大友家子孫

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大友宗麟・・・大友松野家・・・熊本藩・・・家老になる

2016-02-28 23:10:21 | 歴史・家のルーツを知る

大友宗麟・・・贈位

大正13年3月11日、大友宗麟に対して、生前、皇室国家や文化風教に対して、著しく貢献したことに対して追贈が行われた。大正13年3月26日、大分県知事から、当時の当主大友義一氏に対して、津久見市の宗麟の墓前で従三位が贈られた。この人は大友氏の歴史にも詳しかった。

大友松野家・・・・・熊本藩家老になる

大友氏改易後、大友義統次男(松野正照・主殿=大友松野氏)

《令和4.8.4》

大友義統の次男で松野正照(右京・主殿・とのも)の先祖で先祖付けけより(熊本永青文庫・・・細川氏より)

                    二千石   松野孫三郎

一 先祖大友左近将監(しょうげん)豊前前司(ぶぜんさきのつかさ)源能直(よしなお)童名一法師儀実は右大将(うだいしょう)頼朝公の実子にて御座候。母は大友四郎太夫経家の女(つねいえのむすめ)外祖父斉院次官親能(ちかよし)の猶子(ゆうし)となし氏(うじ)を大友と改め、京都守護に補され候。能直二十五歳の節豊前豊後両国を領知仕り、鎮西奉行を蒙り(こうむり)建久七年(1197)六月鎌倉より指し下され、豊後入国仕り候。其の後代々探題官領後見をこうむり、昇殿を聴され(ゆるされ)、将軍より御自筆をもって諱字(いみなじ)を下され候。大友修理太夫左少将義鑑代九州の内六カ国其の子左衛門の督(かみ)義鎮まで二十代猶又九州の内六カ国並びに日向伊豫半国壱岐対馬の二嶋(にとう)をも領知仕り候。義鎮嫡子大友左兵衛督(かみ)義統代文禄二年(1594)国を退き仕(つかまつ)り候

初代

一 松野右京儀は義統の子にて京都へ浪人にて罷りあり候。

三斉様御代豊前国において松野半斉方へ呼び下し申すべき旨仰せ付けられ慶長十七年(1613)罷り下(くだ)り申し候処同 年十月御知行千石拝領なされ旅役御免にて相勤め罷りあり、御自筆の御書等も頂戴仕り候。   妙解院様御代寛永十年(1634)御加増無役の為五百石拝領成され候。御自筆の御添書遊ばされ候。御書頂戴成され候。且つ又          真源院様御書是又(これまた)頂戴仕り候。有馬御陣の節もお供に罷り越し御陣中相勤め申し候正保年中(1644~1647)長崎へ黒船着岸の節彼の地へ差し越され相勤め申し候                    妙応院様御代承応四年(1656)八月隠居仰せ付けられ隠居料として二百人扶持拝領なされ万治ニ年(1659)病死仕り候

二代

一 松野主殿儀は右京の子にて御座候承応四年(1656)

 

 8月父右京家督拝領成され、1500石のうち、500石は前々のとおり無役の御書き出し頂戴仕り長岡佐渡組(家老)の御番頭仰せ付けられ、寛文4年(1665)豊後日田表出入りの刻(とき)両度彼の地へ差し越され候其の外他所への御使者江戸御国にてのご奉公相勤め延宝3年(1676)江戸に罷り越し彼の地にて病死仕(つかまつ)り候

三代

一(ひとつ) 右主殿の子松野主殿儀、父主殿果て候刻(とき)、幼少に御座候に付き家久敷者共育(はぐくむ)申すべき旨にて百五十人扶持、配慮成され家屋敷等をも其の侭下しおかれ、貞享二年(1686年)三月跡目拝領成され他所御使者江戸並びに肥後国にての御奉公相勤め元禄八年九月病死仕り候

