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大沼法竜師に学ぶ

故大沼法竜師の御著書を拝読させていただく

魂のささやき

2008-05-26 13:49:47 | Weblog
17 二度びっくり

 今までは随分お座を重ねて居られるが、
聞き抜けないで困って居る同行が多いが、まだまだ真剣が足りない。
火の付く様に求めて見れば求める程、底の知れない悪業に一度びっくり。
この不実一杯が唯じゃと、開いた口が塞がらん間に佛に成って二度びっくり。
絶対の悪に驚いたものが、絶対の善に驚く。
唯除五逆誹謗正法の不実者が、若不生者の血汐に生きる。
出離の縁なき者が、疑いなく慮りなく、乗彼願力する。
極悪最下の機根が極善最上の風光を味う。
絶対不二の機と、絶対不二の法は一体である。
地獄は一定住家ぞかしを実感したものが、五劫思惟の本願を体験する。
学問で理屈を知ったのでは、びっくりしないが、
実地問題になれば必ず二度びっくりする。
(『魂のささやき』p.51-52)

魂のささやき

2008-05-25 13:07:03 | Weblog
16 凡夫一杯

 胸を見ると手間が掛ると教えられて法のお手許ばかり
三十年も五十年も聞いても苦抜がせんで困って居る人が多いが、
救われる相手の実機が光明に照され知れないで
真実の親の念力が聞こえるものかい。
極善最上の法と極悪最下の機と均等に教えなくて、
真実の二種深心の妙味が得らるるものではない。
十劫の昔に機法一体に成就して有るから絶対不二の法さえ教うれば
機が知れると言うならば、絶対不二の機のみ教えても法が知れる筈ではないか。
機ばかり見れば「信機秘事」「地獄秘事」と言うなら、法ばかり説けば
「本願ぼこり」「法体募り」になりはせぬか。
天上の月ばかり説かずに宿るべき胸を教えたらよいではないか。
十悪五逆五障三従と言えば、直に丸呑みにしてこんな徒者をと
信玄袋に一緒に道具をねじこんだ如く、他人の事の様に聞いて、
上る稽古ばかりしているが驕慢の強い者に上塗りしてやって
泣くに泣かれぬ下根下劣の実機が知れるものかい。
法に照らされて必堕無間の機が知れるまでは「ひょっと」落ちはせぬかは止まない。
やまないとすれば決定心もなければ金剛心もない事になる。
それでは即得往生住不退転の正定聚の位でないから今度の往生は不定である。
 よい加減な所に腰掛て居ては何時になっても往生の解決は付かぬ。
学問ではない。理屈ではない。空論でもない。
愈々実際問題で、この心に不可思議の妙味を諦得するのである。
この凡身に入一切衆生心想中と聞名信喜の一念に十方法界を体得するのである。
そんな事が凡夫に出来るものかと言う人は広大難思の慶心を知らない
哀れな自惚の善人である。底を叩いた凡夫一杯の悪人が不思議の親に逢うた嬉しさは
其侭ごかしにした同行とは味が異うよ。
 悪性を見つめて泣く時は唯の御慈悲と思えの教えでは満足出来ない。
泣く一杯、きょろきょろ一杯、曲る一杯、暗い一杯、あわてる一杯、
不安一杯、計う一杯、地団駄ふむ一杯、わからぬ一杯、何ともなれない一杯、
貪瞋一杯、妄念一杯、疑一杯の総計凡夫一杯、これを地獄は一定すみかぞかしと
値段を付けたのじゃ。こんな腹が見える時は臨終は迫ってジタバタしている。
 この心が、声なき親の呼声を聞いた時踊躍せずに居られるかい。
歓喜せずにいられるかい。信の一念に凡夫一杯の侭で、衆生一切の無明の闇を破し、
衆生一切の志願を満足せしめ給うと全部の解決が付くから、
私が弥陀やら、弥陀が私やら、煩悩菩提体無二と親子の名乗が上がるのではないか。
(『魂のささやき』p.49-51)

