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大沼法竜師に学ぶ

故大沼法竜師の御著書を拝読させていただく

魂のささやき

2008-05-15 14:07:50 | Weblog
7 攻撃されし親鸞聖人

 鸞聖人が御師匠然上人と同様遠流に処せられたのは、
何事を物語っているであろうか。
 (一)(対聖道諸宗)には、肉食妻帯をして非僧非俗の姿を顕わした為、
破戒無戒と罵られた為であろう。
 (二)(対浄土門内)には信仰が熱烈であった為、然上人の三百八十余人の
弟子共は背師自立と叫んだからであろう。
 (一)成程姿形は肉食妻帯をし、他の僧侶を否、一般国民を驚かしたけれども
是れが人間自然の道理であったのである。
然るに諸宗挙って賢善精進を表とし、持戒修行を現じつつも
内面の乱想は止め難きものが有ったろう。
是れを看破せられた聖人は、姿の破戒無戒よりも心の破戒の方が醜かったのである。
 (二)法然上人の真髄を得て絶対他力の念佛を弘宣する時、
念佛に功を募る牛羊眼の諸弟子達は、平生の時、信の一念に往生の業事成弁する
との説を聞いては、如何に驚異の眼を開いた事であろうか。
 八方攻撃の只中に眼を閉じて合掌し、

  夫れ以みれば、信楽を獲得する事は如来選択の願心より発起す。
  真心を開闡することは大聖矜哀の善巧より顕彰せり。
  然るに末代の道俗、近世の宗師自性唯心に沈んで、浄土の真証を貶す。
  定散の自心に迷うて金剛の真信に昏し
  乃至 誠に佛恩の深重なるを念じて人倫の哢言を恥じず。

  曠劫多生のあひだにも  出離の強縁しらざりき
  本師源空いまさずば   このたびむなしくすぎなまし。

と高らかに口ずさみ、深遠なる佛恩師恩に感泣し給いし、聖人の忍辱のお姿が
慕しいではないか。何の不平もなく、知己を百年の後に求めて
死に行く人の言葉によって信仰を左右されてなるものか。
死なぬ佛に逢うたが証拠ではないかと、微笑まるる聖人様のお姿が尊いではないか。
 僧侶の掟を破った破戒僧じゃ、背師自立の異安心じゃ、狂人じゃ、
佛法の怨敵じゃ、外道の法を弘める悪魔じゃ、と口を極めた悪口を浴びながらも、

  唯々佛恩の深きことを念うて、人倫の嘲りを恥じず。若し斯の書を見聞せん者は
  信順を因と為し、疑謗を縁と為して、信楽を願力に彰わし妙果を安養に顕さん。

とは底の知れない寛大さではないか。
(『魂のささやき』p.20-23)

