小説 ONE-COIN

たった一度、過去へ電話をかけることが出来たなら、あなたは、誰にかけますか?

雪が解けるまで 12

2006年03月06日 | 雪が解けるまで
「葉書届きました」
 小さく呼吸を整えてから言葉を並べた。たぶん、三太の母の耳の中へ入っていただろう。
「ごめんなさいね、うっかり忘れてしまっていて」
 今の面持ちから考えても似合わないほどさらりと言いのけた。言葉が返せず絶句してしまった。うっかり忘れてという言葉は、三太の母の口癖なのかもしれない。それとも、三太の口癖を母が真似をしてみたのだろうか。そんなことを考えてから、ここで使われたうっかり忘れるという意味について頭の中で回転させる。上から見ても下からみても横から見ても三百六十度横転してみせても、ただのうっかり忘れてだ。
 今まで連絡を取ることをうっかり忘れていて、それは絶対に違う。でも、このうっかり忘れてという言葉のおかげで、なぜ、私に出したのか問う道は絶たれたように思えた。結局、そうですかと答える他ない。私の顔色は三太の母にどう映っているのだろうか。
「もし、都合がついたらだけど、久しぶりに顔を見せてあげて、あのおっちょこちょいに」
 三太の母の声は、同じトーンでやさしかった。まん丸の懐かしい声だ。でも、膝の上に置いた手の人差し指は、重ねた指をしきりに擦っている。私の心は、ドクンドクンと跳ね上がっていく。自分の呼吸が乱れているのは、あからさまに白い吐き出される息で分かるだろう。けれど、三太の母は、出来るだけその動揺を隠すように事故前の彼女のように明るさを装っていて、いつのまにか私は、三太の母にですら気を使わせてしまっているのだ。事故の事実も後に知ったに違いない。もしそれが本当ならばしっかりと伝えなければならないと私は大きく息を吸い込んだ。
「三太が追いかけたのは、やっぱり私だったんです」
 事故の日から、何度も何度も同じ事を聞かれ責められ続け、そのたびに私は、首を振り続けた。バス停にいたのは私ではないし、三太は私を追ったわけではない。現に私はそこにいなかったのだと。でも本当は、そうであってほしくなかっただけだ。でも、それが三太の見間違えであっても、三太が追ったのは私だったのだ。私の背中を追い、私の名前を叫び、何も知らずにいなくなってしまった。
「あの子も、もうそろそろ思い出すかもね。うっかり忘れていたって」
 そうですね。また同じ。レパートリーが少なすぎる。情けなく不甲斐ない。堪らず立ち上がっていた。人目を憚らず大きく深呼吸をする。
「いつか、顔を見せてあげて、デート中でも構わないから、あっ家族旅行の日程に入れてくれてもいいわね」
 橋へと視線が飛びその先に茶色いニット帽を被った男性の後姿へ視線が止まった。下から見上げているので上半身しか見えないが背が高いせいか他の人よりも目立っている。どうして、その人へ視線が飛んだのかは分からない、偶然だったのかもしれないし、何かを感じたのかもしれない、けれど、今の私にはそれを明らかにするほどの余裕はなかった。むしろ、もう駄目だった。言葉のひとつもでなければ三太の母の顔すら見ることが出来ない。腰骨に微動する何かを感じ、それが懐中時計だと気づいた。ポケットに手を入れそれを握る。秒針が定期的に動いている。こんなことなら、あの時計博物館の館長にこの時計が止まる三十分前に巻き戻してもらえばよかった。そうしたら、私は事故の朝コタツの中で眠り込んでいるとき、友人がトイレに立ち上がった時、それに気づいていた私も起き上がって部屋を出て駅へ見送りに行き、しっかりと別れを告げ、お互いの道をごく普通に過ごすことが出来たはずだ。三太の未来はまだ続いていた。何千回、何万回と考えた事だった。けれど、そんな事が起きるわけもなく、虚しくなって苦しくなって悲しくなるばかりだった。こんな事だから見兼ねた皆が私をここへ置き去りにしたのだろう。
 ならば、三太の母も、私のためにこの場所で待ち話しているのか。七年の時間は、皆も同じ時間だけ動いていた。それらの時間、何を思い過ごしていたというのか、ただ何もせずにいる事は不可能だろうし、そのたびに折り合いをつけ時には、苦しみ迷いながら・・・、迷いながら過ごしてきたはずだ。やっと気づいた、私は、とんだ自分よがりだった。三太の周りにいたのは私や三太の家族だけではない。皆、自分のために、答えを探そうと決め立ち上がったのだ。

 この感触を忘れないように、手のひらの中にある懐中時計を強く握り確かめた。指先にある細胞がコンマ何秒の振動も取り逃さないように。すべてを忘れないように。


 橋を渡る彼女を、ベンチに座ったまま見送る。気力を使い果たしていた。彼女は一度も振り向かずに前を見て歩いていく。何度も何度もこのときを想像し、どんな言葉をかけようか毎日迷い悩んだ。言ってしまった今も、それが正しかったのか間違っていたのか、分からない。ましてや、私の思いとは裏腹にまったく違った意味で彼女は受け取ってしまったかもしれない。けれど、今、手のひらの中にあるこの懐中時計が、そんなに間違った方向へはいっていないと物語っている。耐え切れず立ち上がった彼女を前にしたとき、また間違ってしまったと後悔したが、彼女が懐中時計を突然取り出してみせ、私へ差し出し、それを受け取ると、動き出しました。とだけ、無理やり笑顔を作りリュックが頭にガツントぶつかるほどに深々と頭を下げその場を後にした。息子が気に入っていた懐中時計が、再び動き出し私の時間もスムーズに動き出してくれたように思える。彼女を疑い、罵り傷つけ、苦しい七年にしまったのは今も消えない、これからも。でも、謝る事も、彼女の幸せを願う言葉もしっかりとは口に出来なかった。それは、また今度会えたときに持ち越そう。
 彼女は橋を渡りきり姿が見えなくなった。その姿をぼんやりと思い浮かべていると橋の中央辺りを歩く茶色いニット帽を被る男性が突然駆け出した。背が高いのか他の観光客に比べ頭一つ出ている。駆け出したニット帽の男性はあっというまに消えてしまった。あの後姿に見覚えがある。今日という日が、二人にとって幸せへのきっかけに為れば良いねと、息子がよく見ていた景色に話しかける。

 川面がキラキラと瞬いた。


thank you・・・。
まだまだつづくと言いたいところですが、ゴールは案外近いです。でもまだつづく。