魂のささやき

2008-05-24 09:15:07 | Weblog
15 聞かん侭と聞く侭

 宇島町へ行った時、八屋の女同行が、聞かん侭と教えらるる方と、
聞く侭と教えらるる方と有りますが、何れがよいでしょうかと
問うたから次の様に答えた。
「理屈から行けば聞く侭じゃが、この問題は難中の難の関所を通った者でなければ
味わえない。聞かん侭とは、信仰が一度崩れた後は御教化のお言葉持って来ても、
学問持って来ても、間にも合わないが修繕も出来ぬ。
取りなおしも出来ないが、つづめも付かない。只々暗い心が働いているだけだ。
すわ大事と周章てる心が出て来て真剣に求めるけれども
腹の底は承知して呉れない。泣き泣き求めても知らぬ顔して居る煩悶の極に達すれば
何にも間に合うものは無い。善知識にそのままと教えられても
御言葉は合点しても腹が承知せんと受付けぬ。
受付けぬとすれば不実一杯は聞かぬ昔も変りはない。
学んだ学問も、聞いた御教化も、覚えた話も信の一念の場合には、
更に役に立たぬから聞かぬ侭で堕ちつつあるではないか。
其の必堕無間の有りたけが真実の御親に救済されるのだから、
聞かん侭と聞き開くのじゃ」。
(『魂のささやき』p.48-49)

魂のささやき

2008-05-23 11:22:13 | Weblog
14 六字が成り立たん

 私が居なけりゃ南無阿弥陀佛がなりたたん。南無の二文字は任せた機、
阿弥陀佛の四文字は助ける法、真実に成り切れない私、聞けば聞く程抜ける私、
静かにすればする程乱れる私、持ちも携げもならぬ私、泣くに泣かれぬ私、
曇りの晴れぬ私、疑いのやまぬ私、薄紙のとれぬ私、きょろりとして驚きの立たぬ私、
妄念煩悩に満ちて居る私、始末の付かぬ私、愛想が尽きたと口で言うて
心は知らぬ顔している私、地獄と聞いてもぴりとせぬ私、
どれが自分やら解らぬ私、知った振りしたい私、聞けば聞く程受け付けぬ私、
只に成りたいのは山々じゃが成り切れぬ私、ふみ込み様の判らぬ私、
何が何やらさっぱり判らん私、一息々々、一秒々々運ばれて三悪の火坑に飛びこむ私、
もがけばもがく程深みへ沈む私と、地団駄ふめばふむ程、
無間地獄のどん底に勢いよく走って行く姿であると思っても、
知らぬ顔して居るしぶとい私の、心の有りったけにかかり果てて親子諸共共々に
堕ちるも上がるも一緒じゃ!!と声なき声を聞いてみりゃ、
私が居らにゃ六字が成就せんのじゃそうな。
不思議の親も有ったもの、只と言や散り乱れる心のなり、寝るも起きるも南無阿弥陀佛、
疑いなく必ず助ける本願が届いたのじゃから、疑いなく私が助かるのじゃ。
正定聚の菩薩とは尊いなあ。何故か煩悩が腹一杯じゃでなァ。
底が知れんで高さが知れん。立っても居ても南無阿弥陀佛。
(『魂のささやき』p.46-47)

魂のささやき

2008-05-22 08:18:00 | Weblog
13 机の上の講釈

 信仰は実地問題で議論ではない。水泳でも大工でも何事に依らず、
理屈は合うけれども実地になると口と手が相応しない。
畳の上の水練では水の上は渡れない。材木や道具のみ集めて来ても家は建たない。
物質界の事でさえ口と実際と相応しないのに、況して佛心と凡心と火花を散らす
機法一体の味を、机の上で講釈聞いて合点して覚えたのを信仰の様に思い、
少々本を読んで感じたのを信心の様に心得て居るが、頭だけは調子がよかろうが、
腹が承知して居ないから涯底のない生死の苦海が渡り切れるものかい。
 堕ちる者をお助けと書いてある。「たとひ罪業の深重なりとも」
「かかる機までお助け」と書いてある。私の機を知りぬいた本願じゃから、
心配せんでもよいと、机の上の講釈や説教の上の御教化で押えて居るが、
それで心が承知して居るだろうか。
二三年聞き砂糖屋の門口を通った位の金箔付きの只聞きの信者ならいざ知らず、
出て行く未来はと考えた同行なら、なんとかなりたいの煩悶は有る筈じゃ。
薄紙一重がの心配が出る筈じゃ。宗教的の煩悶はこれからじゃ。
 「たとひ罪業は深重なりとも、必ず弥陀如来は救ひまします」と仰せられてある
と言うが、それは御教化じゃ。それは知ったのじゃ。覚えたのじゃ。
実地に助きのとれない罪業深重の魂を体験した事が有るまいがの。
それじゃから必ず救うの勅命が胸の中に閃くまいが。
それじゃから胸の中は晴れないままじゃ、喜ばれないままじゃ、
とよい加減に誤魔化しては居ないか。
唯で救われて五十二段を飛びこえさして頂く切味、信楽開発の喜び、信心歓喜、
踊躍歓喜の味い、佛智満入、明信佛智の妙味、疑なく本願に救われ、
佛凡一体の私が喜ばずには居られるかい。
理屈じゃ行かんから不可称不可説不可思議の信楽と仰有ったのである。
(『魂のささやき』p.44-46)