魂のささやき

2008-05-13 12:27:04 | Weblog
6 異安心

 有情の邪見熾盛にて   叢林棘刺のごとくなり
 念仏の信者を疑謗して  破壊瞋毒さかりなり。

 五濁の時機いたりては  道俗ともにあらそひて
 念仏信ずるひとをみて  疑謗破滅さかりなり。

 自分の心に合わない時は直に異安心と言うが、心の持ち様では
どんなに考えていても異安心である。何かに偏して居るのは悉く異安心である。
例えば
 一、本願を信ぜんには他の善も要にあらず、念佛にまさるべき善なき故に、
悪をもおそるべからず弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なき故に。
の文句のみを知って、弥陀の本願は無碍なるを以て悪を行うも往生の障りとならず
と考えた時は、本願ぼこりの異安心である。
 二、いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。
の文句に拘泥して本願の尊さを感謝せず、地獄行きと思いつむる者が往生するのじゃ
と考うる時は、信機自力、地獄秘事の異安心じゃ。
 三、決定して自身は現に是乃至定んで往生を得ると深信する。
と言う善導大師の二種深信の釈も、私は堕ちる機と思い、それを疑いなく慮りなく
願力が助けて下さるのじゃと、思うたのが他力の信心じゃと思い振りに腰を掛くれば
機法合体の異安心じゃ。
 四、私は信じさして貰うた。御恩報謝の称名も称えさして頂く。
疑うても居ないし、これで参れると思う時は、
絶対他力の「信に信功なく行に行功なし」の妙味と異う。
信じ心や、称え心や、晴れ心に腰を据えているから自力の異安心である。
 五、真宗は無我と言うから私は計いません。親がよい様にして下さるじゃろう。
私達は計うても役には立たないのじゃから深く考えない。
格別疑うて居ないのじゃから悪い処へ行かしてではあるまいとの主張は成程、
口は他力に似ては居るけれども無我の味をやりっぱなしと混同して居る異安心である。
 同じ十八願の妙味を聞信しながらも腰の据え処に依っては自力となり他力となり、
理屈になり体験になるから一方から言えば他方は異安心者である。
 道理理屈の合う間は相対の信心と言わねばならん。
丁度盲人が大象の鼻、脚、尾を扱って見て、それを大象の全部と思う様に
各自の据った処を無上の信心の様に心得て、他を異安心と言うけれども、
言慮に拘り字句に泥んで居る間は絶対無上の妙相ではない。
総てのものに執われざる処は空、空も空無でなく、妙有、
即ち無我、即ち大我、即ち自然、有の侭で救われる。
嗚呼言葉になずめば皆異安心じゃ。南無阿弥陀佛南無阿弥陀佛。
   法龍の心の中に咲く花は  弥陀より他に知る者はなし
(『魂のささやき』p.17-20)

魂のささやき

2008-05-12 13:52:00 | Weblog
5 十方世界が私のもの

 後生の苦抜けのした今の私は有の侭で助かる。
信ずる心も念ずる心も阿弥陀様の御方便であった。
あら心得易い安心じゃ。私の力で行くのでないから行き易いお浄土じゃ。
私の心の善悪で往生が定まるのであったら大事じゃが、
信に信功なく行に行功なし。
信じた力で往生するのでもなく、虚仮不実の心が出たからとて
往生の邪魔にもならず、立ったら立った侭、歩けば歩くまま、
佛殿で称えた称名と、便所で出た念仏と実に上下の区別なく、
忘れ勝の中から南無阿弥陀佛南無阿弥陀佛と出て来ても、
常念佛の行者じゃと讃めて下され、妙好人じゃ稀有人じゃ、
正信偈には広大勝解の者と仰有ってあるが、
身の置き処もなく恥しいではないか。堕ちる侭が佛とは不思議ではないか。
して見れば身も南無阿弥陀佛、心も南無阿弥陀佛、口も南無阿弥陀佛なら
私の身を極微に砕くとも、毛一本を千分の一に千切るとも
報佛のましまさぬ処はないではないか。
法龍の心の動く侭が弥陀の動いて居る姿である。
かく摂取不捨されて居る身が悪をすれば弥陀が泣き
自分の心の慶ぶ侭が如来が喜んで居るのである。
法龍苦悩弥陀苦悩、法龍安楽弥陀安楽、
十方世界に満ち満ちて居るのが南無阿弥陀佛じゃ。
この名号の中には三国の七高僧も居る。
一人居て喜ばば、乃至其一人は親鸞なるぞと仰せられてあれば
勿論聖人もおわします。
名号に同化された法龍の中には、森羅万象が篭って居るぞ。
小我の侭が大我じゃ。法龍の侭が十方世界じゃ。
大きな事は言て見たが、矢張り三毒五欲の凡夫じゃでなァ。
南無阿弥陀佛、阿弥陀佛、御恩尊や南無阿弥陀佛。
(『魂のささやき』p.16-17)