一 右主殿果て候節、実子ござなく候に付き御意(主君の意志)として大木戸舎人(とねり・家老?)罷り越され跡式の儀(後継者)宜しく仰せ付けられ候間、家久敷(ひさしき)者共騒ぎ申さず候様(よう)家屋敷をも、直ちに御借(貸?)し下さるべき旨仰せ渡され候

四代

祖父松野主殿儀実は英彦山(ひこやま)座主(ざす)倅にて数年弐十人扶持(ふち)拝領成され置き候。召しだされ候刻(とき)松野八郎左衛門子分に仰せ付けられ新知五百石拝領成され候。其の後江戸御国にての御奉公相勤め居り候ところ、御中子小姓頭仰せ付けれ候他国御使者御国にての御奉公相勤め申し候

一 元禄八年(1696)十一月故主殿名跡相続仰せ付けられ御知行家屋敷共に相違なく拝領され座配前々のとおり仰せ付けられ候其の後、他所江の御使者江戸御国にての御奉公相勤め申し候宝永二年(1706)十二月五百石加増拝領成され、佐敷詰め仰せ付けられ翌年五月佐敷へ罷り越し相勤め正徳六年(1717)彼の地にて病死仕り候 ※ 佐敷 熊本県南端水俣の先の鹿児島県との県境、熊本藩佐敷に番所を設けていた。島津へのにらみであろう。そこの番代を勤めていた、と思われる。責任者と思われる。この松野家か、不祥だが、松野氏が、大分県の、熊本藩の飛び地、鶴崎でも、勤めている。大分は、旧大友氏の支配地だったので、旧大友藩士や不満農民を、松野氏に、抑えさせたのであろう。因みに、鶴崎には、大友氏の一族で力のあった、吉岡氏(旧鶴崎城主)が、御典医として、いたという。熊本に居た、松野氏から吉岡氏へ、旧大友旧臣への連絡や名簿作りなどの、指示が出たという。明治初めまで、「大友氏の再興」を願って、名簿作りや大友氏歴代当主の墓参のため「寄付集め」があったという。

五代

一 親主殿儀同年(1717)六月父主殿跡目の御知行相違なく拝領座配等成され、前々のとおり仰せ付けられ享保二年(1718)五月阿蘇において公義定例御祈祷の節、御名代相勤め申し候。同年(1718)九月御使者として江戸へ差し越し候。同三年(1719)六月御城代仰せ付けられ同年(1719)十一月まで相勤め申し候。同九年(1719)阿蘇において公義定例の御祈祷の節、御名代。同十七年(1733)六月同所御田(おんたorおんでん)御名代。同二十一年(1737)正月阿蘇において公義定例の御祈祷の節、御名代追々仰せ付けられ相勤め申し候。元文五年(1741)五月御帰国の上、御使者として江戸へさし起こされ候。寛保三年(1744)三月病死仕り候

六代主殿  《令和4年8月3日》

一   私儀同年(1744)六月亡父主殿へ下し置かれ候御知行家屋敷共相違なく拝領座配され、前々のとおり仰せ付けらるる旨、有吉大蔵殿宅において仰せ渡され直ちに松井典礼組に召し加えられ候。その節までは前髪御座候に付き御奉公相勤め申さず候。延享元年(1744)七月前髪を執(と)り、当前の御奉公相勤め申し候。同二年(1745)阿蘇御田御祭礼の節御名代仰せ付けられ、両寺において度々御法事の節御寺詰め組置き、相詰め申し候。宝暦五年(1756)六月阿蘇御田御祭礼の節

同年(1756)六月御帰国の上、江戸へ御礼の御使者として差し越され、勤め方相済み後、公儀巻物拝領のため同九月罷り下り候

御名代相勤め申し候。同十二年(延享・1755)閏四月平左衛門と名を改め申し候。同十二年十月御留守居大頭仰せ付けられ置き候処(ところ)、物覚え薄く相成り其の上裏髪に付き明和五年(1769)三月願いに依り御役儀御免遊ばされ、座席組外(ほか or そと)仰せ付け置かれ候処(ところ)、同年(1769)七月願いに依り隠居仰せ付けられ候。

