冷静になれ、冷静になれ私。もう大丈夫だと三太の母に伝わるようにまっすぐ前を見て歩こう。手足は交互に出ているよね。肩に力が入り過ぎているかな、でも、ぎこちなく見えないよね。振り向いて笑いかける事は出来ないけれど、これが私に出来る精一杯の事だった。でも、中身はボロボロで、いつの間にか空がオレンジ色に変わりだした事も、影が長く伸びている事も、観光客が疲れた顔になっていることも、風が冷たさをましていた事も、何一つ気づく余裕すらなく、自分がどこにいるのかさえ分からなくなっていた。
気持ちが昂って涙が溢れそうになったとき、どうして駆け出してしまうのだろう。それはドラマでよく見る光景だけれど、一概に間違っているわけでもなさそうで、大げさでもないようだ。もう、三太の母からは見えていないと考えた瞬間に、涙を堪えるために行く当てもなく駆け出していた。これが、ランニングコースならさほど目立ちもしないのだろうが、ここは町一番の観光名所で風格のある長屋の店が道を挟みまっすぐと続き、その道は歩道専門で脇には水のせせらぎが聞こえる。丁寧に雪かきがされているのか雪は所々にしか残っていない。観光客はのんびりと連なる店を眺め時には足を止め楽しんでいる。そんな場所を、私は全速力で駆け抜けていく。始めは人を避けながら走っていたが、すぐに、走る音と振り子のように揺れ動くリュックに不信感を抱かれ警戒され自然と行道が開かれていた。しだいに息は切れどこまで走ればよいのか分からなくなり観光客の視線は私へと注がれ続ける。
「ユキノハラアアアア」
ユキノハラアアアア・・・YUKINO HARA・・・原雪野。私の名前だった。
頭が妙に小さい男が、となりの席に偶然座り名前を聞かれた。
「野原の原に、雪が降るの雪に、野原の野で、原雪野」
私の説明に、妙に顔の小さい男が机の上に直接カツカツとシャーペンで私の名前を書いていく。全部右肩上がり角ばった文字だ。最後に付けられた溶けて形が崩れたようなハートマークにあえて触れない。
「ローマ字にすると、ゆきのはらだ、これ確信的でしょ」
ハートマークを、丁寧に塗りつぶしながら話す姿が、面倒になり、知らないと答える。でも、さらさら話題を変える気はないらしく、今度はローマ字の下に、漢字で雪野原と書いてにやにやしている。そして、また読み上げた、やや気持ちの悪い男だと思い始めていたとき、男の肩が突然捕まれ後ろへぐいっと引かれその勢いで体が椅子ごと傾きそのまま倒れた。後ろの席から突然飛び出してきた男は、頭の小さな男が書いた文字を不自然な体制のまま乗り出し読み上げた。
「雪、野原、清清しくて気持ちよさそうな名前だな。ちなみに俺は三太って言うんだ、長男だけど三太」
倒れたままの妙に頭が小さい男は、倒れているのにいまだ、椅子に座ったままでぼんやり天井を見ているのかと思ったら気を失っていた。
伊達強志は、体格も良いし名前も強志であり、負けるところ敵なしのように思われがちだが、誰よりも痛みに弱かった。つま先を柱の角に掠らせただけで、うなり声を上げて蹲っていたし、雪の日に調子に乗って自転車に乗り、案の定転び、体を強打したときは痛みに驚いて気を失った。カッターで指先を切った時は、指先を包帯で保温するくらいグルグルと巻きつけ号泣していた。初めて会った時も、椅子ごと倒れて気を失い、とにかく痛みにめっぽう弱い迷惑な男なのだ。けれど、私は伊達強志の失神のおかげで三太と多々話す機会が生まれたのも事実だった。
背中へ投げつけられたような言葉。それが私のブレーキになる。流れに投げ込まれた二つの石。流されることなく動かない石。流れは仕方なく石を避けて流れる。
立ち止まり振り向くと動く観光客の中に、茶色いニット帽を被った男性が立ち動く事無く私を見ていた。ニット帽を被った男性の前にいた若いカップルが退くと姿を現し、ニット帽を被り、いつもにもまして小顔で人一倍肩幅が広く、皮のコートを着込んでいるせいか不自然に広すぎる。その上背が高い一見モデル並みのスタイルの伊達強志がそこにいた。三太の親友だ。懐中時計を私に渡した男だ。
