申候、源七無事候之條、不可有氣遣候、願秀事郷々調、油断有馬敷候、以上

味左衛門(清田統貞)罷歸候間、染筆候

読み》

(慶長四年六月)十八日牛込を發ち、洛へ向かう。原尻作十郎統忠(小田原願秀の子息)等は之に従う。◎十九日、使者の清田統貞は還(かえ)り、書を授かり、水戸干(に)居る。駿河守、小田原願秀(俗名統直干時薙髪)等、其留守の事を命じ、此行いを辱(は)じ、臺徳公は吉原之駅馬及(まで)命じ賜う。

  猶々駿河へ申候、源七無事候之條、氣遣有る不可(べからず)候、願秀は郷々(?)調え(ととのえ)、油断有馬敷(あるまじく)候、以上

味左衛門(清田統貞)罷歸(まかりかえり)候間、染筆(せんぴつ)候

( 令和5年3月4日 朝 )

《田北隆信氏文書》

(74)昨日は娘上洛して、路次如何候哉と存斗候。然者奴留湯長門へ幕書所持候者可然之由可被申候、〇〇日記をば能乗被(?)遣無之候間申事候。将又枩満源太夫へ太鼓貸遣候。是又其方歸津候刻(とき)可有随身候。殊娘機嫌如何候や、随分可堪忍の由、可被申候、女房衆へも申し聞候間、能々可被相達候。又新兵衛夫婦へも、此中辛身候之由、能々可被相心得候、為存知候                        恐々謹言

《読み》                          昨日は娘上洛して、路次如何候哉と存じ斗(はか)り候。然者(しからば)奴留湯(ぬるゆ)長門へ幕書所持候者(そうらわば)、然可之由(しかるべきのよし)申さるべき候、〇〇日記をば能乗、(?)遣わされ、之なき候間、申事候。将又(はたまた)枩(松)満源太夫へ太鼓貸遣(かしつかわし)候。是又其方歸津(きしん)候刻(とき)随身(連れてきなさい)はあるべき候。殊に娘機嫌如何候や、随分可堪忍の由、申さるべき候、女房衆へも申し聞かせ候間、能々相達っせらるべき候。又新兵衛夫婦へも、此中(うち)辛身(しんしん)候之由、能々相心得らるべき候、為存知候恐々謹言

( 令和5年3月5日 夜 )                             

《大友家文書録》

(76)任所望の旨、主膳正可有存知候、恐々謹言             慶長四年十月十四日

原尻作十郎(統忠)殿              中庵(在判)

(読み)所望の任(?)かせる旨、主膳正、存知あるべき候、恐々謹言

( 令和5年3月6日 朝 )

(68)一 昨日、牛込を罷立、かのかわ(神奈川)迄著申候。従中納言様、吉原迄傅馬被仰付候。先日其方〇〇〇(?)以来も色々忝儀共候。外聞実儀無此上〇〇〇〇〇〇(?)お賢(佐五の局)ハ(は)不及申、何も別而〇〇〇〇〇〇耳に候。昨も、始中終(しちゅうしゅう)被留候へ共色々(?)〇〇く申はらい罷立候。随分路をも可急覚悟候。                    一 留守之事萬仕置之所無相違守其旨各堅固可申談候          一 長熊(正照)過等無之様覚悟肝要候萬々味左衛門可 申候。  恐々謹言 六月十五日                     中庵(在判)  駿河守(鷲尾)殿                          小田原又左衛門(続直入道願秀)殿                  齊藤右京入道 殿  岐部掃部助 殿                 木付図書助 殿                           古庄神左衛門入道 殿

外聞:評判  実儀:実状  始中終:始めから終わりまで          傅馬:馬を用意する

 

《読み》一(ひとつ) 昨日、牛込を罷り立ち、かのかわ(神奈川)迄著き申し候。中納言様従(より)、吉原迄傅馬仰付られ(被)候。先日其方〇〇〇(?)以来も色々忝儀(かたずけなき)共候。外聞実儀此上なく〇〇〇〇〇〇(?)お賢(佐五の局)ハ(は)申すに及ばず、何も(いずれも)別而(べっして)〇〇〇〇〇〇耳に候。昨も(?)、始めから終りまで留められ候へ共、色々(?)〇〇く申しはらい罷り立ち候。随分路をも急ぐべく覚悟に候。                               一 留守之事、萬(よろず)仕置之所相違なく、其旨を守り、各(おのおの)堅固に申し談んずべく候                     一 長熊(正照)過(あやまち)等之なき様、覚悟肝要に候。萬々味左衛門(使者)が申すべく候。(手紙を以って)    恐々謹言                   六月十五日                     中庵(在判)  駿河守(鷲尾)殿                          小田原又左衛門(続直入道願秀)殿                  齊藤右京入道 殿  岐部掃部助 殿                 木付図書助 殿                           古庄神左衛門入道 殿