《令和4.8.5》

七代

一 嫡子松野新太郎儀明和四年(1768)二月御目見え仕り候。明和五年(1769)七月十六歳にて父へ下され候御知行の内千八百石下され置き座席上がり着座の定座に仰せ付けられ、御留守居大番頭に召し加えられ候。明和六年(1770)正月御備え頭(おそなえがしら)田中左兵衛組に与替(くみがえ候)仰せ付けられ候。同九年(1773)六月御帰国に就き(つき)公儀へ御礼の為、御使者指し越され、右勤め方相勤め申し候。同(1773)七月二十三日江戸罷り立ち、八月二十七日城下着候。

《令和4.8.6》

安永二年(1774)二月座席持ち懸けにて上田宇助跡御番頭仰せ付けられ御役料米並みのとおり下し置かれ候。同四年(1776)正月外記(げき)と名を改め候。同九月鶴崎御番代差し越され翌年(1777)十月相代わり罷り(まかり)帰り候。天明元年(1781)八月大木総馬跡御留守居大頭仰せ付けられ御足高(おんたしだか)二百石下しおかれ、寛政元年(1789)三月大御目付け仰せ付けられ毎年心づけとして米百五拾俵渡し下され同二年(1790)九月家老代として出府。同四年(1792)正月罷り下り同五年(1793)二月志水次兵衛跡御中老仰せ付けらるる旨御直に(じき)仰せ渡され御足高千石増し下され享和元年(1801)二月吉田淳平辞職の一件に付き此節松野亀衛門が趣(おもむき)仰せ付けられ(?)外記においても取り計らいかね候を思し(おぼし)召され候。此れより、以来猶、心を用い候様(よう)申し聞くべき旨、仰せ付けられ、同月出府同二年(1802)六月罷り下り、文化二年(1806)十月御役付け数十年の間重き御役をも毎年出精(しゅっせい)相勤め候に付き、今まで下し置かれ候御足し高の内弐百石皆直ちに下し置かれ同五年(1805)七月堀丹右衛門跡御家老職仰せ付けられ、丹右衛門へ御預かり置き候大組をも、御預け遊ばるる旨、御直ちに仰せ渡され御足高五百石増し下し置き、同八年(1808)十月お預け置き成され候

《令和4.8.8》

御備組(おそなえぐみ)支配の義、お断り申し上げたく、内意の趣尊重に達し、願いのとおり、御免あそばされ、同九年(1809)二月当年江戸へ御留守居詰めとして出府同十年(1810)五月先年御側(おそば)帰陣行営調べ図式等差し上げ仕り候。ついては、一人にて別して骨を折り候に付き御紋付き薄御上下(かみしも)一具(いちぐ)下し置かるる旨病中に付き奉書を持って申し達し同年七月江戸において病死。

八代目 松野長熊儀外記嫡子にて候。寛政十二年(1801)正月御目見(おめみえ)仕り候。文化十年(1814)十二月三十一歳にて父に下し置かれ候御知行の内、御加増分は新知為り(なり)難く外記数十年の勤労に報じられ相違なく下し置かれ組外着座仰せ付けられ候。尤も(もっとも)座席郡九郎太郎次座つけられ候。同十一年(1815)五月匡(ただす)と改名

《令和4.8.9》

一 文化九年(1813)三月軍学馬術数年出精。両芸共に皆伝相済み且  つ、槍術出精相進み並びに学問も出精。射術剣術も相進み候段、尊重に達し心がけ宜しき儀と思し召し上げられ御紋付、御小袖下し置かれる。

