大沼法竜師に学ぶ

故大沼法竜師の御著書を拝読させていただく

魂のささやき

2008-05-31 10:37:16 | Weblog
25 凡夫じゃ参れんぞ

 凡夫では参られない。それなら善人や聖者が救われるのか。
いいや。凡夫というのは信の一念を貫かれるまでの話。
親の念力に生きた時は心一つは、正定聚の菩薩じゃ。
親子の名乗が揚って居なければ往生は出来ないぞ。
真に往生は一定なりの大自覚を得て本願や名号、名号や本願、
本願や行者、行者や本願と踊躍歓喜し、乃至一念の妙味を体験した人なら
凡夫にははっきりしたことはないの、明らかな事は判らんの、
暗いなりそれが凡夫じゃ、只じゃ只じゃと上から撫でる様な事は教えない筈である。
聞く方にも、この位の事は凡夫じゃからといって我儘するが、
凡夫とは佛様のおっしゃる言葉で吾々の遁辞ではない。
それも凡夫、これも凡夫では往生出来ないぞ。
聞信の一念に心が正定聚の菩薩になっていなければ親の里には帰れないぞ。
佛と言う結果は開かないのだ。
(『魂のささやき』p.59-60)

魂のささやき

2008-05-30 13:00:39 | Weblog
24 三度の食事よりも

 人は三度の食事をして働いているのに、
私は三度の食事をして睡っていてはすまない。
真宗を亡ぼす者は外教徒でもなく異教徒でもない。
流れを汲む自宗の道俗が慎まなければならない。
真宗の寺院に信仰がなくなっては破滅である。
法施の有る処は自から財施は集まり衣食住の贅沢せねば
満足な生活はさして頂けるのだ。
宗教も勿論実地でなければ人の心に徹底しない。
疑った者でなければ晴れた嬉しさは無い。
溺れた者でなければ救われた嬉しさはない。
真の親に貫かれた大満足の有る者は三度の食事は二度になっても
自信を打出して広大な威徳を讃嘆せずにはいられない。
(『魂のささやき』p.58-59)

魂のささやき

2008-05-29 13:23:51 | Weblog
23 八幡の教田から耕さねば

 私は布教布教と言って遠方へ説教に出てはすまない。
佛様から教化せよと預った自分の門徒の教化が済んでいないのだ。
昔から所士、他所坊主と言って、士は自分の土地でなければ威張れない。
僧侶は身の行状を知られている自分の土地ではもてない。
そんな事では僧侶としての責任が果せない。
救われた嬉しさには先ず門徒から目醒めさして上げるのが本当ではなかろうか。
未だ切り詰むれば寺内から信仰は生きなければならない。
真の自覚を得れば覚他と働く。覚他は即ち常行大悲である。
自覚を得たものがじっとしていられるものかい。
底の知れない喜びが出て来るのだもの。
一切を超越した大慈悲心が働いて来るのだもの。
火の中に飛びこんでも大法を宣布せねばならんと言う勇猛心は奔る。
この意気、この念力、何処から出るか自分にも判らない。
唯々進め進めと、腹の底で唸っている。朝から晩まで活動してもまだ足りない。
身体や声の続く限り心臓の破るるまで有縁の教田から耕さねばならん。
(『魂のささやき』p.57-58)

魂のささやき

2008-05-29 13:23:08 | Weblog
22 法と討死

 自分の職業に満足し得るものは幸福である。
「たのむ一念のとき往生は一定」
絶対の悪の法龍のこのままが、信の一念に貫かれ、
身心共に南無阿弥陀佛を体験した時、体験の言葉が悪ければ
佛智満入の一刹那、佛凡一体の妙味を得て、
一切の苦悩も疑雲も一時に消滅した。この嬉しさは広大難思の慶心である。
この偉大な力に動かされて無碍の大道を猛進する時は敵はない。
小さく打てば小さく響き大きく打てば大きく響く。
求道者に逢えば益々精進に勧め、誹謗に逢えば身命を賭して之に向う。
日々猛進、時々精進、法龍一日の懈怠は一人三悪道へ帰らしているのである。
大なる責任を持つ法龍は一時も休息は出来ない。倒るる迄進まずにはいられない。
求道者の為に生きて居る法龍の血を求道者の上に注がなければならない。
集り来れ一切の人々、救済される迄は死すとも法龍は動かぬぞ。
この心も自分が救われた嬉しさからだ。法の為に討死するのが私の幸福なのだ。
(『魂のささやき』p.56-57)