魂のささやき

2008-05-21 13:53:49 | Weblog
12 親が泣くぞ

 同行同志があの人の信心は異安心じゃと言って罵り合って居るが、
本当の異安心というものはどんなものか知って居るのだろうか。
頂かして貰ったと腰をすえて居、而も人が悪くて自分が一番よい様に思ったり、
何かに執われて居る間は、悉く方便の桁に居るので、
桁はずれの世界に出て不思議の佛智と、一体に融合した処を信楽開発というのじゃが、
こんな妙味の世界に覗こうともせず、求めもせず、唯々説教本読んで安心したのが
信心と言うが、頭は合点しても心が承知せん筈じゃ。
そこに腰掛けて居て、同行の悪口言うのじゃ。
その人達は真剣に生命の中枢、核心に触れる迄求めた事が有るじゃろうか。
極難信の金剛心を体験した事が有るだろうか。
蛙がガァガァ鳴く様に騒ぎ立てるが念佛の同行同志が火花を散らせば親が泣くぞ。
早く気が付いた方が救われた嬉しさを喜んでお念佛しようじゃないか。
(『魂のささやき』p.43-44)

魂のささやき

2008-05-20 12:19:59 | Weblog
11 右返事

 先日はお手紙有りがとうございました。
お変りなく皆様が御辛抱なさいますので、安心致しました。
八幡の方は不幸続きで大積の祖母さんの、百ヵ日の後に芳子が、
又百ヵ日位で佐賀の祖母さんが死なれましたが、
之が人世でございましょう。誰が早く行くやら、出て行くまでの命ですから、
根限り佛法の為に働いて置かねばなりません。
 何時も何時も御親切に私の信心はどうであろうかと御心配下さる、
有難う御座います。
十八願の味を一口で言えと申されましたが
「救われた嬉しさには、称えずにはいられません」
とお答え申します。
 お母様、お念佛は私の往生の決った証拠では有りますが、
親の心即ち信心が届くまでは、唯になったのではありません。
御文章にも「口にただ称名念佛ばかりを称ふる人はおほようなり。
それはおほきにおぼつかなき次第なり」ともあり、
親鸞聖人様は「真実信心には必ず名号を具す。名号には必ずしも
願力の信心を具せざるなり」と仰せられてありますが、
なんでもえー念佛せよ、そのうちには何とかなろうと言う念佛は、
二十願の念佛でおぼつかない、ひょっとの出て来る念佛であります。
名号には必ずしも、願力の信心を具せざるなりで、
称えてはいるが、唯の味を知らないで、自分で助かると思うて居るのです。
うわつらだけ思わして貰っている人で、五劫思惟の本願は私一人の為じゃと言う、
決定心はその人には有りません。
 而し罪悪のかたまり、不実一杯の私、真実になり得ない私に、
かかり果てて下さる如来様の絶対の不思議に眼の覚めた時、
唯の唯とは私の罪悪の有りたけかと驚いた信の一念に、
佛凡一体、機法一体の味を得たのを佛智満入とも、信心歓喜とも言いますので、
真実信心には必ず名号を具する、
佛のお手元(名号)が私に届く(信心)が口に出る(称名)名号のままが信心、
信心のままが称名で、真実功徳大宝海の名号の私の胸に満ちて大信海となり、
弥陀の廻向の御名なれば功徳は十方に満ち給うと、称名が出て行くのですから、
救われたい嬉しさ(信心)には、称えずには(称名)居られませんと、
お答えするのです。
八幡にも三十年五十年と聞いてはいるが、この様ではひょっとの同行や、
薄紙一重が晴れ切れんで困っている同行や、あの人の様に喜べないと言う同行や、
はっきりしそうなものと言う同行や、色々大病をかかえた同行が
沢山居られます。
 機を見るな手間がかかると教えらるる善知識も有るが、機を見れば手間がかかり
見ねば早いと言われるが、おかしな本願があればあるもの、
見れば遅い見ずに居れば早いと言うのは、一生懸命になれば遅いが、
知らん顔して居れば早いというのと同じ事、
その様なごまかしで参る様なお浄土ではありません。
今度の往生は御教化でぬすくって、そう思うて参るお慈悲ではなく
実際問題です。心の底から唯にならねば真実に救われたのではありません。
機を見ずに頂いたと思う同行は五十年聞いても、気持の悪い薄紙一重ひょっと、
