大沼法竜師に学ぶ

故大沼法竜師の御著書を拝読させていただく

大沼法龍師のお歌

2008-02-29 02:18:31 | Weblog
「明闇」より


苦にやむな冬去りぬれば春が来る

急げ人無常の早風まったなし

薄氷を踏む思いにて日を暮らせ

信仰の光りに向え衣食備わる

狂いなし因果の理法鮮かに

仮りの世に借り物かりて仮の夢

言うよりも劣らぬものは思う罪

この悪魔恵まれ過ぎて涙ぐむ

よし悪しの毀誉褒貶は人まかせ

盲愛で子供を馬鹿に育ておる

足り過ぎて足りないものは報謝だけ

薬あり毒を好めの教なし

算用が合うて足りない世の中に

足り過ぎて算用合わぬ不思議あり

呼べば呼び呼ばねば呼ばぬ山彦ぞ

夢の中集めた宝 みな置いて
    業を荷うて一人出て行く

財産も名誉も一時の稲光
    あとに残るは夢の溜息

大沼法龍師のお歌

2008-02-22 13:49:11 | Weblog
大沼法龍師もたくさんのお歌を残しておられる。
「明闇」からいくつか紹介しよう。


見て御座る真如の月が見て御座る

ふまれても根強く忍べ福寿草

進まなん我行精進忍終不悔

寒風を凌ぐ香りの梅の花

足り過ぎて不足の中に余りあり

信がない苦毒は行者の身に満てり

嫉妬して怨み呪えば身の破滅

何故やめぬ人を呪えば身の破滅

何故だろう算用が合うて銭足りず

足り過ぎて算用合わぬ不思議哉

足り過ぎて算用合わぬ六字なり

祖師憶う苦難の道に光りあり

心せよ心許せば身の破滅

善し悪しの因果の理法狂いなし

眼に見えぬ徳散ずれば拝まるる

人々よ姿に掛けた法を説け

美人でも笑顔忘れりゃ五割引

親捨てた報いで子にも捨てらるる

「信念の叫び」の中にある御歌から

2008-02-16 17:24:16 | Weblog
「信念の叫び」の中にある御歌をいくつか紹介する。
本書中のよく知られた古歌も併せて載せておく。


はえば立て 立てば歩めの親心 ・・・

鳥辺山きのふもけふも立つけむり
   ながめて通る人はいつまで

急げ人弥陀のみふねの通ふ世に
   のりおくれなば誰か渡さん

まちかねてうらむと告げよ皆人に
   いつをいつとて急がざるらん

むつまじき親子にだにもすてられて
   独りゆくべき道と知らずや

ちるさくら のこるさくらも ちるさくら

やむ子をばあづけて帰る旅のそら
   心はあとにのこりこそすれ

恋しくば南無阿弥陀仏を称ふべし
   われも六字のうちにこそすめ

おさなごの形見にのこる風ぐるま
   廻してみればあじきなの世や

あだに儚き世を知れと
   教えてかへる子は知識なり

火と水の中道をゆけよ人
   来たれと呼ばふ声をしるべに

月かげの 至らぬ里はなけれども
   ながむる人の 心にぞすむ

散るときが うかぶときなり 蓮の花

すがる手を力とはせじおさな子の
   いだきあげたる母をたよりに

阿弥陀仏 ここを去ること遠からず
   称ふる人の袖やたもとに

身も安し こころも安し法の船
   南無阿弥陀仏の風のまにまに

今日ほめて あす悪く云ふ人の口
   なくも笑ふもうその世の中

雷に 大あくびする つんぼかな

露とおき 露と消えぬる夢の世や
   難波のことは夢の又夢

なむあみだ 六じの御名と共に寝て
   迷ひの夢ぞ見るぞうれしき

父はうつ 母は抱いて悲むを
   かはる心と子は思ふらん

大願の 船にまかせて世の海を
   渡る人こそ 心やすけれ

別れ路の さのみなげくな法の友
   また逢ふ国の ありと思へば

ありがたや 又逢ふ国のありときく
   南無阿弥陀仏の 主になる身は

鳴く鳥も 岸うつ波も松風も
   吾れをたのめの 弥陀の呼び声

明日の日も あれど見られず見せられず
   来世のことも かくやあるらん

上むけぬ 咲きぶりゆかし ふじの花

このちから 人にありたし ふゆの梅

己れ先づ 咲いて見せけり 梅の花

堪忍して 見事なりけり 雪の竹

うらおもて なくて涼しき うちわかな

良く咲いて 人に見られよ 宿の菊

泥のなか 誰のしわざか はすの花

出入りの息を鈴にして
   南無阿弥陀仏
   なるぞうれしき

なかなかに 山の奥こそ住みよけれ
   草木は人のうへを云はねば

なかなかに 山の奥こそ住み憂けれ
   草木は人のうへを云はねば

ちゆうちゆうと なげきかなしむ声きけば
   ねずみの地獄 ねこの極楽

ただ見れば 何の苦もなき水鳥の
   あしにひまなき我が心かな

まけて居る 人を弱しと思ふなよ
   しのぶ心の強きゆへなり

憂きことも悲しき事も身の常と
   しのべばやすく暮らす世の中


真田増丸「信念の叫び」

2008-02-14 03:32:34 | Weblog
「信念の叫び」

遺稿者 真田増丸
編集者 蓼原澤一
大正十五年五月廿八日第一版発行

(編者の言葉・要約)
真田師は五十歳を一期として涅槃に還られた。
「信念の叫び」なる本書の題名は済世軍主管代理真田慶順師の選に依る。
本書は真田師が書留めたノートを土台に特に信仰方面のもののみを集めたものである。
ノートは明治四二三年頃からのものであってたしか七十八冊あったと記憶している。
その中には、随時随所において得られた断片的な感想やまとまった小文、
書物から共鳴されたものを引用した抜文などが載せられてあった。
そのうち信仰に関するものだけを編集した本書の内容は多数の小節からなり
各小節の題目はノートの中から相応しいと思われるものを選んだのである。

