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『自由の哲学』を読む ~日々の暮らしから~

日々の「?」から始めて一歩ずつ
自分で見て考えて、行動していきたい。
私の自由が人の自由にもつながりますように。

■自由の哲学13章40段落

2016年02月15日 | 『自由の哲学』
■自由の哲学13章40段落 私たちは、何でもいいから快に向かって努力するのではない。 ある特定の欲(おなかがすいた、本が読みたい、など)に向かって、 快を満たそうとする。 だから、他の快がヨコにあっても、 そんなものでは満足できない。 おなかがすいているのに散歩ができるとか、 本が読みたいのに映画に行けるとかでは、満足できない。 快であれば何でもいいなら、それで満足できるはずなのに、 特定の . . . 本文を読む

■自由の哲学13章39段落

2016年02月12日 | 『自由の哲学』
■自由の哲学13章39段落 私たちの欲は、その都度変わる。 これまで見て来たように、 欲の大きさを分母にして、快の量を分子にし、 分子が大きければ大きいほど、快の値は大きくなるし、 欲の大きさが大きければ、 ガマンできる不快の量も大きくなる。 私たちは、 不快の量を快の量と比べるのではなくて、 欲の大きさと快の量を比べているのだ。 食べるのがとても好きな人なら、 後でおいしいものをよりおい . . . 本文を読む

■自由の哲学13章37~38段落

2016年02月09日 | 『自由の哲学』
▼37段落 さて、悲観論者は言うだろう。 おなかがすいているというのは、 「食べたい(欲)に応じて食べられたら その分快の値が大きくなり、足りなければ不快だ」 というようなレベルの話ではなく、 ひもじさ、苦しさという、もっと切実なものだ、と。 そこには、食べ物のために捨てるプライドや、屈辱、 冬になると食べるものがなくなって飢える獣の苦しみ などが、例としてあげられるかもしれない。 とにか . . . 本文を読む

■自由の哲学13章36段落

2016年02月06日 | 『自由の哲学』
快の量が一番嬉しいのは、 欲しかったのと同じだけのものが来た時だ。 小さければ、足りなくて値は小さくなるし、 大きければ、欲しくもない分が余る。 余りも嬉しい、という時は、欲も大きくなっている時だ。 欲がどんどん大きくなるに伴って 快もどんどん大きくなっていくうちはいいが、 バランスが崩れると快が不快になる。 欲しかったはずのものが溢れて、苦しくなる。 快が私たちに何かの値を出すのは、 欲が基 . . . 本文を読む

■自由の哲学13章35段落

2016年02月03日 | 『自由の哲学』
いくら「欲が大事だ」と言っても、 いつでも求めるだけ得られるわけじゃないから、 欲のせいで喜びが減る時もある。 でも、トータルで楽しみが全部満たされた訳じゃなくても、 欲がちょっとでも満たされた時には、 リアルタイムで見ると、喜びの値は、ちょっとはある。 (たしかに、ある。ゼロではない)。 私たちの欲が大きければ大きいほど、 喜びの値は、小さくなる。 ※ いくら全部が満たされなくても、欲があ . . . 本文を読む

■自由の哲学13章34段落_2

2016年01月31日 | 『自由の哲学』
■自由の哲学13章34段落_2 前半の論を例示して解説しています。 たとえば、楽しみ(エサ)の量が同じなら、 一匹(一人)の求める量が多ければ多いほど 生きる「快の値」は減る。 これは、すべての生き物に当てはまるだろう。 世界中のあらゆる食べ物を集めて 全ての生物におなかいっぱい食べさせる試みをするとしたら、 生物の数が増えれば増えるほど(みんなで分ければ分けるほど) おなかいっぱいにはなれ . . . 本文を読む

■自由の哲学13章34段落_1

2016年01月28日 | 『自由の哲学』
現代の自然科学の見解では、 餌は少ないのに命はいっぱい生まれるので、 自然は、すべての命を生かすことはできません。 生存競争で負けておなかがすいた生き物は、 苦しみのうちに命を閉じます。 生きている者にしても、飢えている人がいっぱい。 でも、ある時は、飢えておなかがすいていたとしても、 食べられた時の喜びは、小さくならない。 それで、生きる楽しみが邪魔されたりしない。 欲が満たされる時、それ . . . 本文を読む

