大沼法竜師に学ぶ

故大沼法竜師の御著書を拝読させていただく

魂のささやき

2008-10-03 14:57:12 | Weblog
48 生花信心

 真宗には信者は多いけれども生花信心が多い。
盛られ飾られた花は美しいけれども根が無いから実を結ばない。
安価な妥協でなく、尻馬に乗る合点でなく、自己の魂の解決の付く迄、
本当に道を求めた真剣味の有る御同朋なら実を結ぶ事が出来るのである。
一体信仰をどんなに考えているだろうか。
内に向いて有難うなったのが信仰か、
外に向いて御報謝の出来る様に成ったのが信仰か、
共に眼目を失い、根本を誤って居るから信仰の本質に触れて居ない。
何故なれば自分は有難うなり得る根機であろうか。報謝し得る人間であろうか。
静かに考えて見れば感情だけの有難いものに誤魔化されては居ないか。
悪魔は決して悪魔の姿をして騙さない、すなおらしい心に騙されては居ないか。
其儘と聞いて其儘になっているか、唯と聞いて唯に成って居るか。
自分が自分に詐されてはいないか。自分の胸を見ずに有難い方ばかり見て
何時自分の腹が満足するか、自分に救われた自覚が有るか、決定がついたか、
自信があるか、真仮の分斎が明かに立ったか、苦悩の心が楽に成ったか、
絶対のお慈悲が届いたか。念には念を押して聞かねば目は覚めない。
他力も他力になるまで聞かねば他力には成らない。
覚えたり知ったりして次の様な気持ちだけでは未だ信心に決定がついては居ないのである。
 (1)佛様の仰せには間違いが無いのだから疑うては居ない。
併し佛様の仰せには間違いはないが魂様が臨終に成って機済みがしないと言って
間違うから始末が付かなくなる。
 (2)自分の機を見るから何時迄経っても決定が付かない。
而し機を見ないのは有難くて賑かで花やかであるが、根がないから八十年経っても
機を見れば不定の思いがする。
 (3)十劫の昔に機法一体に成就してあるから法を見ればよい。
併し今迄迷うているのは理屈は成就していても私のものになっていないからである。
私の上に今一体の自覚がなければ満足は出来ない。
 (4)凡夫は死んでからの往生じゃから今は明かな事はない。
併し死んだ後は弥陀同体の証を開くのじゃが、現在決定往生の約束が出来なければ
正定聚の分人とは言えまい。
 (5)戴いた戴かぬは親が知っている。
併し親が知っている安心なら佛智満入の時子供も知らなければ一体ではあるまい。
 (6)往生の一段は凡夫の計うべき事に非ず、佛智の不思議と信じたらよい。
併しそう合点しても計らうまいと計い、疑うまいと疑い、思うまいと思う心は
どうしたらよいか。
 (7)文句言う人は宿善がない。
併し不実の心が続々出るのに宿善がないと諦める訳には行くまい。
 (8)堕ちる者をお助けと思い、御恩報謝さしていただくのが真の同行である。
併し機と法と並べてそう思わねばならんお慈悲でもあるまい。
又一念の信の解決が付かずに、報謝々々と務めていると、
何時とはなしに雑修の仲間入りをするであろう。
 (9)判らんその儘を、お助けと安心したらよい。
併し無理矢理に安心を塗るけれども、そのままごかしでは合点まではするけれども、
自由の天地には遊べない。判らんと言う心が判らんのであるから、
判らん心が判らんと判るまで、行かなければ判らん心は判らん。
 (10)何もかも御恩と思うている。
併し思わなくなったらどうするか。
 単にうわべを繕い悪い心を御承知でと蓋をして自分を抜きにして法ばかり見て、
御教化を知って美しい花を飾り他人の言葉を覚え、善知識の証明で薄暗い心を押え、
その儘と仰有るから疑わない様にして、と腫物にでも触れる様にし、
強く握れば崩れそうに成り、軟く握れば離れそうになる。
根のない浮草の様な信仰を持って居るのが真宗同行の九分九厘までではあるまいか。
そうしか思えない同行なら仕方がないが、私は根性が悪いから、
まだまだ底の方に「てれっとした」自分ながら判らん心が居たのに気付かせて頂いた。
自惚強い私に見える迄、調熟の光明に照されて来たのであった。
さあ後生は一大事!!唯が判らん、其儘が判らん、判らんという心が判らん、
他人事に有難がって居た時には真剣でなかったが、自分の心に火が付いて見れば、
思わして貰うて居る位では済まなんだ。
学問もしている、御教化も知って居る、三信、三心、一心、憶念、三不三信、
無上信心、二種深心、信疑決判、三信釈も机の上で講義を聞き、
