『自由の哲学』を読む ~日々の暮らしから~

日々の「?」から始めて一歩ずつ
自分で見て考えて、行動していきたい。
私の自由が人の自由にもつながりますように。

この身体を使う自由を許されているのは

2021年01月21日 | 考える日々
前によく行っていたお店が閉めてしまった事に、
店の前を通って気づく。
お店が当たり前に続いているわけではないと
気づかせてくれる。

いつでも会えると思っていた人が旅立ったと、
知らせを受けて、驚く。
生きている事が当たり前ではないのだと
教えてくれる。

自分の命ひとつを、どう運べばいいのかと、
途方に暮れる。
考えてばかりいないで、
ただ生きて、旅立てれば一番なのだけれど。

そんな事を思ったとしても、
いつもそのまままた元に戻ってしまう。
何か自分の行動として表さない限り、
いくらスバラシイ事を思ったところで、
現代風に言えば、単なる脳内のパルスの明滅に過ぎない。

私は唯脳論者でも唯物論者でもない。
自分の気持ちも確かにここにあって、
自分の感じていることは、自分では疑うべくもないけれど、
この世で一番確かなものは、気持ちではなく物質だと思う。

気持ちは、誰かから贈られていても気づかないこともあるし、
差し出しても受け取ってもらえないこともある。
渡された形と受け取った形が変わってることなんか、
しょっちゅうだ。

だけど、物質は、モノは、確かだ。
本を1冊買ったら、本が1冊手元に増える。
晩ごはんを作ったら、晩ごはんが出来上がる。

心は壊れていてもなかなか気づかないが、
体は骨が折れると歩けないし
地面は掘ると穴が広がる。
私でも間違えないほど、確かだ。

とすると、心で受け取ったことを、
もっと確かな形=モノとして、
世に織り込む努力が必要だったのではないか。

気持ちのフックに「ん?」とひっかかった事を、
何とか言葉にしたい。そして繋ぎ止めておきたい。
そういうことを「行動」と呼ぶなら、
それなりに「行動」している。

だけど、
「言葉にすること」は通過点だ。
言葉にできたら、
身体を使って動く努力につなげて
はじめて、意味を持つのではないか。
目指すべきことは、そっちだった。

私に届くいろんな思いを意識させてくれる
意識のスクリーンとしてのこの身体(脳)。
…の持ち主としての私が、
その中身である「命」を生かすためにこそ、
この身体(手足)を使う自由を
期間限定で許されているのだろう。

1人ひとり、サイズや色あいは違うけど、
全員が、なんと重くて、
なんと厳粛な営みを担っているのだろう。



写真はMonsterkoiによるPixabayからの画像


最新の画像もっと見る

コメントを投稿