文化十二年(1816)六月阿蘇御田御名代仰せ付けられ同十三年(1817)七月長岡岩之助跡御留守居大頭仰せ付けられ文政七年(1825)九月平野九郎衛門跡御備え頭仰せ付けられ御足し高千石下し置かれ、文政十二年(1830)十月後家老職仰せ付けられ御足し高五百石増し下され、小笠原美濃へお預かりおきなされ、御備え組もお預かり遊ばされ候。      ※ 出精 一生懸命頑張る、努力した。「横井小楠(しょうなん)」の本の中にも、「松野家老が、江戸で、横井小楠から、話を聞こうとしたこと・・」の記述がある。

《令和4.8.11》

天保二年(1832)三月出府同三年五月罷り下り同年六月御勝手方聞き上げ仰せつけられ小物成り方並びに櫨方(はぜかた)御銀印形など、且つ大御奉行、勤稜共(きんりょうとも)跡事(?)市郎兵衛通(かよい)仰せ付けられ同年十二月御預かれ置きなされ候御備え組支配の儀、内意の儀に付き、願いのとおり御免遊ばさるる旨、口達し(こうたつし)同五年(1835)三月大奉行の勤稜の儀も仰せつけ置かれ候処(ところ)この節、大御奉行は楯岡七左衛門に仰せ付けられ候間、右の勤稜は御免遊ばされ候。

《令和4.8.12》

同年(1835)五月楯岡七左衛門出府につき、留守中大御奉行の勤稜は??候様(よう)???同六年(1836)三月この度、二の御丸惣(そう=すべて?)御修復建て直し御普請御用相勤め候に付き、銀五十枚御時服(おんときふく)五つ、御羽織一つ下し置かるる旨檜の御間において松平周防守様仰せ渡され、同月右同断につき、御紋付御上下(かみしも)二具(ふたぐ)同御小袖三、同縮緬御袷羽織一、御前において、下し置かれ、名代不破太直(ふわふとなお)罷り出(いで)候なり。同年(1836)八月出府同年十二月諦了院(ていりょういん)様御供にて罷り下り同六年二月

《令和4.8.13》

去る春大阪表御借財片付け方一件の儀何角(なにかど)心配致し候に付き、二桐(ふたきり)御紋付袷裏付き上下一具下され置き、同九年(1839)八月御上納米の儀取り扱い候に付き、銀三十枚下され置く旨、柳の御間において水野越前守様仰せ渡され、名代長岡右衛門罷り出(い)で候なり。同十年(1840)二月溝口蔵人出府に付き留守中大御奉行の勤稜致し差し図り候様仰せ付けられ同年六月去る申年(さるのとし)以来、非常の凶荒(きょうこう)については忽(ことごとく)飢え御取り救い初められ(はじめられ)其の外御米?の儀も程々(ほどほど)申す談且つ大坂表御銀?の

《令和4.8.14》

儀についても何角心配致したると、召し上げ成され、五三の桐御紋付薄い御上下一具下され天保十年(1840)十二月松竹式部へお預かり置き成され候。大組御預かり遊ばさるる旨、九曜御間において申し渡し、同日、御勝手方聞き上げ御断り申し上げたき由、内意の書付尊重に達し候処、書面の趣、余儀なき様子に思し召し(おぼしめし)上げられ、願いのとおり御免遊ばさるる旨、詰めの間において達せら(れ)る。

《令和4.8.15》

同十一年(1841)五月西御丸御普請につき、御上納金御用相勤め(あいつとめ)候につき、御紋付御上下(かみしも)一具同袷(あわせ)一同、縮緬(ちりめん)御一単(ひとえ)羽織一、下し置かれ同年(1841)十二月下益城宇土八代海辺に於いて新地出来(でき)、このところ、初めて発す御勝手方聞き上げ(あげ)相勤め候内(そうろう、うち)心配致し候につき、九曜の御紋付御継ぎ上下一具下し置かるる旨、御直(おんじき)に仰せ渡され、同十三年(1843)八月病気につき、御役相勤め難く尊聴に達し候処(ところ)直に(じき)隠居仰せつけられ百人扶持(ぶち)下し置かる。