魂のささやき

2008-05-28 13:38:30 | Weblog
21 進まずに居られない

 何人のおはしますかは知らねども
     呼びさまされて念佛の声。

 南無阿弥陀佛、南無阿弥陀佛、南無阿弥陀佛、南無阿弥陀佛、
何が何やらさっぱり判らん。西も東もさっぱり判らん。自分自身もさっぱり判らん。
妄想転倒の不実一杯の中からぶつぶつ(佛佛)と浮かんで来るのじゃから
不思議でたまらない。平生は何ともない。又何にもない。つづめもつかない。
しかし高座に上れば言わんでもよい人の腹の底まで話さにゃならんごとなって
話は尽きない。何にも無いからいくらでもある。
不思議ではないか。絶対ではないか。
声なき声に呼びさまされては動かずに居られない。進まずに居られない。
此の偉大な念力を渇ける人々に注がずにいられない。
底の知れない煩悩が高さの知れない菩提心となった今は、
菩提心は度衆生心と代り、常行大悲と働き、無形の力、自然の力に運ばれて、
一切の繋縛の難関を突破せずにはいられない。
南無阿弥陀佛、南無阿弥陀佛。
(『魂のささやき』p.55-56)

魂のささやき

2008-05-27 20:32:57 | Weblog
20 佛様を焼いた

 六月十五日から九月十五日まで満九十日夏中説教に正信偈の講義を始めた。
最初に婆さんが、久遠劫から親様を泣かした上に火事にあって
親様まで焼きましてお詫びの申しようがありません。
如何に考えたら好いでしょうかと尋ねた。本当にすまんことをしたなあ。
幾万劫も腹の中で親様を焼いて来て、まだ足りないでお姿まで焼いたとは、
底の知れない悪人じゃなあ。併し貴女よりも私はまだまだ罪が深い。
救われた今も、一生終るまでも毎日毎時焼き通しに焼いて居るのでございます。
姿の佛様は真実の世界にお帰りになりますから焼かれはなさらないが、
私達は心に佛様を縛りつけて焼いて居るのですから懺悔せずには居られません。
(『魂のささやき』p.54-55)

魂のささやき

2008-05-27 20:32:11 | Weblog
19 生かす念力

 聖人はよせかけよせかけ帰らんに同じと仰せられ、
真田先生は極楽から日帰りじゃと申された。
法龍は行って帰りよったらおそいから今の一息々々に常行大悲をやらして頂く。
動かん煩悩の中から不思議な念力が吹き出して来る。
進め進め今日の一日、私には明日は無い。
今日遊んでは目を閉じた時親に讃められた時恥かしい。
親の里に帰るまで華々しい活動をせずに居られるかい。
親が大きいから子供も大きい。親が三千大千世界に満ちて居るから
私の心は十方世界を丸呑みにして居る。
極楽に帰って何でじっとして居られるものかい。活動そのものが愉快なのだ。
親の使いは幾度でも八千遍や九千遍でおかるるかい。
有情悉くを佛にするまで進め進め、法味楽法味楽、救われた者の心境、
生みの親、育ての両親に合掌せずに居られない。
自己に満足した時一切の有情を拝み得る。
(『魂のささやき』p.53-54)

魂のささやき

2008-05-26 13:50:31 | Weblog
18 真の幸福

 自分の職務に満足して倒るる者は幸福である。自己に満足し得ない者は
佛智満入の決定心がないのだ。
 死にさえすれば往生と思う安価な満足ではない。自己の起居動作総てが
如来の指図によって動き、如来様に計らわれて進む姿こそ真実生きた如来の姿である。
法龍は法務に倒るるを満足とする。最後の一息に至るまで法話をせずに居られない。
煩悶者救済の大使命を帯びて居る。此の苦悩を除く事が私の満足である。
依って私は職務に倒るる事が満足である。
(『魂のささやき』p.52-53)

