大沼法竜師に学ぶ

故大沼法竜師の御著書を拝読させていただく

魂のささやき

2008-09-22 12:45:06 | Weblog
47 一念の決勝点

 後生は一大事と口では言ってるけれども小指が折れた程にも考えて居ない。
何は措いても聞かねばならんと言いつつもお寺を年寄の遊び場位にしか
考えて居ない。信心戴かねばならんと言いつつも何時とはなしと槍放しにしたり、
一人合点できめ込んで居る。
唯じゃ唯じゃと言いつつ、悪性に蓋をして法水を注ぐから佛智満入する時がない。
 何故だろう。何故だろう。何故一大事をかけて聞かないのであろうか。
何故法龍ははっきりと教え得ないのだろう。
あれだけ鮮かな本願じゃもの。あれ程切れ味のよい勅命ではないか。
助けるに間違いがないと言う勅命が届いたのなら助かるに間違いがないと
満足出来ねば如実の信ではない。
如実の信の上からの起居動作でなければ一切の作業は
悉く自力の域を離るる事が出来ない。
この真仮の分斎を混淆して現在の儘の浮き雲の様な教化では、
今後二十年を出ない内に真宗は破滅するぞ。
何故真剣にならないのか。
絶対の信仰の前には覚えたのも、知ったのも、合点したのも、
信じたと腰掛けたのも、すなおらしくしているのも、疑うまいとするのも、
皆役に立たない事も知って居るだろう。
唯も唯になるまで聞かなければ唯には成らない。
他力も他力に成る迄聞かなければ他力には成らない。
易いも自力の蓋をして、その儘ごかしにする易いのではなく、
私の儘が南無阿弥陀佛の易さでなければ絶対とは言えない事も御承知であろうに、
何故よい加減に信仰の妥協をするのであろうか。
 信念の溢れを語る説教でなければ人を動かすことは出来ない。
大衆に迎合する様な調子を合わして賑かに派手にするのが
真宗の盛大さを物語るものではない。
一宗の繁昌は導く僧侶の信念如何にあるのだ。
姿の僧侶よりも心の僧侶、真佛弟子と成って殉教してこそ僧侶の本分ではないか。
法龍は自分の信念を発表して受ける迫害なら破門でも流罪でも死罪でも、
甘んじて受ける。地獄一定の魂が救済された大自覚は誰様の前でも遠慮なく
叫ばずには居られない。
法龍自身の後生は一大事とスタートを切って見れば
一念一刹那も清浄の心もなく真実の心もなく三塗めがけて走り込む姿、
じっとして居らるるか、泣かずに居らるるか、求めずに居らるるか。
この法龍の血みどろの姿、この不実一ぱいを不実の儘で許して下さる
大慈悲の声なき声に呼びさまされ、魂の底から湧き出づる感謝の涙、
往生は一定の決勝点に入った嬉しさには飛上って喜んだぞ。
罪障の軽い善人なら、晴れたか晴れぬか判るまいけれども、
法龍の親は夜が明けたとも日が暮れたとも判らない様な水臭い親ではない。
 調熟の光明に照されて動きの取れぬ罪悪を見せつけられ、
にっちもさっちもならぬ心を見貫いた親じゃぞー の叫び声一つで満足し、
久遠劫から法龍一人に成就した名号と名乗を挙げた時、親も正覚取ったのではないか。
親に逢うて逢うた刹那の味を知らんでよいか。
広大勝解の者とか、この人を分陀利華と名づくとか、
妙好人とか希有人とか讃められて、とぼけて居てもかまわぬか。
平生に業事成弁して他人事の話で済まされるか。
久遠劫からの重荷とられて晴れたか晴れぬか判らぬでもよいか。
死刑の罪人が無罪放免を慶ばずに居らるるか。
無明の闇が晴れてもはっきりせんでよいか。電燈はついてもまだ暗いか。
佛智満入して魂一つが正定聚の菩薩の自覚を得さして貰っても
明かになれないなりでよいか。
凡夫にははっきりした事はないと言うが、信一念の決勝点に入っていない証拠じゃ。
凡夫には信一念はわからぬと言うが時間の事か妙味の事か、
凡夫にはわかるまいが、信受本願前念命終、即得往生後念即生を体験し、
正定聚不退転に住して居る者なら一念の味ははっきりわかる。
併し今が一念じゃぞー と時間の前触はして来ないぞ。
実地に胸と相談するが一番好い。胸以外で法を並べても死物じゃ。猫に小判じゃ。
私の心が満足してこそ、法も生きるのではないか。
私の往生と佛の正覚は同時じゃぞ。しかも一念で解決は付くのじゃぞ。
わかる、わからんの文句があるか。
わからん者には判らんのが本当。わかった者には判ったのが本当。
第十八願成就の文には、

  聞其名号信心歓喜乃至一念

と説き、三輩の文には

  若聞深法歓喜信楽不生疑惑乃至一念

と教え、聖人は

  信の一念とは信楽開発の時剋の極促を彰し、広大難思の慶心を顕はす。

に仰せられ、又口伝抄には処々に一念を説き、
蓮如上人は領解文に

  たのむ一念の時往生一定お助け治定と存じ

又、御文章の処々に

  一念の信定まらん輩は、十人は十人ながら、百人は百人ながら

と申さるるのは、御教化のみや、空論ではあるまい。
実地自分の魂が白状し救済さるる自覚を得たから、
信楽開発と同時に雑修や自力の心の手が離れたのである。
 決勝点に入らなければ六字の優勝旗が我物には成らないぞ。
一切の群生海から選ばれた必堕無間の選手じゃないか。
祖先の人達を代表して聞きに出て居るチャンピオンではないか。
何故月桂冠を求めない。何故永遠の生命に憧憬しない。
進め進め解決の付く迄、仮令火の中でも水の中でも、
取とめのつかない散乱放逸の心が無形の親の念力と一体になるまで、
無形と無形、魂と魂、煩悩即菩提、不実即真実、穢悪即清浄、佛凡一体の境地まで、
信仰の道程にも関所が多い、(「入信の道程」を参照)
難関を突破するのだから難中の難ではないか。
恒沙の諸佛の証明を要するから極難信ではないか。
自力の執心が離れないから、
「無上の妙果成じ難きには非ず、真実の浄信実に獲ること難し」
ではないか。
多くの難関、多くの障害物を通り貫けて、一念の決勝点に入った時からが
あら心得易の安心や、あら行き易のお浄土や。
私の動く儘が南無阿弥陀佛じゃ。本願や行者・行者や本願と苦抜けした大自覚、
それから後が生命掛の奮闘報謝の生活となるのであるぞ。
(『魂のささやき』p.110-116)