《令和4.8.16》

一 九代目

松野亘(わたる)儀右匡(ただす)嫡子にて文政八年(1826)正月御目見(おめみえ)仕り、天保十三年(1843)八月父へ下し置かれ候。御知行相違なく家屋敷共下し置かれ座席組外(ほか)仰せつけられ松井典膳跡座付け置かれ、天保十四年(1844)十月射術多年相変わらず心懸け(がけ)厚く出精槍術数年心懸け芸術相進み、馬術も多年心懸け射術は奥義(おうぎ)皆伝相済み段、尊聴に達し御紋付、御小袖一つ、下し置かれ、弘化四年(1848)三月清水但馬(たじま)跡御留守居大頭仰せつけられ、御役料米並み(まいなみ)のとおり下し置かれ、萬延二年(1862)二月座席持ち懸けにて大目付仰せつけられ文久元年(1862)六月御書出御用懸かり(かかり)勤め候につき、御紋付御上下二具、同御帷子(かたびら)一つ同二年(1862)五月御家老職仰せつけられ、御足高千五百石並びに御役料米並みの通り下し置かるる旨江戸において申し渡さる。

《令和4.8.17》

顕光院様  鳳台院様お供にて京都まで罷り候。同所において御用之(こ)れあり暫く滞京(たいきょう)仰せ付けられ、同三年(1863)三月罷り下(くだ)り同四年(1864)正月一昨年来非常の御用向き、差し湊(そうじ)(用事をあっちこっちいいつけられ)候に付いては地旅(じたび)に懸け(かけ)彼是(かれこれ)心労いたし候に付き、五三桐御紋付(?)横麻御上下一具二桐(?)御紋付御小袖一下し置かれ、元治(げんじ)元年(1864)十二月病気に付き願いのとおり、当御役御免遊ばされ、座席御格のとおり御留守居大頭同列仰せ付けられ、重き御役柄数年出精相勤め候に付き、紋付御小袖一同縮緬御袷羽織一下し置かれ、慶応二年(1866)六月病気に付き五十九歳にて隠居

《令和4.8.18》

一 十代目松野孫三郎儀右亘(わたる養子にて候。安政五年(1859)正月御目見(おめみえ)仕り文久四年(1865)三月犬追物(いぬおいもの)稽古心縣(こころがけ)厚く格別出精(努力した)芸術相進み候段御賞詞慶応元年(1865)十月居合(いあい)射術剣術数年心縣厚く出精馬術槍術も心縣孰茂(いずれも)芸術相進み且つ学問も出精相進み候段御賞詞。慶応二年(1866)六月父へ下し置かれ候。御知行御加増分は(隆為新知・・・新知として?)重役数年相勤め、且つ、孫三郎儀学問武芸心縣宜しく候に付き對(こたえ)らる相違なく家屋敷とも下し置かれ、座席上着座の定座に仰せ付けられ、市左衛門組に召し加えらる。

《令和4.8.19》

一 射術 正垣九十郎門弟にて安政五年(1859)目録相伝

一 居合 横田喜右衛門門弟にて文久二年(1862)奥義(おうぎ)相伝

一 剣術 横田清馬門弟にて嘉永六年(1854)目録相伝

一 馬術 久保又作門弟にて安政四年(1858)目録相伝

一 槍術 水足平九郎門弟にて元治元年(1864)目録相伝

右の外学問、今もって、講堂席において犬追物稽古

同(慶応二年か?)三年(1866?)正月阿蘇外宮御名代仰せ付けられ同年九月座席持ち縣けにて財津代三郎右衛門跡御番頭仰せ付けられ同四年(慶応三年か?1867)閏四月病気に付き願いのとおり、御役儀御免遊ばされ御留守居大頭組に召し加えられ明治二年(1869)正月京都並びに東京へ遊学として差し越され同年七月父看病として罷りくだり同年九月父看病として罷りくだり同年九月座席持ち縣けにて寺尾九郎衛門跡御番頭仰せ付けられ同年十月座席持ち縣けにて番士隊長仰せ付けられ大参事支配に召し加えられ同年十二月大木総馬隊に召し加えられ同三年(1870)三月不勝手に付き願いのとおり御役隊御免遊ばされ、直ちに大木総馬隊に召し加えられる。

