日本武尊 (ヤマトタケルノミコト) は奈良時代に書かれた 「日本書紀」 「古事記」 により
伝えられる伝説の武人です。
本名 「オウス」 で 「ヤマトタケル」 は九州の王 「クマソタケル」 から贈られた名で
「日本最強の勇士」 を意味します。
父 (景行天皇) の命により、日本各地を征伐した 「ヤマトタケル」 は、東国征伐の帰路
伊吹山の荒神を、なぜかあの 「草薙の剣」 を 持たず、素手で退治に向かいました。
そこで大きな白イノシシと化した荒神 (宮崎 駿のアニメ 「もののけ姫」 に出てくる乙事主
「おっことぬし」 みたいなものか) の妖術に倒れ、故郷の大和に帰ることになります。
不自由な体を引きずり四日市に入った 「ヤマトタケル」 は、目の前の急坂を上るため
腰の剣を 「つえ」 代わりに歩いたという。
このときの 「吾が足三重の匂(まか)りなしていたく疲れたり」
(私の足が三重に折れ曲がってしまったと思うほど、ずいぶん疲れたものだ)
という言葉が 「杖衝坂」 と 「三重県」 の地名の由来だといわれています。
そしてこの先の伊勢国 能褒野で亡くなり、その魂は白い鳥に姿を変え飛び去ったといいます。
この白鳥の降り立った2ヶ所にも墓を造りました。これが琴弾原 (奈良県御所市) と日本武尊
(大阪府羽曳野市)の白鳥陵です。
いずれも 「ヤマトタケル」 の墓として宮内庁により管理されています。
「ヤマトタケル」 の亡くなったとされる能褒野の場所は諸説あって定かではありませんが、
明治12年に政府が亀山市田村町の能褒野神社西側の 「丁字塚」 と呼ばれる前方後円墳を
「ヤマトタケル」 の墓と指定しました。(この付近で最も大きな前方後円墳だったから らしい)
今でも丁字塚 「能褒野(のぼの)王塚とも呼ぶ」 以外にも、白鳥塚 (鈴鹿市加佐登町)
武備塚 (鈴鹿市長澤町) 双児塚 (鈴鹿市長澤町) 鈴鹿王塚 (鈴鹿市国府町) の合わせて
五つの古墳がありますが、伊勢国 鈴鹿郡 (鈴鹿市/亀山市の一部) としか分からない以上
結論が出るのはもっと先になりそうです。
能褒野神社 ヤマトタケル・オトタチバナヒメ (妃の1人)・タケカヒコノオウ(ヤマトタケルの子)を祭神とする神社です。明治28年(1895)能褒野墓の隣に造られました。
丁字塚古墳(能褒野王塚古墳) 政府により能褒野墓とされた全長90mの前方後円墳です。
加佐登神社 ヤマトタケルを祭神とし、境内 右奥にヤマトタケルの石像があります。
白鳥塚古墳 加佐登神社に隣接する全長92mの前方後円墳です。
(明治時代には直径80mほどの円墳だと考えられていました)
明治9年(1876)には能褒野墓とされましたが、明治12年に丁字塚がヤマトタケルの墓に
決められ現在に至っています。
松阪出身の国学者 本居宣長の「古事記伝」には能褒野墓は白鳥塚であると記されています。
長瀬神社 武備塚古墳をご神体とする神社で、以前は武備塚神社と呼ばれていました。
武備塚古墳 長瀬神社本殿の奥にある直径25mの円墳です。
亀山藩主 板倉勝澄がヤマトタケルの墓として整備しました。
双児塚古墳 ヤマトタケルがオオウスとオウスの双子の兄弟だといわれていることから、
この古墳もヤマトタケルの墓とする説があります。
幕末の亀山藩主 石川成之がヤマトタケルの墓として、明治時代初期に整備しました。
鈴鹿王塚古墳 全長63mの前方後円墳で、明治初期にはこれがヤマトタケルの墓だと
考えられていました。
「畳屋おはぎのたたみブログです」 なのに、畳と関係ないブログばかりじゃないですか!
とよく言われますが、このブログも畳にちょっと関係あります。
古事記では、日本武尊が亡くなる前に詠んだ歌として
大和は国の真秀ろば 畳なづく 青垣山籠もれる 大和しうるはし
(大和は国の真の中心地。重なっている青々とした山に囲まれた大和こそ麗しい)
伝えられる伝説の武人です。
本名 「オウス」 で 「ヤマトタケル」 は九州の王 「クマソタケル」 から贈られた名で
「日本最強の勇士」 を意味します。
父 (景行天皇) の命により、日本各地を征伐した 「ヤマトタケル」 は、東国征伐の帰路
伊吹山の荒神を、なぜかあの 「草薙の剣」 を 持たず、素手で退治に向かいました。
そこで大きな白イノシシと化した荒神 (宮崎 駿のアニメ 「もののけ姫」 に出てくる乙事主
「おっことぬし」 みたいなものか) の妖術に倒れ、故郷の大和に帰ることになります。
不自由な体を引きずり四日市に入った 「ヤマトタケル」 は、目の前の急坂を上るため
腰の剣を 「つえ」 代わりに歩いたという。
このときの 「吾が足三重の匂(まか)りなしていたく疲れたり」
(私の足が三重に折れ曲がってしまったと思うほど、ずいぶん疲れたものだ)
という言葉が 「杖衝坂」 と 「三重県」 の地名の由来だといわれています。

