『自由の哲学』を読む ~日々の暮らしから~

日々の「?」から始めて一歩ずつ
自分で見て考えて、行動していきたい。
私の自由が人の自由にもつながりますように。

ディベートにひっかかるワケがわかってきた

2021年03月08日 | 考える日々
「ディベート」ってのが、
学校教育に取り入れられると聞いた時、
あんまり好きになれない気がしました。

やってもないのに、
ディベートに失礼なんだけど、
その理由が、だんだん言葉になってきました。
その技能は必要だけど、本質が苦手、みたい。

あんまり好きになれそうにない理由は、
「自分の意見じゃないグループに入れられたら、
そっちを主張しないといけないから」
というのが変だと思っていたのですが、
でも違った。

今日やっとわかった。
ディベートと仲良くなれないな、
という予感があったのは、
「勝ち負けを付けて終わるから」でした。

私が好きなコミュニケーションは、
勝ち負けを付けない、
関わったみんなが嬉しくなるような対話。

テーマのないおしゃべりだったら、
みんなが楽しくなりやすいけど、
ちゃんと何かについて話を深めていきながら、
それでも違った意見を持つみんなが嬉しくなれる対話。
そんなのを目指したいのでした。

他愛ないおしゃべりと違って、
テーマのある話をしていて、対立する意見が出た時に、
勝ち負けを決めるのは、どっちも負けてる気がする。

両方を包括して、もう一次元上の新しい本当に至れたら、
その時は、「うわ、ホントにそうだね!!!」って、
勝った負けたを越えて、両者とも晴れ晴れと嬉しくなる。

そういう対話をするためには、
ちゃんと相手の話を聞くのはもちろん、
ちゃんと自分の意見を伝える努力もしなきゃな~。
そっちが欠けてたな~と思う。

モメそうなら、すぐ諦める。
しかも相手のせいにして。
全然人の話聞かない人だな、とか、
怒ってるから今は無理そう、とか。

それもあるけど、半分は自分のせい。
それでも伝える方法を持っていればいいだけの話でした。
話を聞かない人にも伝わる説得力を持つこと。
怒ってる人にも言葉を届ける力を持つこと。
それができれば、相手のせいにしなくて済む。

考えるだに難しすぎて、
そんな方向の努力があることを、
全然気づいてなかったのでした。

今までは、
相手が感情的になって無茶なことを言ってても、
感情部分を除いて、何が言いたいのか、
なんとか内容を理解しようとするのが
「大人のふるまい」だと思って、そっちの努力をしてた。

おかしいよね。
相手を尊重するのと同じように、
自分の考えや感じ方も尊重してあげないと。

そして、何でもかんでも大人のふるまいをして、
いい顔をしていたら、
それはもはや「誰でもいい」になってしまう。
人間関係を作れなくなってしまう。

周りの人を赤ちゃんみたいに信頼して、
「自分はこう思ってるのよ!」ってことを、
あけっぴろげに伝えてる人が周りにもいる。

その人たちは、今までそれでいっぱい
自分も傷ついてきたはず。周りも大変だけど。
それでもよく諦めずに伝え続けてきたな。
本当に尊敬に値する。
そして、そういう人こそ、
豊かな人間関係を築いているように見える。

そういうことか~。
良く見せようとか、大人のふるまいをしようとか、
そういう鎧を着なくていい。
小さくていいんだ。

そうそう。ついでに。
ディベートで、
自分の意見じゃない方のグループに入れられるのは、
自分の思考と感情を切り離してみるという
ココロの筋トレを伴う訓練にもなると思う。

ただし、
自分の思考と感情を客観的に見る訓練は必要でも、
私は、思考と感情を切り離さず重ねれば重ねるほど、
幸せになっていくと思うな。

つまり、ディベートは私にとって、
口論に勝っても幸せにならない技能、
っていうこと。
そこが抵抗を感じるところ。

人に自分の意見を届けるための、
説得力向上の練習にはなりそう。
それは、私に欠けてて、とても大事な技能だね。
そこが私に必要なところ。




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