連なる軒先からカラスが翼を広げ飛び立つ。その向こうには金星が光を放っていた。
転がった缶コーヒーがこつんとつま先に当たる。電話が鳴りそれを取るとすぐに友人の部屋を飛び出し病院へ駆けつけた。訳が分からず息を切らしたまま立ち尽くしていたが、動けなくなったのはそれだけではなく、一斉に向けられた視線、その中で一際恐ろしいものは母親と伊達だった。伊達は手にしていた缶をソファに置き捨て私と視線を合わさぬまま歩いてくる。足元の缶を拾い上げ、腕をきつく掴み誰もいない廊下へ引っ張っていく。体は意思に反して引きづられていく。
誰もいない休憩フロアの壁に肩が強く当たり痛みが走った。伊達は、何も言わずに捨てるように手を離す。
「何をしてた?おまえ何してたんだよ。どこ行ってた」
押し殺していた声は、しだいに強さを増し鋭くなり私を混乱させる。
「どこって・・・それより大丈夫なの、ねえ・・・大丈夫だよね」
「聞こえ・・・どうして、聞こえなかったんだよ。どうしてだ答えろ」
怒りに声を詰まらせながらも激しく怒鳴る伊達に通りかかった看護師が立ち止まり声をかける。引きつった顔をした二人はただ頷くだけしか出来ず、伊達は、今にも私に殴りかかりそうな勢いだ。振りあがった伊達の腕は、再び私の腕を掴み引きづられるように非常階段に押し出される。
「見た奴がいるんだよっ、お前がバス停にいて、駅にいたあいつがお前を追いかけたことを。水色のダウンを着たおまえが、バスに乗る姿を見たやつがいるんだぞ、見送りに行ったんだろ、なんで声をかけねえんだよ。どうして、気づかねえんだよ、あいつの声が聞こえなかったんだよ」
掴まれたままの腕が突き放されたとき、トレーナーの袖は伸び腕は痺れ伊達が持ったままの缶がグニャリとへこみ私が口を開こうとすると一方的に帰れと吐き捨て、背中を向け非常階段が揺れるほどの勢いでドアを閉めた。私は一人残されその場に崩れ落ちた。その扉は開かれる事も開く事もなかった。
thank you・・・
今日は、突然雪が舞いました。春一番が吹いたはずなのに。
そんなわけで、どんなわけで?そろそろ、この物語も終わりが近いです。
もう少し、つづく。
気持ちが昂って涙が溢れそうになったとき、どうして駆け出してしまうのだろう。それはドラマでよく見る光景だけれど、一概に間違っているわけでもなさそうで、大げさでもないようだ。もう、三太の母からは見えていないと考えた瞬間に、涙を堪えるために行く当てもなく駆け出していた。これが、ランニングコースならさほど目立ちもしないのだろうが、ここは町一番の観光名所で風格のある長屋の店が道を挟みまっすぐと続き、その道は歩道専門で脇には水のせせらぎが聞こえる。丁寧に雪かきがされているのか雪は所々にしか残っていない。観光客はのんびりと連なる店を眺め時には足を止め楽しんでいる。そんな場所を、私は全速力で駆け抜けていく。始めは人を避けながら走っていたが、すぐに、走る音と振り子のように揺れ動くリュックに不信感を抱かれ警戒され自然と行道が開かれていた。しだいに息は切れどこまで走ればよいのか分からなくなり観光客の視線は私へと注がれ続ける。
「ユキノハラアアアア」
ユキノハラアアアア・・・YUKINO HARA・・・原雪野。私の名前だった。
頭が妙に小さい男が、となりの席に偶然座り名前を聞かれた。
「野原の原に、雪が降るの雪に、野原の野で、原雪野」
私の説明に、妙に顔の小さい男が机の上に直接カツカツとシャーペンで私の名前を書いていく。全部右肩上がり角ばった文字だ。最後に付けられた溶けて形が崩れたようなハートマークにあえて触れない。
「ローマ字にすると、ゆきのはらだ、これ確信的でしょ」