そしてこの先の伊勢国 能褒野で亡くなり、その魂は白い鳥に姿を変え飛び去ったといいます。
この白鳥の降り立った2ヶ所にも墓を造りました。これが琴弾原 (奈良県御所市) と日本武尊
(大阪府羽曳野市)の白鳥陵です。
いずれも 「ヤマトタケル」 の墓として宮内庁により管理されています。
「ヤマトタケル」 の亡くなったとされる能褒野の場所は諸説あって定かではありませんが、
明治12年に政府が亀山市田村町の能褒野神社西側の 「丁字塚」 と呼ばれる前方後円墳を
「ヤマトタケル」 の墓と指定しました。(この付近で最も大きな前方後円墳だったから らしい)
今でも丁字塚 「能褒野(のぼの)王塚とも呼ぶ」 以外にも、白鳥塚 (鈴鹿市加佐登町)
武備塚 (鈴鹿市長澤町) 双児塚 (鈴鹿市長澤町) 鈴鹿王塚 (鈴鹿市国府町) の合わせて
五つの古墳がありますが、伊勢国 鈴鹿郡 (鈴鹿市/亀山市の一部) としか分からない以上
結論が出るのはもっと先になりそうです。
能褒野神社 ヤマトタケル・オトタチバナヒメ (妃の1人)・タケカヒコノオウ(ヤマトタケルの子)を祭神とする神社です。明治28年(1895)能褒野墓の隣に造られました。

丁字塚古墳(能褒野王塚古墳) 政府により能褒野墓とされた全長90mの前方後円墳です。



加佐登神社 ヤマトタケルを祭神とし、境内 右奥にヤマトタケルの石像があります。


白鳥塚古墳 加佐登神社に隣接する全長92mの前方後円墳です。
(明治時代には直径80mほどの円墳だと考えられていました)

明治9年(1876)には能褒野墓とされましたが、明治12年に丁字塚がヤマトタケルの墓に
決められ現在に至っています。

松阪出身の国学者 本居宣長の「古事記伝」には能褒野墓は白鳥塚であると記されています。
長瀬神社 武備塚古墳をご神体とする神社で、以前は武備塚神社と呼ばれていました。

武備塚古墳 長瀬神社本殿の奥にある直径25mの円墳です。

亀山藩主 板倉勝澄がヤマトタケルの墓として整備しました。

双児塚古墳 ヤマトタケルがオオウスとオウスの双子の兄弟だといわれていることから、
この古墳もヤマトタケルの墓とする説があります。
幕末の亀山藩主 石川成之がヤマトタケルの墓として、明治時代初期に整備しました。

鈴鹿王塚古墳 全長63mの前方後円墳で、明治初期にはこれがヤマトタケルの墓だと
考えられていました。

「畳屋おはぎのたたみブログです」 なのに、畳と関係ないブログばかりじゃないですか!
とよく言われますが、このブログも畳にちょっと関係あります。
古事記では、日本武尊が亡くなる前に詠んだ歌として
大和は国の真秀ろば 畳なづく 青垣山籠もれる 大和しうるはし
(大和は国の真の中心地。重なっている青々とした山に囲まれた大和こそ麗しい)