魂のささやき

2008-05-11 11:56:34 | Weblog
4 謗法闡提廻心皆往

 謗法闡提廻心皆往、この文は善導様が法龍の為に残して置いて下さったのじゃ。
余他の宗旨を謗った事も幾度あるかも知れないが、
浄土真宗の中で他の同行を誹った時は他力の法文を誹謗したのと同様である。
私の信心の決定して居ない時、老人達が法を熱心に求めて居るのを見ては、
一度聞いたら合点出来そうなものであるのに何を心配して、
煩悶したり疑惑して居るのだろうか。
それに反して私は大丈夫じゃ。これ程称名も出るし、疑っても居ないし、
御恩も感じて居るし、仕合せ者じゃと慶んで居たが、
今から考えて見ると高慢の頂上に登っていたのであった。
当時を憶えば私は助けると言う勅命を聞いて覚えて知っただけであった。
知ったので参れ、覚えたので往生が出来、合点したので行けるのであるならば、
智者や学者は往生されるけれども多く知らない私は不可である。
一大事と言うも此れより一大事はないぞ、と真剣に求める様になったのである。
 広大無辺の佛勅に信順して疑蓋雑わる事なきを信心と言う事も承知して居れば、
佛願より七祖を流れて聖人に来たる信心の相状も心得て居る。
知って行くのでない、覚えて行くのでないとすれば何で参るのであろうか。
大経の明信佛智と不了佛智と、然上人の信疑の決判の理屈も
知って居るのであるけれども、
仮令八万の法蔵を知っても参れないのじゃもの。
浄土真宗は愚に返って往生せよと言われるから無我になろう。
三業の乱れ心を慎んで目出度うなして往生せんとするは自力なり
との御教化も有るからは、
凡夫の計いでは間に合わないから考えまいと投げ捨てた事は幾度有ったか知れない。
けれども直に往生に対する不安や疑惑は押寄せて来た。
考えまい疑うまい不思議の佛智を疑うのは佛様を盲にし殺して居るのであると、
考え直すけれども、疑うまいとすれば益々疑いの出て来るのが私であった。
解らない解らない。
助けるという道理は解って居るけれども胸が承知して呉れない。
 幾度真剣になっても平気な心が居る。胸をむしる様に考えた時には、
娑婆往来八千遍と申さるるに私は其の恩恵を蒙らないのであろうか。
弥陀は十方衆生と呼び掛けながら法龍一人を洩すのであろうか。
こんな難中の難の御教化なら聞くまいと投げ出した時には
明らかに謗法闡提ではないか。
この様な疑いの深い私が何で往生が出来ようか。
嗚呼十悪五逆の私、謗法闡提の悪徒、十方三世の諸佛に捨てられ、
弥陀一佛にも唯除五逆誹謗正法と離されて見れば、
必堕無間は私の持前ではないか、自性ではないか。
其時初めて真に地獄一定住家ぞかしの御言葉が私の肺肝より出づる叫びであった。
・・・・・・・・・・・同時に底より湧出づる踊躍歓喜の妙味、広大難思の慶心、
明来暗去か明来即暗去か両手を打った時右の手が鳴ったか、左の手が鳴ったか、
堕ちるが先か助くるが先か、疑い晴れて佛智が満入したか佛智満入で疑いが晴れたか。
機法一体、佛凡一体は同時じゃから道理や理屈では、妙味は顕わせぬ。
聖人が不可称不可説不可思議の信楽と申されたのが懐しい。
うんともすんとも言えない。
嗚呼々々堕ちる侭の唯じゃったなァ、と親と一体になった時、
親心が満足して居るのだから信心はすんで居るのじゃ。
其心に疑いが何処に有る。廻心皆往とは尊いなァ。
 広大な佛智じゃから疑うまい、真宗は疑いが有っては往生不可じゃから疑うまい、
有難うなって御恩も喜べるから往生が出来るであろうと、
疑いを敬して遠ける様にし、佛智を凡心を以て推測する者こそ疑いの行者ではないか。
其なら疑いながらでも往生が出来るかと言う返難が有るかも知れないが、
其なら疑い晴れてから佛智が入るのか暗が去ってから明が入るのかと亦復返難したい。
而し余は決して疑いながらの往生(疑心往生)とは言わない。
疑いなく救われた事を喜ばずには居られない。
 何となれば信疑決判は真宗の骨目であり、実際疑惑と明信佛智と両立しないのは、
光と暗とが同時に存在しないのと同様である。
 然るに信仰に悩んで居る人は、多くは佛様のお手元は疑わんけれども、
私の心が往生を引寄すれば「どうも」はっきりせんから堕ちりやせんかと
悲しんで居るのである。どうもはっきりせんと言うのが疑惑の親玉である。
其心の有る間は何万年経っても真実報土の往生は不可である。
そこに地獄一定の自覚が有る。煩悩具足で而も疑惑の心有ればこそ、
必堕無間の信機が有るのじゃ。
絶対の悪と名号が一体と成った時、毫も疑惑はないのじゃ。
そこに極楽一定の信法が生きて居るのだ。
(『魂のささやき』p.11-16)

