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大沼法竜師に学ぶ

故大沼法竜師の御著書を拝読させていただく

真田増丸「信念の叫び」

2008-01-31 11:25:10 | Weblog
三界に家なき私どもは、ここに一転すれば三界はみな我がものとはなるのである。

蓮如上人のお言葉に
弥陀をたのめば、南無阿弥陀仏の主になるなり
と、南無阿弥陀仏の主となるといふは、信心を得ることである。

ああ、天は破れ地は壊はれ、山川はくづるるといへども、
動かざる金剛堅固の、南無阿弥陀仏の家に住む身は、幸なるかな幸なるかな
(真田増丸「信念の叫び」p.27-28)

真田増丸「信念の叫び」

2008-01-31 11:23:59 | Weblog
人々よ、
人の力をたのむものは、その人の倒れる時、共に倒れるものである。
金の力をたのむものは、金がなくなると共に倒れてしまふものである。
位の力をたのむものは、位の失はれた時に倒れてしまふものである。
名誉の力をたのむものは、名誉を失った時倒れてしまふものである。
我れをたのむものは、その心の倒れるとともに倒れてしまふものである。

然るに然るに、仏をたのむものは、我が心は倒れても世界の一切が倒れても、
仏心なるが故に、倒れることはないのである。

ああ、人々よ、心を弘誓の仏地に樹てよ!
(真田増丸「信念の叫び」p.19-20)

真田増丸「信念の叫び」

2008-01-31 11:22:52 | Weblog
知らずや、生死事大にして無常迅速なることを!!
死に対しては毀誉褒貶いづこにかある。敵も味方もない。
真に人生を真面目にするものは実に死の一大事である。
(真田増丸「信念の叫び」p.4-5)

真田増丸「信念の叫び」

2008-01-31 11:21:28 | Weblog
ひととうまれしそのかひは!
ほとけのみちをきくにきはまる!

万事に打ち勝って、真に永遠に生くるの大法を求めよ!
身をすてて求むる心より信は得らるるのである。

たとひ大千世界に
みてらん火をすぎゆきて
仏の名をきく人は
永く不退にかなふなり

火の中を わけても法を聞くべきに
雨風雪は物のかずかは

信仰のない人は、船主をもたぬ船の如く、また御者の居ない馬のやうなものである。
彼は魂のおちつく家を持たないものである。
(真田増丸「信念の叫び」p.1-2)

真田増丸と大沼法竜

2008-01-31 11:19:20 | Weblog
「大正の親鸞」とまで言われた真田増丸の遺著「信念の叫び」から
いくつか抜粋していく。
「歓喜の余滴」には真田師の法話を聞きにいかれた旨が書かれているから
おそらく真田増丸師は大沼師に多大な影響を与えていると思われる。

大沼法龍師略歴

2008-01-16 11:29:34 | Weblog
手元にある資料に基づいてわかる範囲で大沼法龍師の略歴を記したいと思う。

○『歓喜の余滴 上巻』p.23 に大正13年(1924)1月の時点で
「満28歳」という記述があることから
誕生日を迎えたばかりであれば1896年生まれ、そうでなければ1895年生となる。
インターネット上には
*1895年生(明治28年) 北九州に生まれる
の記述が見える。

○同『歓喜の余滴 上巻』p.23 に「予科が2年、本科が3年、研究科が3年」とあり
さらに「いよいよ懐しい大学を去らねばならない時がきた」とあるから
研究科卒業が1924年となる。
ここから逆算して、予科時代が1916-1918年、本科時代が1918-1921年、
研究科時代が1921-1924年となる。
インターネット上には
*大正10年3月仏教大学本科卒業
の記述が見える。

○中学は広島の第四仏教中学

○母の名は村岡美和。山口県岩国市の生。
昭和23年8月14日没77歳
大沼法龍師は「母は善知識であった」とくり返し著書の中で述べている。
また「光に向って進む者は栄え、闇に向って走る者は滅ぶ」は母の言葉だったようだ。

○敬行寺へは養子で入ったようだ。結婚前の名は村岡法龍だろう。

○妻の名前は芳子。『歓喜の余滴 中巻』p.1 に昭和2年10月の時点で
亡くなって10ヶ月とある。

○昭和51年4月17日午前5時ごろ還浄される

○南本願寺事件が有名か。
インターネット上には
宗教法人「親鸞会館」を設立、代表役員として活動。
の記述が見える。

○著書は30点

1. おやごころ
2. 思ひの侭
3. 入信の道程
4. 他力信仰録
5. 魂のささやき
6. 歓喜の余滴(三巻)
7. 歓喜の泉
8. 随想録
9. 原稿集
10. 光輪
11. 本派本願寺の危機 どちらが異安心か
12. 聖典
13. 法界
14. 明闇
15. 信仰に悩める人々へ
16. 親鸞聖人に聴く
17. 昭和の歎異鈔
18. 末代の灯明台
19. 遺訓
20. 聖訓
21. 慈訓
22. 教訓
23. 宗訓
24. 方便より真実へ 浄土真宗
25. 心の転換
26. 広大難思の大慶喜
27. 六方礼経の講話
28. 八万の法蔵は聞の一字に摂まる
29. 分陀利華
30. 宝典