以上で、「永青文庫」の先祖付け(大友松野右京家)は、ここで 終わり だが、この家の子孫の消息が、他の資料に出てくる。

《令和4.8.20》大分縣地方史 第136号 43p 「大友祖霊社建設計画と大友松野文書の行方」・・・甲斐素純  より

明治二十年(1887)松野直友が大分町に(熊本から)移住していた。直友が上京するにあたり、旧臣七名へ、「拙者今般上京致し候に付き、家祖伝来の物品別紙目録の通り貴殿等へ預け置き候間、不都合の儀、之無き様保護下され度(たく)最も神社落成の上は寶(宝)物(ほうもつ)として神殿へ納め候様取り計らい之ありたく、右両條及び御依頼候段相違之無き(こなき)候也  但し,物主預け先の儀は貴殿等の協議に任すものなり      明治十九年十一月十一日                  松野直友 首藤○○殿、外6名の名前                       前段の約定見届け候に付き后日(ごじつ)に至り互いに違為(いい)之無きため証人押印候也   明治十九年十一月廿二日    平塚   恰」

大友家宝物目録には古文書以外にも多くの資料、美術品が預けられた。

これらの史料等宝物類は、旧家来らによって、大友三代頼泰の菩提寺常楽寺に預けられた。しかし、大友神社の創建を企て失敗した常楽寺住職が、預かっていた文書等全ての宝物を入質したり、売却してしまったという。現在常楽寺所蔵の大友松野系図・文書類は入質先の造酒家大分郡庄内町から買戻しという。常楽寺住職談。

《令和4.8.22》

この大友松野家から、大友旧臣(大友一族)で,重臣で、鶴崎城主であった豊後鶴崎の吉岡氏(細川氏に仕え、医師)へ指示して、寛政元年(1789)吉岡鼎寿(ていじゅ)が作成した「大友由緒姓名記」がある。旧大友家臣の末裔を記録、注目されるのは、1700名近くの人名が列記されている。居住する町村ごとにまとめられている。藩領ごとにまとめて記録されている。

《令和4.8.23》

文禄二年(1593)5月大友吉統(義統)改易され、大友氏の豊後国支配は幕を閉じました。「姓名記」はそれから200年近くたった江戸時代後期に至っても大友氏との関係性を受け継いできた旧家臣が、豊後国内に広範囲に存在していたことを具体的に示す資料である。旧大友宗家の系譜を引く松野氏との間には、共に細川家臣となった以降も、以前のような主従関係が継続していたようだ。そして明治九年(1876)に松野氏が吉岡氏に宛てた書状には、以前から吉岡氏が「由緒触頭(ふれがしら)」という役割を担っていたことが記されている。江戸時代の豊後国では、松野氏を頂点とする旧大友家臣の緩やかな縦の関係性が、藩領を越えて存在していた。大友氏の「影」ともいうべき中世的世界の残存は、諸藩の支配にどのような影響を与えたのか。

《令和4.8.24》

寛政元年(1789)以前にも「姓名記」は存在し、「鼎寿改之」と記されている。鼎寿が之に改定を加えることができるほど、旧大友家臣の情報を幅広く把握しうる立場にあったことを示唆している。「吉岡家文書」に、そのカギを握る史料が残されている。                         由緒触頭之儀、御先代之通、不相替諸事宣御頼申上候也、                         

  明治九年三月十三日         松野直友(花押)                 

