大友家子孫

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大友家一族

2016-02-05 22:16:23 | 歴史・家のルーツを知る

ルーツを知る

今村姓で大友氏と関係がある家が見つかりました。今村備後守義勝(1500年代・・・大友家臣)・・・豊後の武将です。 旧山崎村 今村太郎左衛門、今村勝右衛門兵蔵、今村柳蔵(1700年代)、明治時代 迫村 今村柳郎、明治大正、今村虎五郎、昭和平成今村秀雄(改め、日出夫・・・筆者の父)旧家臣合澤氏の奔走で、旧山崎村の今村家が分かりました。家系図が残っていて、大友氏より出たことや今村備後守も記述されていました。合澤氏には心から御礼申し上げます。山崎の今村家を探し、先祖が一緒の記述の家系図の持ち主をずっと探していました。本当に嬉しいです。父の里迫村のすぐ隣村でした。備後守の命日2月12日には、今でも毎年一族で義鑑の墓のところで参っているそうです。ここに、備後守の墓もあったと私(熊本今村)の家の過去帳に記述されています。先日、家内と吉弘神社に参り(春季大祭)、旧山崎村の今村氏宅へ伺い、話を聞いてきました。帰りに臼杵の義鑑公と今村備後の守義勝公の墓に詣でました。

2月にも先祖らに参りましたが、その時もいい事があり、今度も、家内が母校の別府短大に立ち寄ったところ、恩師と校内で、ばったり会ったそうです。全く偶然でした。2度とも、前日と打って変わり、天候が良かったのです。「先祖と義鑑公」おかげではなかったか、と思えてなりません。

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色々あって、パソコンも苦手とあって、投稿しませんでしたが、アクセスが多いので、また、書き続けます。

昨年2020年(令和2年)11月末、大分市鶴崎の吉岡家を訪ねました。この家は、旧臣(大友氏一族)で、元鶴崎城主(大友氏時代)、後、江戸時代は細川藩士(熊本藩)で、鶴崎にいて御典医、明治以後は九大を出て、九大や大分大の学者だったそうです。大友氏改易後、大友松野氏(義統次男正照)家の指示で大友氏旧臣の名簿を、吉岡氏に作らせていました。

夕方遅かったのですが、丁寧に応対していただきました。コロナが終わり次第、清田氏と再度、訪れたいと思っています。

  今年の4月に、鶴崎の吉岡家を訪ねる予定だったが、コロナで、延び延びになり、今に、至った。コロナが九州は、だいぶん、おさまったので、いこうとおもったが、一緒に行く予定の二子石氏、曰く、大分の知り合いが「まだ、来てくれるな。」と、言ったというので、まだ、行きそびれている。

 それにしても、私の周囲の大友氏関係者は、大変に元気がよい。清田氏は、持病があるが、かくしゃくとしている。私より、数年年上だが、熊本市内中を単車で飛び回っている。吉弘氏は約91歳ぐらいで、健軍から、熊本市内の東から、南の端の川尻まで、(ほぼ、十数キロ)月2回も約十年位「古文書の勉強」の通っている。両家とも、兄弟(姉妹)が、100歳近くになるという。

 


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1 コメント

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大友一族の子孫です (清成信也)
2022-11-02 12:00:37
初めまして。
大友家のことを調べていて、貴殿のブログを興味深く拝見しました。
実は、私の家は大友宗麟の三男親盛(松野半齋)の子孫で、親盛が9代当主として養子に入った国東(くにさき)の武蔵田原氏を後継する家のようです。史料によると田原家は大友家改易後に清成(きよなり)と改姓したようです。
私は定年後、時間もできたので、国東市にある実家のルーツである大友氏・田原氏を調べていました。伝わっていた家系図を昔、地方歴史家と称する人物に持ち去られ、また、かつての(田原家の)菩提寺も絶えましたので、口伝されて来た事の裏付けについて、史料を探しながらですが、やっと少し整理できたところです。貴殿でしたらまだまだご教示頂けることがあるかもしれないと思いましてここにコメント致します。
私はブログ等は持っておりませんが、メールでしたら連絡可能です。以下にてご連絡頂けましたら幸いです。
chitan2@gmail.com
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