TOP記事 『 AGORA 』 にて、かつての キリスト教徒の狂信さに触れましたけれど、現在のキリスト教には さほどの嫌悪感を抱きません。
良くも悪くも、人間というものは、歩み続けるものです。
ローマを破局へ導いたのは、イエスの後継者を自任した 狂信的な キリスト教指導者たちであったとは思います。 コンスタンティノポリス主教、アレクサンドリア主教、ミラノ司教などのね。
けれど、イエス自身は、節度ある人物であったと思います。
21世紀の現在に 甦ったなら、自分の昇天ののち、ローマ末期から中世の暗黒期、それに 近代のアメリカ大陸などでの殺戮を知れば、「“ 改宗しないから、殺してよい ” などとは、教えた覚えはない 」 と、そう言うのでは と思います。
イエスの教えを奉じる集団の一部の人々が、世俗の権力・人々を、欲しいままに支配できるようになった時、キリスト教徒が変質しただけに過ぎない。
それ以上でも、それ以下でもないと、思います。 およそ、人間の産み出したものの中に、完璧なものは無い。
教えを解釈する人々が、強欲と傲慢、憎悪、イエスが教えた覚えなどない 欲望に 囚われただけ。
イエスは、確かに、
『 我はまた汝に告ぐ。 汝はペトロなり。 我は この磐の上に、我が教會を建てん。 黄泉の門は、これに勝たざるべし。
我 天國の鍵を 汝に與へん。 凡そ 汝が地にて縛ぐ所は 天にても縛ぎ、地にて解く所は 天にても解くなり 』
“ Et ego dico tibi, quia tu es Petrus, et superhanc petram aedificabo ecclesiam mean, et portae inferi non praevalebunt adversus eam.
Et tibi dabo claves regni caelorum. Et quodcumque ligaveris super terram, erit ligatum et in aelis : et quodcumque solveris super terram, erit solutum et in caelis. ”
( マタイによる福音書 第16章 18-19節 より )
―― とは言っていますが、彼ペトロを 12使徒の筆頭として、また ペトロの後継者に 永久に 教団を統べるよう 権利を与えた言葉ではない。
初期の教父たち、例えば、『 ローマ人の物語 』 にて 塩野女史が 「 ローマに対する勝利者 」 として扱った 聖アンブロシウス。
また、「 セックスは邪悪 」 とした 聖アウグスティヌス。 それに、映画 『 AGORA 』 で大活躍 (?) した 聖キュリロス。
初期教父の多くは、ローマ司教―― いわゆる “ 使徒の後継者 ” を自称する 存在を認めていなかった。
福音書自体は、聖典として敬意を払われていますが、成立時期・筆者も 明らかでない うっさん臭い書物です。
( マタイ福音書は、ユダヤ戦争前後~西暦100年までには書かれていただろう とのこと。
ちょうど、ローマでは、『でぶっちょ』 こと ネロ・クラウディウス。
『おしっこ税』 で有名な ティトゥス・フラウィウス・ウェスパシアヌス が、政権担当であった時代 )
一介の宗教団体が、何十万・何百万もの人間を支配する正当性が、誰が書いたかも分からない あやふやなモノに頼る。 このうっさん臭さ。
そして、地中海世界に広まった教団の内部でも、イエスの弟子の筆頭位を継ぐことの正統性を、それに 頼る。
現代に生きる人間であれば、言葉は悪いですが 、「キチガイのすること」 そう、言い放つでしょう。
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ただ、このように考える私であっても、現在のキリスト教―― 少なくとも、ローマ・カトリック教会の姿勢は、概ね 肯定します。
確かに、大戦での ナチスによるユダヤ虐殺は、カトリック教会に責任なしとは 言えない。 けれど、ローマ以後、ヨーロッパの辿った歴史と 大戦後の イスラエルの所行を見つめれば、ユダヤ自身に罪なしとは言えない。
自分たちと同じ痛み、それ以上の痛みを与えて満足したいのなら、国連加盟申請こそ 大きな茶番劇。
同害報復刑は、なるほど 古バビロニア王国の時代なら、あらゆる人間が 認めた思想でしょう。 しかし、3800年以上もの時間が 経過して、なお、そこから前へ歩めていないというのでは、ただの猿でしかない。
己と異なる、ほかの考え方を許さない。 言葉を尽くして論議する前に 「殺してしまえ」 とするのなら、ユダヤと同じく イスラム法もまた、猿の法律だと言わざるを得ない。
彼らの考え方も尊重されるべきでしょう。 けれど、彼ら自身が 他者への配慮・愛を持たないのであれば、ナチスの行為もまた 現在の 彼ら自身を映す鏡だったといえるでしょう。
ある意味で、ヴァティカンの 「異端」 であった、「すべてを愛した」 教皇ヨハネ23世は、
「 主よ、許したまえ。 私たちは謬って 呪いの原因を、ユダヤという名に帰してしまいました。
主よ、許したまえ。 私たちは二度までも、あなたを肉の中で 十字架にかけてしまいました。
私たちは、自分が犯したことが わからなかったのです 」
―― そう、1960年ごろの祈祷文で、赦しを 願った。 過去、ユダヤを迫害し、ナチスによるホロコーストへの道を作っていたヴァティカンの所業を、回勅まではいかずとも 悔いた。
また、ヨハネ=パウロ2世も また、ローマ市内のユダヤのシナゴーグへ、歴代教皇として初めて足を踏み入れ、ホロコーストの犠牲者を ラビとともに祈った。
また、ベネディクト16世聖下も、昨年2010年に、かつて 袂を分かった 英国国教会を公式訪問した。