魂のささやき

2008-05-09 12:25:28 | Weblog
3 疑い無き本願に

 疑い晴れよう晴れようと、思うたからとて晴れられるのではない。
妄念も息まず疑いも晴れぬから地獄一定の自覚が有るのじゃ。
自覚と体験とは同時であって堕ちる機と助ける法と一体なる事を
領解した時が、信の一念、時尅の極促、佛智満入の時節である。
其の時節の妙味は道理理屈では味えない境地である。
一度明信佛智と心が転換した後は疑いは微塵ばかりもない。
決定して堕ちる私にひょっと堕ちはせぬかの疑いが何で出よう。
願力の不思議で参る。絶対の悪が絶対の慈悲に救済されて行くに
何の躊躇が有ろう。
嗚呼幸福なる哉、是非知らず邪正もわかぬ此の法龍が、
疑いなき本願に救われたとは。
南無阿弥陀佛。阿弥陀佛法龍称念必得往生。
(『魂のささやき』p.11)

魂のささやき

2008-05-08 12:08:22 | Weblog
2 行き着く迄進め

 本当に後生が一大事に成ったか、真剣に求めた事があるか、
一晩位睡らずに考えた事が有るか。今が臨終と迫って聞いた事が有るか。
二河譬の真剣味の有る実地求道の態度を昔噺位に聞いては居ないか。
地獄一定を人の事に定め込んでは居ないか。
唯除五逆を空吹く風に聞き流しては居ないか。
 そんな堕落した横着者が不可称不可説不可思議の信楽を獲得する事が
出来るものかい。
大経の「設有大火充滿三千大千世界要當過此聞是経法歡喜信樂」等を和讃には

