『自由の哲学』を読む ~日々の暮らしから~

日々の「?」から始めて一歩ずつ
自分で見て考えて、行動していきたい。
私の自由が人の自由にもつながりますように。

物欲が薄い理由、追加でもうひとつ

2020年07月15日 | 考える日々

photo by pixabay

物欲が薄い理由と、メリットデメリットを、
昨日6つほど挙げてみました。

それを言葉にしながら、
「あれ、もしかして、こういうのもあるのかな?」
と、予感がする7つ目のコトガラが浮かんでいます。
言葉になるかどうかわかりませんが。

物欲が薄い理由 その7

自分がソレを持ってなくても、
だれか、他の人がソレを持つことを喜んでたら、
それでいいや、というような感覚が
ちょっとだけあるから。

うわ~、書いてみたら、めっちゃキレイゴト。
ムカつくな。やっぱ、違うかな。うーん、でもなんか
かすかにそういう気配もあるんだよな~。

この予感もうちょっと手繰り寄せてみよう。
えーと、どういうことかな。

「私」というカラダの区切りが絶対ではなくて、
世界も私、っていう感覚、かな。
あ、さらにキレイごと。ダメだ、違う(^^;)。

そだなー、
確かな何かを考えている真髄の所だけが私なんじゃなくて、
総天然色で揺れまくる気持ちの私も私だし、
その入れ物である、このカラダも私だし、
カラダを入れてくれているこの世界も私だし、
結局、誰が持ってようが、そんなに変わらなくない? 
…というような。

「私」って、どこまでが私なんだろうなぁ。
たとえば、臓器移植の手術をしたとして、
その臓器って私なのかな?
私のこの自我が、今の学問で言うように、
単なる脳の操作だとしたら、
脳を誰かに移植したら、その誰かが私になるのかな?

このカラダの脳という一部分だけが私、
なわけがないのと同じように、
このカラダの肉の部分だけが私、なわけもない。
「霊って私のことだったのね」って数日前に考えたっけ。
成長はするけど、一生変わらない所が私。

こうやって、言葉にして書いてる時には、
賛成派の私と反対派の私と第3の目を持つ私と
ふつーはこうだよね? と教えてくれる私と…、
あれこれの人があれこれ言ってる。

その一人ひとりじゃなくて、
それらの、あれこれ言う人たちを俯瞰してる私が「私」だとしたら、
賛成派や反対派が外に居ても中に居ても、
それを眺めている「私」自身の作業は変わらないっていうか…。

この感覚、言葉にするのは難しいな。

あ、これかな!
言葉にする作業を続けているうちに、
自分を客観視(他人のように見る)するクセがついて、
自分も客(他人)になっちゃって、
ホントの客(他人)と自分の中の客(あれこれの人)を区切るエッジが
ゆるくなってきた、って感じかな。

だから、自分がソレを持ってなくても、
だれか、他の人(客)がソレを持つことを喜んでたら、
それでいいや、というような感覚。

気持ちだったら、誰でも実感できるよね。
身近な人の痛みや喜びを、自分の痛みや喜びみたいに感じること。
気持ちで、彼我の区切りのエッジがあいまいなのと、
ちょっと似ているかもしれない。

あ、でも食欲はあるよ。
厳然たる彼我のエッジがある。
狙ってたものを人に食べられたら
すごいがっかりする。
最後のさくらんぼとか、
3種類のうち、一番食べたかったケーキとか。

え、今日は何言ってたんだっけ??
頭悪いのか、そっか。知ってたよ。

ここまで読んでくださった方には申し訳ないけど、
答えにはまだ届かないなー。
そのうち、また言葉になりそうなら書いてみます。

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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
なるほど (オキツ)
2020-07-16 21:53:00
一緒に考えてくださり、ありがとうございます。makoto-hizikata様は、生きる気力と物欲が関連するとお考えなんですね。私ももう一度考えてみます。私の場合、生きる気力は消費したいというより、理解したい・創造したい、という方向に強く働くみたいです。ただ「生きるのに必要な程度」の物欲に限定すれば、生きる気力と直結してますね!刺激をいただき、ありがとうございました♪
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Unknown (makoto-hizikata)
2020-07-16 08:12:43
こんにちは。
物欲がない理由の考察を興味深く読ませていただきました。
私は不謹慎な理由ですが、もう一つあると思います。
生きる気力がない。
これも含まれると思います。
物欲がモノやコトを消費することとするならば、生きる気力がないと食欲もわきません。
生きることは、大小に関わらず物欲がないと生きることができません。
いかがでしょうか?
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