真田増丸「信念の叫び」

2008-02-14 03:31:04 | Weblog
   指の三本を示して
肉に苦しむ真田増丸、霊肉一致の真田増丸、霊肉を超越する真田増丸、三重人格じや、
これは真田増丸の新発見じや。
生をみとめて死を急ぐ。
肉を捨てて真に霊に生きよ。
安養浄土に帰るからお念仏で見送つてくれ。
一致団結よ、団結よ、一致よ。
千よろづの
  民の心をあはせつつ
  国に力をつくせとぞ思ふ

最後にお口をすすがれ
八幡市、八幡宮、御師匠東陽和尚、前田和尚、父母のお写真に向ひ
永永お世話になりました、と。

恋しくば南無阿弥陀仏を称ふべし
   我も六字のうちにこそすめ
                合掌


信念の叫び(終り)

(真田増丸「信念の叫び」p.295-p.296)

真田増丸「信念の叫び」

2008-02-14 03:30:33 | Weblog
病苦の中の御和讃暗誦
弥陀観音大勢至
大願の船に乗じてぞ
生死の海に浮みつつ
有情をよばうて乗せたまふ

生死の苦海ほとりなし
ひさしくしづめるわれらをば
弥陀弘誓のふねのみぞ
のせてかならずわたしける

超世の悲願ききしより
われらは生死の凡夫かは
有漏の穢身はかはらねど
こころは浄土にあそぶなり

娑婆永劫の苦をすてて
浄土無為を期するること
本師釈迦のちからなり
長時に慈恩を報ずべし
(真田増丸「信念の叫び」p.294-295)

真田増丸「信念の叫び」

2008-02-14 03:29:47 | Weblog
日本全国の支部長御同行よ、最後まで伝道するこれが宗教家の立場であらう。
念仏の外に生命なし。
仏陀の慈光を宣伝する為に、洋行する筈であつたが、タツタ千里か万里を洋行して、
沢山なお金を使ふより、今度はお浄土にタダで洋行さして頂いて、
三千大千世界を伝道さして頂きませう。縁のある処にすぐ生まれ出るよ。
  我となへ 我聞くなれど南無阿弥陀
       つれてゆくぞの親の呼び声

二人の御子息、大信様大法様を枕頭に呼ばれ
カラスはカーカー
スズメはチューチュー
親がカラスなら  子もカラス
親がスズメなら  子もスズメ
小ガラスがカーカー言へば 親ガラスがすぐとんでくる。
小スズメがチューチュー言へば 親スズメがすぐとんでくる。
私共が南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と云へば、大悲の親様がすぐとんで来て、
おれは此におるぞ此におるぞと仰つて下さるのだ。
(真田増丸「信念の叫び」p.293-294)

真田増丸「信念の叫び」

2008-02-14 03:28:45 | Weblog
(編者附記)
  先生の御臨終法語
    病苦に呻吟する時
見舞の方が先生今度はいよいよ永劫の迷ひの根切りをして
安養浄土に往生さして頂くのです。
お歓びのお念仏を称えませうと申しますと、
吁!真田増丸は前世の宿業が重かつた、一生涯気狂坊主といわれて
飛び廻はり死ぬる間際までは狂ねばならぬ。
これは増丸の宿業じやけれど往生はかねてのお約束で間違ひない平生業成、
この場になつて念仏を称えなければ助からぬと云ふ様にそんな小さいお慈悲と思ふか、
吁!このお慈悲がわからぬかなわからぬかな
真田増丸は四方八方に対して実に済まなかつた。
唯唯済まぬ済まぬより外に何にも懺悔の言葉を知らぬ。
肉体を持つ者は親鸞聖人の信仰の外には救はれまい。
死は一旦なり信は永遠なり。
(真田増丸「信念の叫び」p.292)

真田増丸「信念の叫び」

2008-02-14 03:27:58 | Weblog
肉体の問題は一時の問題である。
霊についての問題は永劫の問題である。
しかるに肉体の病気は誰しも大いに心配するが、
心の病気には心配しない
(真田増丸「信念の叫び」p.271)

真田増丸「信念の叫び」

2008-02-10 08:32:40 | Weblog
貧子は艱苦に当つて己れを鍛錬し、富子は安逸に流れて己れを柔弱にする。
世のあらゆる艱難に打ち勝つて戦ふといふ意気こみのある人は常に成功する人である。
この意気こみのない人は常に劣敗者となるのである。
黄金は烈火によつて試練せられ、人物は艱難に依つて試練せられる。
身を万難の中におきて、之れと戦ひ之れと奮闘努力するだけの勇気のある人物ならば、
かならず進歩発展する所のあるべきことは疑ひもないことで、
古来幾多の人物伝はこれを実証してあまりがあるのである。
(真田増丸「信念の叫び」p.248-249)