( 令和5年3月7日 朝 )

《大友家文書録》

(526(明治2年)十二月二日 太夫士卒被廢、萬石未満之輩ハ惣而士族と被仰出

《読み》(明治2年)十二月二日 太夫士卒は廢止され、萬石未満之輩ハ(は)惣而(すべて)士族と仰せ出された

(309)寛政九年(1797)丁巳年三月 立花 隠居願ヲ幕府ニ提出ス (大友)義方之ガ進達ヲ代理ス、文ニ曰ク

    隠居奉願候覺                                                             

                 居城筑後国柳河 

高拾萬九千六百四拾七石壱斗九升七合

                    立花左近将監

                      当巳六十九歳

( 令和5年3月8日 夜 ) 

《大友家文書録》 [註]立花家は大友氏の分家也。大友氏は高家時代、立花家の名代として、同家より幕府への名代として、願書類の進達をなしたり。             

( 令和5年3月18日 夜 ) 

《大友家文書録》

(326)文政七年(1824)十二月朔日 梁川矢嶋隼人、立花但馬両人出府、寒中見舞到来、一筆致啓達候、甚寒之節御座候得共、左京様、丹次郎(大友義路)様、益御安泰被成御座、目出度御儀奉存候。猶以寒中御様躰相伺之度 如此御座候。此旨宜頼存候。恐惶謹言

     十二月朔日        立花但馬

                     親博(花押)                           

                  矢嶋隼人

                     行昌(花押)       

    加藤馨輔様

《読み》

文政七年(1824)十二月朔日(さくじつ)(1日) 梁川(はりかわ)矢嶋隼人、立花但馬両人出府(上京・江戸へ)してきた。寒中見舞いに到来した。一筆手紙を差し上げます。甚だ寒之節、御座候得共、左京様、丹次郎様、益々御安泰御座なられ、目出度御儀と存じ奉り候。猶、以って、寒中御様躰、之を相伺い度(たく) 此の如く御座候。此の旨、宜しく存じ頼(より)候。恐惶謹言(恐れ謹んで申し上げます。)

       十二月朔日                    

                    立花但馬                                       

                        親博(花押)        

                    矢嶋隼人

                        行昌(花押) 

        加藤馨輔様

( 令和5年3月19日 朝 ) 

《大友家文書録》

(332) 猶以若病気候者、名代可被差出候、以上。

御用之儀候間、明日四時(よっつどき)可有登 城候、以上。

(年不詳)十一月十八日                 牧野備前守

        大友豊後守(義路)殿 

《読み》

猶、以って若し(もし)病気候者(そうらわば)、名代を差出さるべく候、以上。

御用之儀候間(そうろうあいだ)、明日四時(よっつどき)登 城あるべく(有可)候、以上。

( 令和5年3月20日 朝 )

《田北憲明氏文書》

(335)永永打續疎遠之處、此度同氏彌八郎方ニ(に)相越初而得面語、令太慶候、猶追々可申承候、巳以、

一筆令申候。彌御無事珍重之事候。於當方茂無異罷在候。可被安心候。随而今般被申合金子被相贈候御厚情之程過分之至候。多謝同尋問旁申入候。恐惶謹言                                   (年不詳)三月九日         松匡(松野) 直(直政)(花押)         彌五左衛門殿 参

(註)松野 匡(ただし)は天明四年(1784)より嘉永二年までの人也

《読み》一筆申しせしめ候。彌(いよいよ)御無事珍重之事候。當方において茂無異(むい)罷在候。心安かるべく候。随而(したがって)今般、申し合わされた金子を相贈られ候、御厚情之程過分之至りに候。多謝同尋問旁(かたわら)申入候。恐惶謹言         

 

 

 

 

 

 

 

 



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