大友家子孫

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大分合同新聞(R4  / )「戦国大名大友氏の館と権力」第2部 戦国大名権力論

2023-03-21 20:49:19 | 歴史・家のルーツを知る

補論「大友由緒姓名記から見る吉統除国後の豊後国と大友氏」 随時掲載

家臣 縦の関係性維持

県立先哲資料館所蔵の「高野山本覚院文書」に、「大友由緒姓名記」(以下「姓名記」)と題する資料があります。1789(寛政元)年、豊後国鶴崎の吉岡鼎寿(ていじゅ)が旧大友家臣の子孫約1,700人の居所と氏名を記した記録です。                              1593(文禄2)年5月に大友吉統が改易され、大友氏の豊後支配は幕を閉じました。「姓名記」はそれから200年近くたった江戸時代後期に至っても大友氏との関係性を受け継いできた旧家臣が、豊後国内に広範に存在していたことを具体的に示す資料です。                   元々、吉岡氏は鶴崎を拠点とする大友氏の重臣でしたが、吉統改易後は浪人となり、後に細川家に仕えました。吉岡家には「姓名記」以外にも、旧大友家臣の由緒に関する数多くの資料が残されています。鼎寿はこの時期、積極的に旧大友家臣の情報収集をしていたようです。            では、なぜ鼎寿はこのような役割を担ったのでしょうか。その鍵を握るのが、吉統の子・正照を祖とする松野氏です。松野氏は吉岡氏と同様の経緯を経て細川家に仕え、後に豊後国内の熊本藩領を統括する鶴崎番代を務めました。また旧大友家臣に宛てた書状も数多く現存しており、松野氏が豊後国との根強い関係を保持し続けたことがうかがえます。旧大友宗家の系譜を引く松野氏と吉岡氏との間には、共に細川家家臣となった以降も、以前のような主従関係が継続していたようです。そして1876(明治9)年に松野氏が吉岡氏に宛てた書状には、以前から吉岡氏が「由緒触頭(ふれがしら)」という役割を担っていたことが記されています。松野氏は豊後国内の旧大友家臣との関係構築を目指し、その取りまとめを吉岡氏に期待していたのでした。これを踏まえれば「姓名記」とは、松野氏と旧大友家臣をつなぐ立場にあった鼎寿が、松野氏の指示を受けて実施した旧大友家臣の実態調査だと理解できそうです。                           江戸時代の豊後国では、松野氏を頂点とする旧大友家臣の緩やかな縦の関係性が、藩領を越えて存在していました。大友氏の「影」ともいうべき中世的世界の残存は、諸藩の支配にどのような影響を与えたのか。そして特に松野・吉岡両氏が従属する細川氏は、この状況にどう対応したのか。「姓名記」は、中世大友氏研究と近世豊後藩政史研究の両面に、従来とは違った角度から迫ることができる、極めて興味深い資料だといえるでしょう。(松原勝也・県先哲史料館史料専門員)

 

 

 


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