南本願寺事件

2007-11-03 04:23:41 | Weblog
ある人が「宗論に勝った証拠に破門され」と洒落ている。
勧学連中にわからないことを言えば、追放するのが、
自分たちの椅子を守る安全策だ。

それなら南本願寺として独立すると宣伝してから、
三週間で四千五百の門徒が加入したので、
書類を県庁に提出した。
驚いて総務部長は文部省に出張、文部省は
本山の総務を招喚して、僅か三週間で、
これでは早く手を打たないと、七百回忌の法要に
支障を来たしはせぬかと注意した。
当局は驚いて、新旧教務所長と組長とを私のところへ派遣して、
「本山は異安心と言ったのではない、七百回忌の法要が終われば
破門は解くから、南本願寺の独立は思い止まって欲しい」
と歎願したから中止したのだが、
あれがペテンとは知らなんだ。
(『八万の法蔵は聞の一字に摂まる』p.274-275)

八万の法蔵は聞の一字に摂まる

2007-10-26 12:38:33 | Weblog
孫が「お爺さん、お話をして。」
「何のお話をしようか。」
「何でもよい。」
「桃太郎のお話をしよう。」と始めると、孫が質問を始めた。
「昔昔というのは、紀元前かね、紀元後かね。」
「俺が知るか。」
「あるところというのは、山口県かね、北海道かね。」
「黙って聞かんかい。」
「お爺さんお婆さんの名前は、何と言ったね、年はいくつかね。」
「そんなことはどうでもよい。」
「人間が生まれるような桃は、どこに生っていたろうか。」
「話だから黙ってきけ。」
こういうふうで、孫の質問には辟易している、と私に愚痴をこぼす。
「お爺さん、この話はね、昔昔とは、いつでもよいから昔昔というの、
日本国なら何処でもよいから、あるところと言うの、
若い夫婦に子供が生まれたと言えば、どこから産まれるかと質問されたら
困るから、桃が流れてきたというのよ。
生まれた子供は男でも女でも、智仁勇の三徳を具えていなければいけない
というのよ。・・・犬とは勇気、猿とは智慧、雉とは情け・・・」(p.258-259)

八万の法蔵は聞の一字に摂まる

2007-10-23 14:38:00 | Weblog
仏智が満入したのが帰入功徳大宝海だ、開入本願大智海だ、
真実功徳大宝海の名号と一体になったときが大信心海だ、
大信心海から流出する称名には、つきることがないのだ。
それを「憶念の心常にして仏恩報ずる思いあり、
信に信功なく行に行功なし」だから、みな願海にかえる。
名号が私の耳から腹を通り、口に溢れて願海にかえる、
信ずる心も念ずる心もみな阿弥陀仏の独りばたらきとなり、
私はそれに動かされているだけです。 (p.107)

八万の法蔵は聞の一字に摂まる

2007-10-23 14:25:38 | Weblog
山の上の宗教を山の下の宗教にされたこと、これは『紫雲殿縁起』にあります。
それによると、二十六歳のとき京都より叡山に帰られるとき、
赤山明神の側で美しい女性が顕われ、
「善信房さま、私はこの山に登りたいのですが、
お伴させてはいただけないでしょうか。」という。
そこで善信房は、
「ご承知ないのですか、この山は結界の地と申しまして、五障三従の女人は
登ることは禁止されてあるのです。」
「伝教大師ほどの大学者が『涅槃経』のなかの「一切衆生悉有仏性」の
文字が読めなかったのでしょうか。この山の上には、鳥も獣も牝はいませんか。
鳥や獣の牝がいるのに、なぜ人間の女人が登ってはいけないのでしょうか。
それが規則なら登ることは諦めますが、あなたは末代の智者でございます、
この道理をよく弁えておいて下さいませ。いくら山の上の池に水を湛えていましても、
谷川を流れて田地を潤さなかったら、池の水も役に立ちません。
山の上で僧侶が修行して、証を開かれても、家庭に流れて、家庭の男女が
救われなければ、宗教の価値も有り難さも、一般に伝えることができないでしょう。
これは記念に差し上げます」 (p.100-101)