合点して脳味噌に畳みこみ、信じさして戴いた積りで居たけれども、
潮の様に押寄せて来る散乱粗動の心の前には、知ったのも覚えたのも、
心得たのも、戴いたのも、三文の価値は無かった。
其時の苦悩の心は千尋の谷底に蹴落された様な心持で、身に添う善根は微塵もなく、
知らん顔している心、地団駄踏む悪性見れば見る程地獄一定、
やめるにやめられず、進むに進まれず、御飯も進まず、睡入られもせず、
一週間は寝食を忘れ、無我夢中、真に生命がけで求めていた。
(第四編入信の道程に詳し)
立って居る儘が火の世界ではないか。苦悩の心の儘が火柱抱えた姿ではないか、
この姿、この魂、法龍の五尺の体が火を吐いて居るではないかと、
自分へ立ち戻った時の恐しさ。
その一刹那々々が火に焼かれる思いであった。
最後の叫びは恐ろしい呪いであった、
教えて呉れる知識はないか、救うて呉れる佛はないか、
只と言っても、此の様に苦しまねばならんとすれば、何処に只があるか。
泣くに涙なく、叫ぶに声の尽きた時、(之から先は体験だから、言っても判らん)
地獄一定の儘が、極楽一定の大自覚は底が知れないから、高さも知れない不思議。
其の一瞬時から心機は一転して底を叩いた法龍が極楽一定の大自覚を獲た。
暫くの間は嬉し涙で声も出ず、唯じゃ唯じゃと踊り舞いして慶んだ。
 (1)疑うまい疑うまいと思うて居た恥しさ、
疑いなく堕ちる法龍が疑いなく助ける親に抱かれて疑いなく本国に帰るので御座いましたか。
 (2)親様すみませなんだすみませなんだ
自分の機も知らずに此の儘此の儘と臭い物に蓋をして居ましたが、
本当に箸にも棒にも掛らん此儘で御座いました。
 (3)十劫已来うわつらばかり聞いてすなおらしく粧うて却って親様を泣かしましたが、
私がうんと言って上げなければ、親様も正覚お取りなさらなかったので御座いますか。
法龍の往生が決まらなければ親も正覚取らないとはどうしたよい親であったろうか。
 (4)この大自覚は死んで得らるるのかと思って居ましたら、即得往生住不退転、
現生に不退の位に住するとは。
 (5)親子の名乗が挙って見れば、親の物は法龍の物、
親の苦労も今こそ明かに知られました。
 (6)本に佛様のお助けの方は計ひませんでしたが、私のきかん機を計うて居ました。
愈々唯になって見れば動く儘が親様に計われて居るので御座いました。
 (7)死人同様の無宿善の法龍が廻心皆往とふりかえり、
無量寿の生命を得さして頂き、生死の苦海が希望に満ちた光明の広海に転じたとは、
佛智の不思議で御座います。
 (8)まあまあこんなお粗末な心で実機も見ずに御恩報謝なんど大それた事ばかり
申してゐましたが、御恩報謝どころか、御恩知らずでございます。
 (9)判らん心ですごすご堕ちるを見抜いて唯じゃの勅命一つで。
 (10)この幸福を得た現在は、動く儘が南無阿弥陀佛であります。
佛恩、師恩、衆生の恩、天地の恵み、父母の恩、しみじみと感ぜずには
居られませんと、全身汗みどろになり、合掌してお礼申上げた。
嗚呼現在のこの心六字と一体のこの魂。
思わにゃならぬ思ひでなく、繕はにゃならぬ考えでもなく、
声もなく姿もないけれども心の底からほとばしり出る信念は、
やむにやまれぬものがある。
堕ちとも無いの恐れもなく、往生せねばならんの力みもなく
堕ちりゃ元々、上りゃ不思議、飾る事もいらなければ、諂う必要もない。
善悪浄穢を離れ、倫理道徳を超越し、心を弘誓の佛地に樹て、
無碍の大道を闊歩し得るこの心、これ程広大な境地があろうとは夢にも知らなんだ。
血みどろに求めた法龍は、血みどろになって倒るるまで名号不思議の念力を
人に注がなければならない。
葉は枯れ花は散り枝は折れても土に思いの根は残る。
若しこの広大難思の慶心を説くのが悪ければ、罵詈讒言譴責破門、あらゆる迫害も蒙ろう。
一切の人々の中に自分の罪悪の程も知らず、法の手元を覚えて善人らしく、
報謝が出来るらしく、誤魔化して居らるる同行、何の煩悶もなく、何の苦痛もなく、
唯を唯と知って居らるる信者達が有ったならば気の毒ではないか、
逆境に立たず、悲劇に逢わない間は調子合わしても行かれれようが、
今臨終となり、感情は間に合わず、実地問題になった時は、
如何に御教化の花は飾り立てて有っても、根本がないから後生の一大事の関所は越せないぞ。
泣くに泣かれん不実の心が救済された大自覚がなければ生命掛けの奮闘は出来ないぞ。
(『魂のささやき』p.116-125)