昨日、考えてたこと。
他人を見るように自分の心を見てあげたら、
今までエゴに曇らされて見えなかったことが新しく見えて、
見えた分コントロールしたら、個人として進化していける。
それが一人なら一人分、100人なら100人分の、
人類の進化につながる。みたいな話。
そしたら「進化は変化にすぎないのでは?」
という主旨のコメントをいただきました。
そうなんだよね。
薬も、効く時に副作用が出るように、
進化にも、逆作用があり得る。
いいように使えたら、進化だし、
ふさわしくない使い方をしたら、退化だし。
何が進化か退化かを決めるのかというと、
変化した能力をふさわしく使えるかどうか、だな。
進化って言ったって、別に努力しろっていう話じゃなくて。
今まで、1人で何もかも背負いすぎてた人が、
「これ苦手だから誰か変わってー」って言えるようになったら、
自分が病むほど背負ってしまう性格から抜け出せたという意味で
明らかな進化。
だけど、同じ「苦手だから変わって~」でも、
ナマケモノの人が、さらにナマケるために言うなら、
ふさわしいとは言えないから「退化」かな。
背負うタイプでも、ナマケモノでもない人が
「苦手だから変わって~」って言う時も、
エゴを越えたもっと大きな目標のために言うなら、
互いの能力を適切に組み合わせてチームで動くために、
ふさわしい使い方だから「進化」と呼べる。
まぁ、そんな感じで、
ふさわしい時には進化、そうでない時には退化。
個々に、答えは変わる。
って、ややこしく言葉で定義をすること(抽象)と、
自分の想いと変化を結び付けて、行動すること(具体)。
その往復の中でいろんな事が見えて、
ホントウの事に近づいていけるんだろうなぁと思います。
「言葉で言いたい族」の習性で
「抽象的な定義」だけで止まってしまう事が多いので、
そこから抜け出して「具体的な行動」に移せた時、
「お、進化してる!」って思います。
結果、反省だらけだけど、それも含めて、
「生きてるな~」って感じられる。
いや、打ちのめされたりもするけど…。
ともあれ、自分で考えて動いてみたら、答えが出る。
誰もついてきてくれなかったら、
チューニングが必要だろうから、
そこで次のステップへの材料がもらえる。
考えているだけで、動けないなら、
その考えか、自分か、どこかに無理がある。
そこを放置して考えてもなぁ…。
いずれにしろ、答えは、
具体的な行動(動かないことも含めて)が見せてくれている。
「言葉にしたい族」の私としては、
考えることにも意味があると思うんだけど、
そもそも行動が伴わないような言葉は、
誰にもどこにも響かない。
客観的に見たら、
「考えてるだけで、全然行動が伴わない」族だし、
行動と考えが離れているのは、空論に過ぎない。
そんなの、言葉にも自分にも失礼だ。
だからね。
自分の言葉と行動を少しずつ重ねていきたいと思う。
そうやって、少しずつ、
言葉にぬくもりと重みを持たせていきたい。
まわりがよく見えてて、口数は少ないけど、
あったか~い言葉で人を暖められる年寄りになりたいわ。
つまりは自分をコントロールしたいという専心性は、自覚なき日常性への埋没からの逃避先として目指される目的地ということです。
そもそも進化を進歩と取り違えるようでは自分のことさえわからないでしょう。