ハートマークを、丁寧に塗りつぶしながら話す姿が、面倒になり、知らないと答える。でも、さらさら話題を変える気はないらしく、今度はローマ字の下に、漢字で雪野原と書いてにやにやしている。そして、また読み上げた、やや気持ちの悪い男だと思い始めていたとき、男の肩が突然捕まれ後ろへぐいっと引かれその勢いで体が椅子ごと傾きそのまま倒れた。後ろの席から突然飛び出してきた男は、頭の小さな男が書いた文字を不自然な体制のまま乗り出し読み上げた。
「雪、野原、清清しくて気持ちよさそうな名前だな。ちなみに俺は三太って言うんだ、長男だけど三太」
倒れたままの妙に頭が小さい男は、倒れているのにいまだ、椅子に座ったままでぼんやり天井を見ているのかと思ったら気を失っていた。
伊達強志は、体格も良いし名前も強志であり、負けるところ敵なしのように思われがちだが、誰よりも痛みに弱かった。つま先を柱の角に掠らせただけで、うなり声を上げて蹲っていたし、雪の日に調子に乗って自転車に乗り、案の定転び、体を強打したときは痛みに驚いて気を失った。カッターで指先を切った時は、指先を包帯で保温するくらいグルグルと巻きつけ号泣していた。初めて会った時も、椅子ごと倒れて気を失い、とにかく痛みにめっぽう弱い迷惑な男なのだ。けれど、私は伊達強志の失神のおかげで三太と多々話す機会が生まれたのも事実だった。
背中へ投げつけられたような言葉。それが私のブレーキになる。流れに投げ込まれた二つの石。流されることなく動かない石。流れは仕方なく石を避けて流れる。
立ち止まり振り向くと動く観光客の中に、茶色いニット帽を被った男性が立ち動く事無く私を見ていた。ニット帽を被った男性の前にいた若いカップルが退くと姿を現し、ニット帽を被り、いつもにもまして小顔で人一倍肩幅が広く、皮のコートを着込んでいるせいか不自然に広すぎる。その上背が高い一見モデル並みのスタイルの伊達強志がそこにいた。三太の親友だ。懐中時計を私に渡した男だ。
連なる軒先からカラスが翼を広げ飛び立つ。その向こうには金星が光を放っていた。
転がった缶コーヒーがこつんとつま先に当たる。電話が鳴りそれを取るとすぐに友人の部屋を飛び出し病院へ駆けつけた。訳が分からず息を切らしたまま立ち尽くしていたが、動けなくなったのはそれだけではなく、一斉に向けられた視線、その中で一際恐ろしいものは母親と伊達だった。伊達は手にしていた缶をソファに置き捨て私と視線を合わさぬまま歩いてくる。足元の缶を拾い上げ、腕をきつく掴み誰もいない廊下へ引っ張っていく。体は意思に反して引きづられていく。
誰もいない休憩フロアの壁に肩が強く当たり痛みが走った。伊達は、何も言わずに捨てるように手を離す。
「何をしてた?おまえ何してたんだよ。どこ行ってた」
押し殺していた声は、しだいに強さを増し鋭くなり私を混乱させる。
「どこって・・・それより大丈夫なの、ねえ・・・大丈夫だよね」
「聞こえ・・・どうして、聞こえなかったんだよ。どうしてだ答えろ」
怒りに声を詰まらせながらも激しく怒鳴る伊達に通りかかった看護師が立ち止まり声をかける。引きつった顔をした二人はただ頷くだけしか出来ず、伊達は、今にも私に殴りかかりそうな勢いだ。振りあがった伊達の腕は、再び私の腕を掴み引きづられるように非常階段に押し出される。
「見た奴がいるんだよっ、お前がバス停にいて、駅にいたあいつがお前を追いかけたことを。水色のダウンを着たおまえが、バスに乗る姿を見たやつがいるんだぞ、見送りに行ったんだろ、なんで声をかけねえんだよ。どうして、気づかねえんだよ、あいつの声が聞こえなかったんだよ」
掴まれたままの腕が突き放されたとき、トレーナーの袖は伸び腕は痺れ伊達が持ったままの缶がグニャリとへこみ私が口を開こうとすると一方的に帰れと吐き捨て、背中を向け非常階段が揺れるほどの勢いでドアを閉めた。私は一人残されその場に崩れ落ちた。その扉は開かれる事も開く事もなかった。
thank you・・・
今日は、突然雪が舞いました。春一番が吹いたはずなのに。
そんなわけで、どんなわけで?そろそろ、この物語も終わりが近いです。
もう少し、つづく。