 たとひ大千世界に    みてらん火をもすぎゆきて
 佛の御名をきくひとは  ながく不退にかなふなり

と述べてあるが「おのおの十余箇国のさかひをこへて身命をかへりみずして
たずねきたらしめたまふ御こころざしひとへに往生極楽のみちを
とひきかんがためなり」と生命懸の求道は人の事で自分は疑いなく信じたと
平気で居るが、疑って見ない事に晴れたと言う言葉が使えるものか。
 法を見て居る間は行き詰らないが、一人が出て行かねばならないと言う機を
照し出された時には直に行き詰るぞ。
 何時迄も法のお手元ばかりを見ては居られまい。
他人の心ではない、自分の心だから見ずには居られまい。
気持ちが悪くて機を見るのが恐ろしいのだろう。
妙な、変な、取とめの付かぬ心が出るからなあ。
平生元気で達者な間は妄念が邪魔に成らないと片付けて置かれるが
臨終になり機を見る時は邪魔に成らなかった妄念が一番邪魔に成って
悉く疑雲と変るがよいか。
 死にさえすれば往生々々と言って居る事は往生浄土の文字だけには
合って居るけれども、平生業成の切れ味を知らないではないか。
現在にさえ満足出来ない者が、如何して未来往生が出来よう。
現在機を見るのを恐れて蓋をし佛を誤魔化して善人らしゆう粧うて居る行者が、
如何して即得往生する事が出来よう。
現在で明かな親に明かに遇い切らない人間が、如何して蓮華化生する事が出来よう。
明かに因果に矛盾が有るではないか。
 機を見なければ法の尊さは判らない。法を見なければ機の醜さは知らされないのに
何故法に偏して機を略にするか。
 法を三十年五十年聞かされて心の曇りの除かれない同行よ、
お助けの親の手元の指図をせずに、堕ちる人間だもの堕ちる機を深刻に
眺めさして戴いたらどうだ。
 このきかん機が「うん」と聞いてこそ、聞法の所詮が有るのではないか。
 立派に戴いて居た信心が、同行の言葉で崩れてしまった時程、
腹の立つ残念な口惜しい事はない。其の意気に猛進しなければ駄目である。
私は今迄何を聞いて居たのだろうか。訳も理屈も判って居ながら
判らん心が有るではないか。
夫れを見るから手間が掛ると言われても、此の機が満足する迄は聞かずには居られない。
さあ一大事!
と求めるけれども実地を通った知識に遇わなければ、腹がにがって居るのに
頭を揉んで呉れるから癪に触る程苦しい。聞けば聞く程堕ちる機が知らされて
恐ろしくて聞かずには居られない。此の場合に立って泣いた人のみが知識を簡び、
五里でも十里でも、生かして呉れると見込んだ知識の後を追うのである。
自信の抜けた教人信をなさる人の脚元が非常によく見えるから、
そんな譬話位では此の渋太い魂は解決付きませんと、善知識にでも突き掛からずには
居られない気がする。
他人様はこんな曲った心はないのであろうか。
疑うまいと思えば思う程疑わずには居られなくなる。
(機を見るからと言われるかも知れんが見んでもよい人は見る必要は無い。
健康な人には病人の心持ちは味わえない)
前から聞いたり覚えたリ、譬話などで接目を合わして見るけれども頭も胸も承知はしない。
自分は何故こんなに馬鹿に成ったのであろうか。
前の頃は聞けば聞く程有り難かったが、今は唯々苦しくて
而も真剣に成り得ない心だけが働いて居る。
睡ろうとしても睡られない。仕事も手に着かない。
何故唯が判らないかと機をもめば揉む程判らなくなる。
阿弥陀様は唯じゃと仰せらるると言うけれども一寸も唯ではありませぬ。
何処に他力が有るか、何処に其侭が有るかと苦しいまぎれに親に迄も
反逆の心を興さずには居られない。
其の心こそ唯除五逆誹謗正法と捨てられた機であるけれども
堕ちると言う事には気が付かず只堕ちともない、
何とか成れないかとも掻く心が一杯であるが、
其の心が自力の心とは更に知らない。
何故「はい」と返事が出来ないかと攻めるけれども上の心は周章ても
下の心は知らん顔して、地獄と聞いても驚かず、極楽と聞いても喜びもせず、
「てれっ」として居るのに呆れずには居られない。
泣かずには居られない。この心が言う事聞いて呉れないから、
耳までは法を聞きながら、元の三塗へ帰らねばならないかと思えば、
何物か握らずには居られない。握れば握った侭堕ちる。
思うも言うも皆嘘の心が動かして居るのではないか。
信じたのも知ったのも、覚えたのも、学問も理屈も総て絶えて、
堕ちるも上るも知り切らない心一つが業に引かされて、
無間のどん底へ投げ込まれた時、
三定死の思いに住し、自力無効と他力不思議とは同時に動き、
踊躍歓喜、信心歓喜、飛上って喜び、み佛様すみませなんだ。
こう迄して下さらなければ聞かない渋太い私で御座いました。
娑婆往来八千遍も私一人の為でありました。
どうして御恩に報いようかと泣くより他に術を知らない。
其の時の境地は言慮の外にある。百千万の言葉を並べるよりも
親に逢いさえすれば味える。
多くの同行よ、機に泣いて居る御同朋よ、機を見るのは向きが違うと
捨てるようなみ親ではないぞ。
機を見なければ見限りが付かない。
自力を捨てる見限りが付かなければ他力に帰した開発が判らないぞ。
 進め進め真剣に、深刻に、空論をやめて実地に窮すれば通ずる大道が有る。
人の通った糟を嘗めて喜んで居たのでは百千万劫過ぎるとも
大信海には入り難いぞ。
苦悩が有ればこそ求めずには居られないのだ。
疑いあればこそ晴れる迄進むのだ。
ぼんやりして居るのは投げ槍で他力ではないぞ。
計らうまいとじっとして居るのは却って自力に堕するぞ。
凡夫の計いの尽きた時が本当に佛に計われて居るのではないか。
 他人の後生ではあるまい。何故解決の付く迄進まないのか。
教える知識が居ないのか。求める同行が居ないのか。
(『魂のささやき』p.4-10)

