『自由の哲学』を読む ~日々の暮らしから~

日々の「?」から始めて一歩ずつ
自分で見て考えて、行動していきたい。
私の自由が人の自由にもつながりますように。

「ありがとう」についての問い

2022年03月27日 | 考える日々
今、私はたまたま
自分で移動できる身体で生きている。
一方、たまたま
自力で移動できない人もいる。

そういう人の介護に入っている時は、
身体の機能として出来ないことを、
サポートしに行ってるんだから、
そこに「ありがとう」は要らない。

って当然のように思ってたら、別の人が
「ありがとうって言ってくれないから、
もう介護には入らない」って言うからビックリした。
「え? ありがとうって言われたかったの?」って。

動けないのは自分の責任でもないのに、
誰かにサポートを受ける度に、
一生「ありがとう」って言い続けないといけないの? 

与えるのって絶対的に気持ちいいし、
軽く優越感も味わえるけど、
与えてもらうのって、助かるけど、
劣等感を味わうことにもなるじゃん。

「みんなが自分らしく生きられる社会」
のために、誰かに何かの機能が必要なら、
その機能は、受け取る権利があると思うねんな~。

その「自分らしく生きていい権利」みたいなのが、
「ありがとう」っていう言葉によって、
台無しになる気がする。
優劣というか、上下というか
…の関係がつくみたいで、結構モヤモヤする…。

っていう問いが、
私の中にこの30年間、ず~っとありまして。

みんなが自分らしく生きられる社会、
みたいなものを自分も望んでるから、
その具体的な行為として介護に行く。
それを一緒に実現させていこうとしてる時は、
「ありがとう」は要らない。

そっか~。そうやな~。
長年のもやもやに、
わりと近い言葉が与えられた気がする♪

あ、だから、昔、
たとえば、介護に入って、
対象者のお出かけから一緒に帰ってきた時、
「あ~疲れた。足揉んで~」って頼まれたりしたら、
「なんでやねん。こっちが揉んで欲しいわ!」
って、若気の至りで、感じ悪~く答えたりしてたもの。

言葉にはできてなかったけど、
たぶん、わかってたんだろうな、
その境界線。

あれ? でも、
「みんなが自分らしく生きられる社会」を
多くの人が望んでいるだろうけど、
その望みの切実さは、
一生、その不便と共に生きる当事者と私とは、
天と地ほども違う。

え、もしかして、
一緒に戦っているという「気分の良さ」が、
「ありがとう」を拒否してたのかな?

うわ〜、
そんな要素が混ざってるなんて、
全然気づかなかったよー‼️



最新の画像もっと見る

コメントを投稿