あれでもなぁ、がのきませんが、照さるる機を見て進んだ者は、
この不実一杯の機にかかり果てた本願じゃと、真剣に進みますから
早いのになると只の一席位で、踊り舞いして唯の味を体験致します。
その時に十八願の味を聞き開いて、救われた嬉しさには称えずにはいられませんと、
飛び立って佛凡一体の妙味を得るのであります。
凡夫は何も知らんでもよい、もやもやの起るなりが唯じゃなど教える知識もありますが、
その人はまだ自分が晴れていないので、感じたのを信心と思っている人です。
痴無明や疑無明の区別がはっきり判らないから水際を鮮かに体得出来ないのです。
 親の誠が届いて晴れなくって何時晴れる時が有りますか。
聞き得た一念に疑の雲りは、さらりと晴れ渡り、重荷おろした味、
唯じゃ唯じゃと踊ります。
親の若不生者の誓を貰った人なら此世から体徳を言えば正定聚の菩薩、
決定必定、極楽の後とりの自覚がなくてどうします。
一、至心信楽欲生我国とある信楽は、疑い晴れて曇りのない、ひょっとのない、
疑蓋雑わる事なしの、明かな、親と一体にとけあった味なのです。
二、信心歓喜、私の侭が南無阿弥陀佛とは、あらあら心得易い安心や、
行き易い浄土や、私の行く処は皆お浄土と言う、広い世界に飛び出した味。
三、明信佛智とは、大経のお言葉で明らかに佛智を信ずるとは、
罪悪に繋がれ、動かれぬ私にかかり果てた本願なら、私が参らで誰が参るのか。
五劫思惟の本願は私一人の為じゃ。私は正定聚不退に住さして頂いている。
佛智の全体が私の妄念に満入した時で、明かに届くのじゃで暗は一寸も有りません。
四、彼佛名号歓喜踊躍乃至一念とは名号を聞き開いた時は、
手の舞い足の踏む処を知らず、私が弥陀やら、弥陀が私やらの信の一念の処で、
不可称不可説不可思議の味い、苦抜けのした世界。
五、曇鸞大師は弥陀の名号は、衆生の一切の無明の闇を破し、
衆生の一切の志願を満足せしめ給うと説いて居らるるが、うす紙や、ひょっとや、
とは言うてもの残って居る間は真実の如来に救済されたのではありません。
手を挙げても脚を動かしても、私の侭が南無阿弥陀佛で、疑いの雲霧は晴れて
往生の一大事を解決さして頂いた喜びは筆や口では顕わされませんから
聖人様は「心も言葉もたえたれば不可思議尊を帰命せよ」
と申されたのです。
六、善導様は深心を説明して、深く信ずるの心なりと言い、
廻向発願を釈して此の心深信せること由し金剛の若し。
七、正信偈には行者正しく金剛心を受けともあり。
八、ああ弘誓の強縁は多生にも遇ひ難く真実の浄信は億劫にも得難し、
浄らかな信心は汚れはなく、ひょっとのない事。
九、他力至極の金剛心、一乗無上の真実信海なり。
十、たちどころに他力摂生の旨趣を受得せり。
十一、大悲の願船に乗じて、光明の広海に浮びぬれば、とは名号と一体になり
苦抜けがして、何時もほやほやして居る姿なのです。
十二、今こそ明らかにしられたり。
とも色々お言葉は有りますが、明らかなお慈悲を明らかに貰うのです。
暗い侭と教える人は晴れたのではありません。
親が承知じゃからお前は知らんでもよいと教える人は
まだ親の味が本当に判らない人です。
十方に満ちた大慈悲の親の一人子にさして貰い、今が正定聚の菩薩に
さして貰った嬉しさには喜ばずには居られません。
 つづまる処、私の侭が南無阿弥陀佛、身も心も口も今は如来と一体じゃ。
此の御恩を如何にして報じようか。あらあら唯とはこの侭じゃと
踊り舞い致します。広大難思の慶心とは深さや広さの知れない喜びです。
此の身にさして下さったお母様は、善知識、佛様の化現じゃ。
 御恩の程を忘るる事は出来ません。
    南無阿弥陀佛、南無阿弥陀佛。
 別紙は私の定例布教の日程です。毎日毎夜活動していますが、
救われた嬉しさに比ぶれば、一寸も御恩報謝は出来ません。
身の続く限り倒るる迄進みます。
 兄様曽我の兄弟の話は忘れますまい。両親の名を挙げるのも二人です。
名を汚すのも兄弟です。兄は物質界に弟は精神界に何れが活躍するかと
二人で涙流して誓った事は今猶お脳裡に刻み付けられています。南無阿弥陀佛。