魂のささやき

2008-05-06 12:28:43 | Weblog
1 間ぬるい信仰とは違うぞ

 あの人の様に難かしく説く信仰を聴くと間違うから聞くなと言った同行が居るが、
人の言葉で動く信仰が何に成るものか。
善導大師は「此心深信せる事なほし金剛の若し」と仰せられ、
親鸞聖人様は「難信金剛の信楽は」と仰せられ、
正信偈に「行者正しく金剛心を受け」と述べられ、
また「金剛の真心を獲得すれば」と説かれてあるが、
人の言葉に依って往生の定不を躊躇するのは若存若亡の疑心の行者ではないか。
 それでも蓮如上人様は御文章に「あら心得易の安心や、行き易の浄土や」
と仰せられたではないかと返難するかも知れないが、上人様の信後の妙味を以て、
信前の機の若存若亡を誤魔化す安価な道具に使ってはならない。
「十人は十人ながら百人は百人ながら」と言うお言葉だけを聞いて
心を得なかったら聞いた所詮はない。
 理屈の唯々なら誰でも判る、言葉の他力なら誰でも知り得るが、
「極楽には行き易くして人無し」とあるではないか。
他力だから行き易いけれども信ずる人が稀だから人が無いのではないか。
大経下巻の末尾には僅か四行の間に九つも難の字を並べられ、
小経には難信の法と仰せられ、和讃には