魂のささやき

2008-05-26 13:49:47 | Weblog
17 二度びっくり

 今までは随分お座を重ねて居られるが、
聞き抜けないで困って居る同行が多いが、まだまだ真剣が足りない。
火の付く様に求めて見れば求める程、底の知れない悪業に一度びっくり。
この不実一杯が唯じゃと、開いた口が塞がらん間に佛に成って二度びっくり。
絶対の悪に驚いたものが、絶対の善に驚く。
唯除五逆誹謗正法の不実者が、若不生者の血汐に生きる。
出離の縁なき者が、疑いなく慮りなく、乗彼願力する。
極悪最下の機根が極善最上の風光を味う。
絶対不二の機と、絶対不二の法は一体である。
地獄は一定住家ぞかしを実感したものが、五劫思惟の本願を体験する。
学問で理屈を知ったのでは、びっくりしないが、
実地問題になれば必ず二度びっくりする。
(『魂のささやき』p.51-52)

魂のささやき

2008-05-25 13:07:03 | Weblog
16 凡夫一杯

 胸を見ると手間が掛ると教えられて法のお手許ばかり
三十年も五十年も聞いても苦抜がせんで困って居る人が多いが、
救われる相手の実機が光明に照され知れないで
真実の親の念力が聞こえるものかい。
極善最上の法と極悪最下の機と均等に教えなくて、
真実の二種深心の妙味が得らるるものではない。
十劫の昔に機法一体に成就して有るから絶対不二の法さえ教うれば
機が知れると言うならば、絶対不二の機のみ教えても法が知れる筈ではないか。
機ばかり見れば「信機秘事」「地獄秘事」と言うなら、法ばかり説けば
「本願ぼこり」「法体募り」になりはせぬか。
天上の月ばかり説かずに宿るべき胸を教えたらよいではないか。
十悪五逆五障三従と言えば、直に丸呑みにしてこんな徒者をと
信玄袋に一緒に道具をねじこんだ如く、他人の事の様に聞いて、
上る稽古ばかりしているが驕慢の強い者に上塗りしてやって
泣くに泣かれぬ下根下劣の実機が知れるものかい。
法に照らされて必堕無間の機が知れるまでは「ひょっと」落ちはせぬかは止まない。
やまないとすれば決定心もなければ金剛心もない事になる。
それでは即得往生住不退転の正定聚の位でないから今度の往生は不定である。
 よい加減な所に腰掛て居ては何時になっても往生の解決は付かぬ。
学問ではない。理屈ではない。空論でもない。
愈々実際問題で、この心に不可思議の妙味を諦得するのである。
この凡身に入一切衆生心想中と聞名信喜の一念に十方法界を体得するのである。
そんな事が凡夫に出来るものかと言う人は広大難思の慶心を知らない
哀れな自惚の善人である。底を叩いた凡夫一杯の悪人が不思議の親に逢うた嬉しさは
其侭ごかしにした同行とは味が異うよ。
 悪性を見つめて泣く時は唯の御慈悲と思えの教えでは満足出来ない。
泣く一杯、きょろきょろ一杯、曲る一杯、暗い一杯、あわてる一杯、
不安一杯、計う一杯、地団駄ふむ一杯、わからぬ一杯、何ともなれない一杯、
貪瞋一杯、妄念一杯、疑一杯の総計凡夫一杯、これを地獄は一定すみかぞかしと
値段を付けたのじゃ。こんな腹が見える時は臨終は迫ってジタバタしている。
 この心が、声なき親の呼声を聞いた時踊躍せずに居られるかい。
歓喜せずにいられるかい。信の一念に凡夫一杯の侭で、衆生一切の無明の闇を破し、
衆生一切の志願を満足せしめ給うと全部の解決が付くから、
私が弥陀やら、弥陀が私やら、煩悩菩提体無二と親子の名乗が上がるのではないか。
(『魂のささやき』p.49-51)