  定例布教日程(省略)

定例以外の日は、毎日臨時で参りますから、一日も休みは有りません。
私は法話も説教も下手ですが、信仰に悩む求道者に話しますのは御飯より好きで、
法味楽は底の知れない楽しみで、一切の物を忘れてしまいます。
何卒御身御大切に遊ばして早くお帰り下さい。皆々様によろしく。合掌。
(『魂のささやき』p.35-43)

魂のささやき

2008-05-18 11:14:55 | Weblog
10 母より

 此世は僅か夢の世でございます。何卒本気になりて人様にお聞かせ下さい。
口で言ふて聞かしても、お念佛が浮ばぬ様では面白くありませんから、
又お座の後に残った人に、どうか、どうお聞きなされたか、
と尋ねて上げて世間の話に移らぬ様にして下さい。
ある同行が、如何にお説教が上手と人に讃められても、
お念佛も浮ばぬ、お説教がすめば直に世の話をしたり、
私の役目はもうすんだと申す様な素振りをしたり、
する様ではどうも面白くありませんと申されましたが、
お念佛が少し数が多く出れば称名正因の異安心じゃと言われる人もあるが、
出ないのは貰い物がたりないからです。
それから安心したのがお領解だの、疑晴れたのが御信心だのと、
型ばかり教える人がありますが、あなたは私にどうお聞かせ下さいます。
十八願のおゆわれを手短にお聞かせ下さい。
 親切な親ではないか。子供を佛にしよう永遠に生かそうの一念から、
身の衰えるも忘れて働き、而も信仰も一匹の馬がくるえば千匹の馬がくるう様に、
導く針が直しく行かねば続く同行の糸も曲る様に、
真の親に逢えよ逢えよ自信教人信じゃで、真実信心には必ず名号を具するのじゃぞ、
名号の出ない様なものは本真者ではないぞと、誡めてくれる大善知識が
三千世界に何処にあろうか。私を絶対の親に逢わしてくれた親こそ、
阿弥陀様の化現じゃ、私の輪転無窮を哀んで、親子の縁を結んで
眼を醒さしてくれた権化の人じゃ、と仰がずには居られない。
合掌せずには居られない、第十八願の味を、手短く味いますれば、
「救われた嬉しさには、称えずには居られません」
(『魂のささやき』p.33-34)

魂のささやき

2008-05-17 14:43:17 | Weblog
9 難信の法

 大経下巻に

  佛弥勒に語りたまはく、如来の興世は値ひ難く見難し、
  諸仏の経道も得難く聞き難し、菩薩の勝法諸波羅蜜は
  聞くことを得るも亦難し、善知識に遇ひ法を聞きて能く行ずる
  此亦難しとなす。若し斯の経を聞きて、信楽受持せんは
  難中の難、此の難に過ぎたるは無し。

小経には、

  釈迦牟尼佛能く甚難希有の事を為し、能く娑婆国土五濁悪世
  劫濁見濁煩悩濁衆生濁命濁の中に於て、阿耨多羅三藐三菩提を得て、
  諸々の衆生の為に、是の一切世間難信の法を説くと、
  舎利弗当に知るべし我五濁悪世に於て此の難事を行じ
  阿耨多羅三藐三菩提を得て、一切世間の為に、此難信の法を説く、
  是を甚難と為す。