 善知識にあふことも     教ふることもまたかたし
 よく聞くこともかたければ  信ずることもなほかたし

 一代諸教の信よりも   弘願の信楽なほかたし
 難中之難とときたまひ  無過此難とのべたまふ

との給うてあるではないか。是等の御教化を無視して何故易いばかりを偏重するのか。
聖道門の易信難行に対して浄土門は難信易行ではないか。
 易信易行の宗旨は抑も誰人を開山とするか。都合のよい文字だけを切抜いて、
自惚心を増長せしむれば増々堕落すると云う事が判らないのか。
真宗を破滅せしむるものは他にあらず、真仮の水際を弁え得ない真宗の道俗ではないか。
 素直に聞いて居ると言う安価な信仰なら易い、口先だけの領解なら易いけれども、
無碍光如来の念力を如実に体得しようとする時は難中の難これに過ぎたるはなしである。
此の薄紙一重は鋼鉄の門よりも堅いと真剣に求め抜き、
動かぬ心の侭が如来の念力に動かされた一刹那、
信楽開発の端的を御文章には「一念の信心定まらん輩は十人は十人等」
と仰せられたのであって、一念の根本を抜きにして
十人は十人の枝葉を掴んだのであっては妙味がないぞ。
開発の境地に立たされてこそ、唯と言う言葉までもいらなかった唯であり、
我が計いの尽きた時、親に計らわれて居たのかい。嗚呼心得易い安心じゃ、
堕ちてよし上ってよしと大胆に信じ切る事が出来るのではないか。
この摂取不捨の利益を蒙ってから後の唯を、
信の一念を貫かれない信前の機が、調熟の光明の中に居ながら自惚れて
信後の真似をするから仕末が悪い。
真似して居る同行が信後の鋭い
「念佛はまことに、浄土にむまるるたねにてやはんべらん。
また地獄におつべき業にてやはんべらん。総じてもて存知せざるなり」
と仰せらるるお言葉を聞けば驚くのは無理はない。
自分に決定心が無くて遠くいお助けで満足して居るのだから、
機を突かるれば眼を暈わすのも無理はない。
人の言葉が恐しいようで生死の怒涛が乗切られるか。
(『魂のささやき』p.1-4)

魂のささやき

2008-05-05 11:22:31 | Weblog
はしがき

 「四面楚歌の声すれど屈せざるは是れ男子、信じて行えば天下一人と雖も強し」
とは杉浦重剛氏が日露の講話談判に行かれし小村外相に打電された金言である、
勇ましいではないか尊いではないか。
八方から攻撃を蒙ろうとも屈せないのは偉大なる宗教家である。
信じて怒涛を乗切る者は不思議の体験者である。
宗祖聖人様は無常の嵐に驚いて九歳の春に出家し給いしより
二十ヶ年の求道は名誉を得る為でもなければ地位を獲る為でもない、
未来永劫の苦患を遁れて永生の楽果を得ん為であった、
三諦円融の道理を学べば学ぶ程、一念三千の理を究むれば究むる程、
真理に近こうとして却って遠かる自己の醜さに驚き寝食を忘れて
求道せずには居られなかったのである。
 重ねて言う、真剣に求道さるる聖人様には名利もなければ毀誉褒貶もないのだ、
唯苦悩の心が無限に動き、散乱の渦が無尽に湧いて来るのみだ、
見れば見る程罪悪深重、考えれば考うる程煩悩熾盛、三業の所修一念一刹那も
罪悪に非ざることなく業報ならざるはないではないか、
之を消し得る宗教は何処に有る、これを救い得る教は何処に有ると号泣された
聖人様には八万四千の法門は画餅に等しく、
現在の地獄を遁れ切らずして永劫の楽果がどうして得られよう、
現在満足し得ずして無明の大夜をどうして切抜ける事が出来よう、
教えて呉れる知識はないか、導いて呉れる大徳はないかと猛進された姿が
「設満大千火必過要聞法」の心ではないか、
遂に明師法然上人様に逢い一座の法話で他力不思議を受得し給いしは
必堕無間の業魂に驚き、三定死の巌頭に立ち、自力策励の無効を覚知され
「すかされまいらせて地獄に堕ちたりとも更に後悔すべからず候」
まで調熟の光明に照らし貫かれて有ればこそ、
我能く汝を護らんの声なき無限の大慈悲を諦得して
「五劫思惟の願をよくよく案ずれば親鸞一人が為なりけり」
と叫ばずには居られなかったのである。
 仮令十方の有情が罵倒しようとも、諸宗挙って攻撃しようとも
門内の僧侶から背師自立と悪口言われようとも救われたが証拠ではないか
助かったが実地ではないか、と声ほがらかに化土巻には