■自由の哲学13章32~33段落

2016年01月25日 | 『自由の哲学』
おなかがすいた、と感じるのは、 体が飢えてちゃんと動けなくなるときだ。 おなかがすいたら、まずおなかを満たそうとするだろう。 満足できるほどたくさん食べたら、 おなかがすいた、というのも満たされるだろう。 おなかを満たす楽しみは、まず、 空きっ腹の苦しみをのぞくことにある。 単純におながかすいたことが満たされると、 次には、おいしいものを食べようとする。 さらには、おなかがすいていても、 も . . . 本文を読む

■自由の哲学13章31段落

2016年01月22日 | 『自由の哲学』
ここまでは、すべて、 快・不快が生きるの値を決めるという前提だ。 生きることは、生きるに必要なもよおしを合わせて現れる。 生きることが快・不快の値の大きさで決まるなら、 快より不快の方が多いなら生きないだろう。 では、もよおしと快とをもう一度よく見てみよう。 はたして、もよおしが快ではかれるかどうか。 生きることを 「精神の貴族主義」の立場で考えないために 「獣としての生き物」の必要性 = . . . 本文を読む

■自由の哲学13章30段落

2016年01月19日 | 『自由の哲学』
悲観論者は言う。 人は快を求めても得られないんだから、 存在することに耐えられず、 存在しないことによって救われるというのが、 理性的な答えになるだろう。 加えて、世がこんなにめちゃくちゃなのは、 神が苦しんでいるからだ、という見解に従うなら、 人は神に救いをもたらすのが課題になる。 存在しないこと=自殺が救いだという悲観論者はしかし、 人が自殺してしまっては、 神に救いをもたらすことができな . . . 本文を読む

■自由の哲学13章29段落

2016年01月16日 | 『自由の哲学』
悲観論を認め、エゴを捨て、 神に仕えることを望むその倫理感は、 本当にわがままを乗り越えるだろうか。 その倫理感に沿って見ると、 人が神に仕えるために自分のエゴをセーブする理由は、 「欲なんて満たされないものだからね」と見抜くからだ。 おいしそうなブドウ(快)を欲しがり、 手が届かない時「すっぱいブドウだ」と見なす。 そして、確かめもせずすっぱいからね、と考えて、 ブドウを欲しがるのをやめ . . . 本文を読む

■自由の哲学13章27~28段落

2016年01月13日 | 『自由の哲学』
■自由の哲学13章27~28段落 独自の方法でハルトマンは 不快が快を上回るから人生は宇¥生きる値打ちがない と言っている。 なのに同時に、生きなければならない、とも。 なぜ、生きなければならないのかというと、 神の重荷を人が肩代わりするために、だ。 人が自分の欲に従っていると、 神の目的に叶う動きはしない。 やがて、経験を重ねるうちに、 自分の欲に従っても快はそれほど大きくない と、心底 . . . 本文を読む

■自由の哲学13章26段落

2016年01月10日 | 『自由の哲学』
だが、自殺者の数は 「絶対人生は不快の方が多い」という割には少ない。 また、生きることって不快が多いから、 生きるかどうかを考えるわ、という人も少ない。 多くはたくましく生き続けている。 これはどういうことか。 結論づけられるのは、次の2つ。 1、「不快は快よりも大きい」というのが間違い。 2、生き続ける理由は快・不快と全く関係ない。 ※ そうなのよ。 不快なことがあったって、 「今がん . . . 本文を読む

■自由の哲学13章25段落

2016年01月07日 | 『自由の哲学』
ここに至って、私たちは快不快のどちらが多いかを 理性だけでは決められないことがわかった。 快不快の多寡は、日常生活の中で、 実際に覚える(=見たり感じたりする)ことと 考えることとの重なりの中でわかることだ。 商人が商売をやめるかどうかは、 帳簿が損失を示すからじゃなくて、 実際にお金が回らなくなるからだ。 お金が回ってるなら、帳簿を見直そう。 人が生きる事を商売に例えても同じ事が言える。 . . . 本文を読む

■自由の哲学13章23~24段落

2016年01月04日 | 『自由の哲学』
23段落 経常利益が運用資産に合わないなら、 商人は計算間違いをしていることになる。 ならばまた、ひねり出した快・不快が 気持ちのリアリティと合ってないなら、 哲学者は間違った計算をしていることになる。 24段落 理性に添って世を捕らえようとする 悲観論者の会計方法を 私は今、調べ直すつもりはない。 しかし、 生きるという商売をこれからも続けるべきかどうか 決めるはめになった人ならば、 快と不 . . . 本文を読む