善導大師は、

  道俗時衆等、各々無上心を発せども、生死甚だ厭ひ難く、
  佛法また欣ひ難し。共に金剛の志を発して、横に四流を超断せよ。

教巻には、

  難信金剛の信楽は疑ひを除き証を獲しむる真理なり、乃至
  噫弘誓の強縁は多生にも値ひ難く、真実の浄信は億劫にも獲難し、
  遇ま行信を獲ば遠く宿縁を慶べ、若し也此の廻疑網に覆蔽せられば、
  更りて復た曠劫を経歴せん。乃至爰に愚禿釈親鸞、
  慶ばしき哉、西蕃月氏の聖典、東夏日域の師釈に遇ひ難くして、
  今遇ふことを得たり。聞き難くして已に聞くことを得たり。

行巻には、

  弥陀佛の本願念佛は、邪見憍慢の悪衆生は信楽受持すること甚だ以て難し、
  難中の難斯に過ぎたるは無し。

信巻には、

  易往無人の浄信、乃至世間難信の捷径、乃至然るに常没の凡愚流転の群生
  無上妙果の成じ難きにあらず、真実の信楽実に獲ること難し。

和讃には、

  如来の興世にあひがたく   諸仏の経道ききがたし
  菩薩の勝法きくことも    無量劫にもまれらなり。

  善知識にあふことも     をしふることもまたかたし
  よくきくこともかたければ  信ずることもなほかたし。

  一代諸教の信よりも     弘願の信楽なほかたし
  難中之難とときたまひ    無過斯難とのべたまふ

  真実信心うることは     末法濁世にまれなりと
  恒沙の諸佛の証誠に     えがたきほどをあらはせり。

  不思議の仏智を信ずるを   報土の因としたまへり
  信心の正因うることは    かたきが中になほかたし。

御文章の

  (一の一)うれしさを昔は袖につつみけりこよひは身にもあまりぬるかな。
   嬉しさを昔は袖に包むといへる意は昔は雑行正行の分別なく、
   念佛だに申せば往生するとばかり思ひつる心なり。

  (一の六)には、それにつけても面々の心中も、殊の外油断どもにてこそは候へ。
   命のあらん限りはわれらは今の如くにてあるべく候。
   万につけて皆々の心中こそ、不足に存じ候へ。明日も知らぬ命にてこそ候ふに、
   何事を申すも命終り候はば、徒事にてあるべく候。
   命のうちに不審もとくとくはれられ候はでは、
   定めて後悔のみにて候はんずるぞ。御心得あるべく候。

  (一の十一)には、門徒の方より物を取るを、善き弟子といひ、
   これを信心の人といへり。是れ大きなるあやまりなり。
   また弟子は坊主に物をだにも多くまゐらせば、わが力かなはずとも、
   坊主の力にて助かるべきやうに思へり。これもあやまり。
   かくのごとく坊主と門徒の間に於て更に、当流の信心の心得の分は一つもなし。
   まことにあさましや。師弟子ともに極楽には往生せずして、
   空しく地獄に堕ちんこと疑なし。

  (二の五)には、しかれば当時は更に、真実信心を獲たる人至りて稀なりと
   覚ゆるなり。それは如何ぞなれば、弥陀如来の本願の我等が為に
   相応したる尊さのほども身には覚えざるが故にいつも、信心の一通をば
   我れ心得顔のよしにて、何事を聴聞するにもその事とばかり思ひて、
   耳へも確々とも入らず、ただ人真似ばかりの体たらくと見えたり。
   此の分にては自身の往生極楽も今は如何と、危く覚ゆるなり。
   いはんや門徒同朋を、勧化の儀も中々これあるべからず。

  (二の七)この一念の安心一つにて、浄土に往生することの、
   あうやうも要らぬ取りやすの安心や。されば安心といふ二字をば、
   易き心と訓めるはこの意なり。さらに何の造作もなく、
   一心一向に如来をたのみまゐらする信心一つにて、極楽に往生すべし、
   あら心得やすの安心や。又あら行きやすの浄土や。
   これによりて大経には易往而無人とこれを説かれたり。
   この文の意は安心を取りて、弥陀を一向にたのめば、
   浄土へは参り易すけれども、信心を取る人稀なれば、
   浄土へは往き易くして人なし、と言へるはこの経文の意なり。

  (三の四)、ただ声に出して南無阿弥陀佛とばかり称ふれば、
   極楽に往生すべきやうに思ひはんべり。それは大きに覚つかなきことなり。

  (三の五)まづ世間に、いま流布して旨と勧むるところの念佛と申すは、
   唯何の分別もなく南無阿弥陀佛とばかり、称ふれば皆助かるべきやうに思へり。
   それは大きに覚つかなき事なり。