   吉岡仲達様

松野直友は、大友義統(吉統)の次男正照の末裔のあたる人物である。

《令和4.8.26 》 

大正十一年(   ) 四月○○日(日付なし)付け、大友大教会九州総本部、九州各県大友家調査事務所の名で、大分県判田 K K 殿 宛てに、葉書 ないしは 封書が出されている。内容は、能直公700年大祭を行うので、寄付を、4通りに呼びかけ、集めている。名前を記録したり、2円以上納めれば、能直公の御肖像入り徽章を配布すると書かれている。又、この人の、昔別れた家にも、大友義一の名で、大正十三年三月二十一日付けで、宗麟への追贈式が、津久見で行われるので、参加を呼びかけている。宗麟への、皇室から追贈は間違いなく行われている。大友大教会は、実際あったのか、不祥

                                    

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 


大友家一族

2016-02-05 22:16:23 | 歴史・家のルーツを知る

ルーツを知る

今村姓で大友氏と関係がある家が見つかりました。今村備後守義勝(1500年代・・・大友家臣)・・・豊後の武将です。 旧山崎村 今村太郎左衛門、今村勝右衛門兵蔵、今村柳蔵(1700年代)、明治時代 迫村 今村柳郎、明治大正、今村虎五郎、昭和平成今村秀雄(改め、日出夫・・・筆者の父)旧家臣合澤氏の奔走で、旧山崎村の今村家が分かりました。家系図が残っていて、大友氏より出たことや今村備後守も記述されていました。合澤氏には心から御礼申し上げます。山崎の今村家を探し、先祖が一緒の記述の家系図の持ち主をずっと探していました。本当に嬉しいです。父の里迫村のすぐ隣村でした。備後守の命日2月12日には、今でも毎年一族で義鑑の墓のところで参っているそうです。ここに、備後守の墓もあったと私(熊本今村)の家の過去帳に記述されています。先日、家内と吉弘神社に参り(春季大祭)、旧山崎村の今村氏宅へ伺い、話を聞いてきました。帰りに臼杵の義鑑公と今村備後の守義勝公の墓に詣でました。

2月にも先祖らに参りましたが、その時もいい事があり、今度も、家内が母校の別府短大に立ち寄ったところ、恩師と校内で、ばったり会ったそうです。全く偶然でした。2度とも、前日と打って変わり、天候が良かったのです。「先祖と義鑑公」おかげではなかったか、と思えてなりません。

新規投稿

色々あって、パソコンも苦手とあって、投稿しませんでしたが、アクセスが多いので、また、書き続けます。

昨年2020年(令和2年)11月末、大分市鶴崎の吉岡家を訪ねました。この家は、旧臣(大友氏一族)で、元鶴崎城主(大友氏時代)、後、江戸時代は細川藩士(熊本藩)で、鶴崎にいて御典医、明治以後は九大を出て、九大や大分大の学者だったそうです。大友氏改易後、大友松野氏(義統次男正照)家の指示で大友氏旧臣の名簿を、吉岡氏に作らせていました。

夕方遅かったのですが、丁寧に応対していただきました。コロナが終わり次第、清田氏と再度、訪れたいと思っています。

  今年の4月に、鶴崎の吉岡家を訪ねる予定だったが、コロナで、延び延びになり、今に、至った。コロナが九州は、だいぶん、おさまったので、いこうとおもったが、一緒に行く予定の二子石氏、曰く、大分の知り合いが「まだ、来てくれるな。」と、言ったというので、まだ、行きそびれている。

 それにしても、私の周囲の大友氏関係者は、大変に元気がよい。清田氏は、持病があるが、かくしゃくとしている。私より、数年年上だが、熊本市内中を単車で飛び回っている。吉弘氏は約91歳ぐらいで、健軍から、熊本市内の東から、南の端の川尻まで、(ほぼ、十数キロ)月2回も約十年位「古文書の勉強」の通っている。両家とも、兄弟(姉妹)が、100歳近くになるという。