大沼法竜師に学ぶ

故大沼法竜師の御著書を拝読させていただく

魂のささやき

2008-07-03 13:46:14 | Weblog
45 調熟の光明と摂取の光明

 佛様の光明には調熟の光明と摂取の光明との二つがあると、
お説教では度々聞くけれども、二の光明は何処で判然と区別するか
一度も聞いた事がない。
根機を調えるのが調熟の光明、戴いた信が真なら摂取の光明というまでは
言い得るけれども、真ならと言っている間は真ではないぞ。
どこで水際をわけるか。凡夫には判らぬだろうか。
先日十七歳になる竹本文子という少女に、二光明の分斎を尋ねると、
『信の一念で分けます』と、考えるひまもなく臆する色もなく返事をした。
 布教する人、説教する人、此処の味を弁えなければならない。
調熟と摂取とごっちゃにしてはおらぬか。
しなくとも皆摂取された積りではおらぬだろうか。
多くの方々には水際は無いのだろうか。
道理が合い理屈がわかれば他力の信仰を得たかの様に思い
すぐに報謝をふり翳し摂取光中の喜びだと言って
金剛心の様に考えて居るけれども、まだまだ進むべき余地は充分ある。
私も調熟の光明で満足していた時は、随分喜びもし素直でもあった。
そして威大な信仰の人を誹謗していたけれども、
自分の手元にたちかえって考えた時、言ひ知れぬ寂しい心が有った。
他所の火事までは気の毒じゃなあ位ですんだが、
自分の家に火が移った時にはたっても坐っても居られなくなった。
此の心が返事するまで、心の曇りが晴れるまで、
大決定を得るまで進まなければならない。
信仰はくづれない様に思っても、心の底から吹上げる罪悪には勝てないぞ。
一大事の後生となって考えると、合点ぐらいではすまされない。
包まず隠さず本当の所を言うと、俗人よりも宗教家の方が道心は確かに淡い。
批評でもなければ反感でもないが、立派な方も沢山あるけれども
中には心得た積りで不徹底のまま、合点し感じたのを他力の信仰の様に思い、
体験等は夢にも考えていない方もある。
そして継子いじめや新聞の切抜き位の話に九分九厘までの時間を費し、
後の一厘でその儘ぞー。と難中の難の関門を突破するから
信仰の入口に居る同行なら満足もしようけれども、
幾百席も聞かされて真剣になった同行は腹の底の本性が泣いて居るから
決してそれでは満足が出来ない。
念を押して求むればすぐに頭から異安心とかぶせるが
本当の異安心はどんなものか知ってるだろうか。
紺屋の白袴、医者の不養生、坊主の無道心ではないか。
御文章に

 一、近年佛法の棟梁たる坊主達、我信心は極めて不足にて、
 結句門徒同朋は信心は決定する間坊主の信心不足の由を申せば、
 以ての外腹立せしむる条言語道断の次第なり。
 已後においては師弟共に一味の安心に住すべき事。

 本当に言語道断の次第ではないか。私は求めた。火がついた様に。
私は進んだ行きつまるまで。私の心は動かなかった大磐石の様に。
私は泣いた親に離れた時の様に。私は苦しかった地団駄を踏む程。
疑うまいと思って疑う私。他力を他力と聞き得ぬ私。
その儘をその儘と信じ得ぬ私。堕ちるを堕ちると知らぬ私。
悪人を悪人とも知らぬ私故、出離の縁が無いのじゃと、
心に思った時と、実際黒い焔の中に逆飛する有様と、唯ぞーの勅命と、
話せば前後はあるけれどもその一刹那の信念は
「不思議」の一言に尽きるのである。
不思議の世界の扉の開かれた時が、久遠劫のきづなの切れた時である。
その信の一念こそ調熟の光明より摂取の光明に移った時である。
この胸裡、この信念、この自覚、この決定は生命がけに依って得たのであるから
生命懸の報謝をせずには居られない。胸に首つっこんで泣いた同行、
間違者と笑れた求道者。異安心と誹られた御同朋。
泣く子に乳は与えられる。貧窮に慈雨が注がれる。進め進め一歩々々を堅実に。
徹底する迄。決定得るまで。歓喜の泉まで。判らなければ判るまで。
法龍の身は破れる迄求道者の為に血を注ぐ。
法に死すればこそ出世の本懐ではないか。
  共に泣き共に笑うて南無阿弥陀
    心の曇り晴れて涼しき
(『魂のささやき』p.95-99)

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