思いの外、道草を食ってしまいました。むかしから、腹一杯に道草を食うのがまるで仕事みたいで、小学校時代には、ゆっくり歩いても二十分かからない通学路を一時間もかけて行き来していたものです。その癖は抜けなくて、いまでも片道通勤時間が一時間ちょっとなのに、帰路になると五時間も六時間もかかります。時には終電に乗り遅れることもあるんだ。学校はいやだったけど、途中の道は楽しかったというところまで同じで、学校は . . . 本文を読む
鹿島鳴秋のことです。彼は小学卒後に商家に奉公に出、いくつかの職業を経ながらも童話を書いていました。そして大正五年に小学新報社という雑誌社の創設に参画し、編集の中心となって「少女号」「少年号」を発刊します。ちょうどその時期に清水かつらも新報社の本体であった文具商の中西屋から移ってきたのでした。鳴秋は26歳、かつらは19歳のときでした。同じ職場には後年の作家・山手樹一郎(テレビ映画化された「桃太郎侍 . . . 本文を読む
季節は春、甍(いらか)の波と鯉のぼりにはまだ早い時期ですが、時にさわやかな風にあたたると内藤名雪(めいせつ)(1847~1926)の句を思い出します。本名は内藤素行(なりゆき・鳴雪)、松山の人(江戸の藩邸で生まれる)。後年(45歳すぎて)正岡子規に入門。その時代、子規はまだ二十歳そこそこでした。また少年期には子規の外祖父大原観山に漢詩を学んでいたとされます。で、次の句。
詩は祖父に 俳句は孫に . . . 本文を読む
昨日は上野にでかけました。不忍池側から公園を横切り、ゆっくりと科学博物館となりの寛永寺輪王殿まで歩きました。ホントに久しぶりのこと。親戚のお通夜があったからですが、彰義隊のことや帝室・帝国などという歴史の形見のような言葉とともに、東京音楽学校などという和魂洋才にまみれた古くさい明治の幻影が頭をよぎりました。明治12年に文部省に音楽取調係がおかれ、御用掛に伊澤修二がつきます。(伊澤については後述) . . . 本文を読む
昨日(3月13日)、知人の葬儀で練馬区大泉学園町まででかけました。二十年以上前にはある事情でしばしば訪れたところです。日曜日、しかも晴天。久しぶりに佐倉から東関東自動車道、京葉道路経由で首都高速の池袋線を高島平まで行き、そこから笹目通りを谷原にでました。埼玉県の和光市をとおりながら、静かに懐かしさがあふれてきました。今は光が丘という地名になっていますが、そこには戦時中の昭和18年まで一風変わった . . . 本文を読む
環境省では絶滅の恐れのある動植物を分類し、それをレッドデータブックに登録しています。それによると、メダカは絶滅危惧Ⅱ類だそうで「絶滅の危険が増大している種」とみなされています。だからというわけでもないでしょうが、全国いたるところで「メダカの学校」を再生させようと老いも若きも躍起になっているんです。そんなメダカが光り輝いていた時代もあったのです。川魚といえばメダカというくらいに、メダカは日本の象徴 . . . 本文を読む
昨年11月のこと。ある高校で授業のまねごとをしたとき、生態系の話にからませて「メダカの学校」に触れました。すると、何人かの女子生徒が「えっ、ウッソー、どこにあるの、メダカの学校って」と驚いた様子を見せました。きいてみれば、唱歌の「メダカの学校」は知らなかった。ひょっとしてメダカも見たことがなかったかもしれないのです。わたしは、しかたなくでもなく、さっそくに歌いだしたのでした、「めーだーかーのがっ . . . 本文を読む
この唱歌を知っていますか。なんだか奇妙なかけ声で始まります。
チーチーパッパ チーパッパ
スズメのガッコのせんせーは
鞭(むち)をふりふり チーパッパ
この歌詞を聴いて(読んで)たいがいの人は「教師が鞭を」とよからぬイメージをかき立てられました。なんだか貧困ですね。最初のかけごえをじっくりと聴いて(読んで)みる。すると、およそ怖ろしい鞭(無知)の教師などではない、まったく反対の情景が . . . 本文を読む