等と数え来て見れば、如実に信を得る人は、甚だ稀なように見える。
化土巻には、

  然るに濁世の群萌穢悪の含識、乃至九十五種の邪道を出でて、
  半満権実の法門に入ると雖も、真なる者は甚だ以て難く、
  実なる者は甚だ以て稀なり、偽なる者は甚だ以て多く、虚なる者は甚だ以て滋し。

口は他力で心は自力の者が多いから、佛様が御歎きであろう。
金箔つけたり、渡金した方が美しい同行の様に見ゆるが、
今度の往生は真似では行けないのじゃ。

  たとひ大千世界に    みてらん火をもすぎゆきて
  佛の御名をきくひとは  ながく不退にかなふなり。

一大事じゃ一大事じゃ、真剣じゃ真剣じゃ。
(『魂のささやき』p.26-33)

魂のささやき

2008-05-16 14:31:32 | Weblog
8 攻撃受けし法龍

 悪人を悪人のなりで往生せしむと聞いて、むづと疑いなく慮りなく
彼の願力に乗ずるだけである。
調機の善人なれば煩悶も疑念も更に有るまいけれども、
法龍如き地獄這出の劣機は五十一段の菩薩の階位ばかりでなく、
天上界に声聞、縁覚を後にして妙果を安養に証得するなど
一朝一夕には体得出来ないのじゃ。
 それ故寝食を忘れ、泣き泣き法を求めたが、真実に向っては金輪際動かぬ心、
而も妄念乱想の静まる時のない心、是れが私の自性である
との自覚を得るより他には何も無かった。
嗚呼、悪人を悪人のなりで、往生せしむとは、金輪際動かぬ妄念を
摂取して下さった味であったのかと、声にも出でず
南無阿弥陀佛、南無阿弥陀佛、南無阿弥陀佛と咽ぶばかりであった。
 素直にお聞きなさる方から見られたら煩悶した話は可笑しい様であろうけれども、
曲り者は曲り者だけに骨が折れた。親様のお骨折りはどれだけであったろうか。
而し苦労しただけ、それだけ御恩の程が尊いのである。
 こんな酸い甘味い味は食べた者同志でなければ味えない。
何とした甚深微妙の法門であろうか。広大無辺のお慈悲であろうか。
法龍の侭が佛に成るのだが。

  罪障功徳の体となる   氷と水のごとくにて
  氷おほきに水おほし   障おほきに徳おほし。

絶対の悪が絶対の善に救済されて見れば、生死の苦界ほとりなきままが、
真実功徳大宝海じゃ。煩悩の無涯の侭が光明の広海じゃ。
道理理屈を離れた不思議の境地は、仰げば弥々高く広くして、
虚空の如く十方に遍し、心は浄土に住み遊ぶのである。

  如来大悲の恩徳は   身を粉にしても報ずべし
  師主知識の恩徳も   骨を砕きても謝すべし。

此の嬉しさには説かずには居られない。叫ばずには居られない。
如来と我は一体なりの自覚の前には恐るべき者はない。
富も地位も名誉も権勢も何かはある。此世の間の箔であり装飾である。
払い落せば自性の妄念より他にはないのじゃ。
この妄念が横超の直道を猛進する時は、善もほしからず、悪も恐れなしと
無碍の信念を得て居るのである。
 病うた者でなければ病気の味は知れない。
溺れた者でなければ救われた時の気持ちは解らない。
飢饉に逢うた者でなければ食物を恵まれた時の嬉しさを知らない。
貧窮に泣いた者でなければ令諸衆生功徳成就の妙味を体得する事は出来ない。
 八方攻撃の中に五劫思惟の本願は親鸞一人が為なりけりと打任せたる
絶対信順の聖人は善につけ悪につけ如来に計われて居るのであるから、
佛恩の深遠なる事のみを感謝して、人々の誹難を念頭に置かれなかった様に、
誹難されたからとて悪口言われたからとて、やりかえもつかなければ
信仰を変える事も出来ない。
自分で思い堅めた信仰なら訂正も出来ようけれども、
思慮分別を超越し総てが間に合わない侭で願力の不思議に間に合うた嬉しさ。
攻撃する人が有っても攻撃する人もされる人も共に死んで行くのだ。
死なぬ佛に讃めらるる身になった事を慶ばずには居られない。
(『魂のささやき』p.23-26)