 竊以聖道諸教行証久廃浄土真宗証道今盛
 然諸寺釈門昏教兮不知真仮門戸洛都儒林迷行兮無弁邪正道路

と宣い、御和讃には

 念佛成佛是真宗     万行諸善これ仮門
 権実真仮をわかずして  自然の浄土をえぞしらぬ

 聖道権仮の方便に    衆生ひさしくとどまりて
 諸有に流転の身とぞなる 悲願の一乗帰命せよ

と攻撃罵倒の其中に「誠に佛恩の深重なるを念じて人倫の弄言を恥ぢず」
と血みどろの求道あればこそ、極悪最下の自覚が有ればこそ、
他力不思議の体験が有ればこそ遠流に処せられながらも微笑む事が出来たのではないか。

 喩えば或偉人の伝記を書こうとする時、本人の成功せる後の幸福のみを記せるものは
其人の全貌を顕わすものでない、成功の頂上を究むる者は坂路の険阻をよじた人にのみ
有り得るのだ、聖人様の二十ヶ年の難行苦行を抜きにしては他力不思議は意味を為さないのだ。
仰ぎ願くは一切の道俗よ、我執を離れ機執を去り、如実に法を求めなければ
自己の無能は判らないぞ、真剣に切込まなければ自己の本尊は知れないぞ、
深刻に進まなければ自己の闡提に気がつかないぞ、実地に味わなければ
自己の逆謗は見えないぞ、かかる実機を抜きにして死後の往生を夢見て居るのは
「宗教は阿片なり」の批評も当然ではないか、
手前の川が渡れなければ先の川は渡れない、現在の心の往生、摂取不捨、平成業成、
即得往生の出来て居ない人に死後の往生のあらるる筈がない。
速かに他力不思議の行信を諦得し無限の大悲を讃えつつ無蓋の大悲を仰ぎつつ
感謝法悦の生活に入らなければ人世に生まれさされた甲斐がないではないか。
 此書を名けて「魂のささやき」とは妥協したがる感情、合したがる形の法龍を
久遠の御親に逢うた心の法龍が叱正して居る書物であるから、同時にまた
愚図愚図求めて居らるる人を見ればじっとして居られないから言葉が荒いのです、
お赦し下さい。
(『魂のささやき』p.1-4)

大沼法龍師のお歌

2008-02-29 02:18:31 | Weblog
「明闇」より


苦にやむな冬去りぬれば春が来る

急げ人無常の早風まったなし

薄氷を踏む思いにて日を暮らせ

信仰の光りに向え衣食備わる

狂いなし因果の理法鮮かに

仮りの世に借り物かりて仮の夢

言うよりも劣らぬものは思う罪

この悪魔恵まれ過ぎて涙ぐむ

よし悪しの毀誉褒貶は人まかせ

盲愛で子供を馬鹿に育ておる

足り過ぎて足りないものは報謝だけ

薬あり毒を好めの教なし

算用が合うて足りない世の中に

足り過ぎて算用合わぬ不思議あり

呼べば呼び呼ばねば呼ばぬ山彦ぞ

夢の中集めた宝 みな置いて
    業を荷うて一人出て行く

財産も名誉も一時の稲光
    あとに残るは夢の溜息

大沼法龍師のお歌

2008-02-22 13:49:11 | Weblog
大沼法龍師もたくさんのお歌を残しておられる。
「明闇」からいくつか紹介しよう。


見て御座る真如の月が見て御座る

ふまれても根強く忍べ福寿草

進まなん我行精進忍終不悔

寒風を凌ぐ香りの梅の花

足り過ぎて不足の中に余りあり

信がない苦毒は行者の身に満てり

嫉妬して怨み呪えば身の破滅

何故やめぬ人を呪えば身の破滅

何故だろう算用が合うて銭足りず

足り過ぎて算用合わぬ不思議哉

足り過ぎて算用合わぬ六字なり

祖師憶う苦難の道に光りあり

心せよ心許せば身の破滅

善し悪しの因果の理法狂いなし

眼に見えぬ徳散ずれば拝まるる

人々よ姿に掛けた法を説け

美人でも笑顔忘れりゃ五割引

親捨てた報いで子にも捨てらるる