過去に、たしかに大きな過ちは犯したけれど、それを繰り返すことを よしとせず、贖罪し、前へ進もうというのなら、それに拍手を送ることも 大切だと思うのです。
もちろん、腐ヲタになった 私自身が、教会に戻ることはありえませんけれど(笑)
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聖下が、英国を訪問した際、Westminster Abbey にて、カンタベリー大主教 ローワン・ウィリアムズ牧師と二人で ミサを執り行いました。 カメラが入っていましたけれど、『 Ubi Caritas et amor』 が歌われていたのが 印象的でした。
『 Ubi Caritas et amor 』
モーリス・デュリュフレ 「グレゴリオ聖歌の主題による4つのモテット 作品10番」 1960年発表
Maurice Durufle, Quatre Motets sur des themes gregoriens a cappella SATB chorus, op. 10
カトリック教会では、こよなく愛されるグレゴリオ聖歌を編曲したもののひとつ。
本来は、
1: Ubi caritas et amor -慈しみと愛のあるところ
2: Tota pulchra es -全く美しきマリア
3: Tu es Petrus -汝ペトロ
4: Tantum ergo -かくも尊き秘跡を
この4曲があり、デュリュフレ以外の編曲も もちろんありますが、彼が編曲したヴァージョンの 『 Ubi caritas et amor 』 は、たいへん美しい旋律のため 好まれて歌われています。 以前、レヴュった、ゲーム 『 クーデルカ 』 のED曲にも使用されており、奇しき縁といえば 縁……。
今年4月、英王室 ウィリアム王子とキャサリン妃の結婚式でも 歌われていたことを、ご記憶の方もおられるかも。
歌詞は、「 Ubi caritas et amor, Deus ibi est. ( 慈しみと愛のあるところに、神はおられる )」 となっており、神の御前で平穏のうちに 互いを愛せよ とのこと。
Ubi caritas et amor, Deus ibi est.
Ubi caritas et amor, Deus ibi est.
慈しみと愛のあるところに、 神はおられる
Congregavit nos in unum Christi amor.
Congregavit nos in unum Christi amor.
我ら 集えり、 キリストの愛のもとに
Exsultemus, et in ipso jucundemur.
Timeamus, et amemus Deum vivum.
喜び踊れ、 キリストとともにある この喜びのうちに
畏れつつも 愛せよ、 我らの前に おられる神を
Et ex corde diligamus nos sincero.
Et ex corde diligamus nos sincero. sincero.
我らも愛しあおう、 おたがいを
我らも愛しあおう、 清き心にて、おたがいを
Ubi caritas et amor, Deus ibi est.
慈しみと愛のあるところに、 神は おられるのだから
Amen. アーメン
***
過去は、過去としても、今現在の カトリック教会は、とりあえず 調和のうちに活動していると思います。
同性愛や中絶への見解、少年少女への一部司祭による一方的な性的問題への対応、イスラムへの正直すぎる見解表明など、たしかに 問題はある。
けれど、どこかの宗教のように、「 異論は許さぬ。 鼻を削げ! 」 とは言っていない。
まだ 冷静であり、まだ 理知的な論議の出来る余地がある。 激昂しておらず、また それほど短気でもない。
もし、神というものがいるのなら、それは 人の持つ愛情のなかに いるのかもしれません。
何かについて、過去の 歴史の所業について書くときには、少なくとも 自分の眼でも 確かめて書くべきです。 そして、その時には、参考にしたモノが、ほんとうに 信頼に足るかどうか。 史料の中には、書き手の悪意が 込められているものも多い。
最近、目にした記事に、“ キリスト教の聖人 ” というものがありますが、ウィキペディアと司馬遼太郎作品、それに怪しげなサイトのみを参考にして書かれたような印象を受けました。
専門家以外の手になる記事というものは、危険です。
実のところ、マイ・リスペクツ 塩野七生女史とても、無批判には読めない。
以前書いた “ OPERA実験 ニュートリノ測定結果~” 記事が、なぜか ツイッタで引用されていました。 「専門外」 だと書いているのに、引用されてもね…。 引用者は、学生さんのような、印象を受けました。
虚偽は 私も書いていないにしても、とりあえず 引用者自身による検証は、必要でしょう。
取捨選択は、本当に難しい。 判断に迷う時のほうが、多いのです。
そして、『 迷う時こそ、一かどの人間は おのれ本来の分別に頼るもの J.R.R.トールキン 』
憎悪しているままでは、見えるものも見えないし、見たいものしか見えない。
私は、イエスその人と、始まりのころのキリスト教義、理性的なキリスト教徒には、まだ 敬意を払うべきだと 思います。
…… 最後の動画は、ノルウェーのピアニスト・作曲家の Ola Gjeilo ( オラ・イェイロ ) 氏の手になる、『 Ubi caritas et amor 』。
かなり異色の編曲ですが、デュリュフレのものとは、また異なり、心のざわめきを落ち着かせてくれます。
Ola Gjeilo氏は、『 The Phantom of the Opera 』 のあのヒトと似ているので、個人的に好きなピアニスト。
Ubi Caritas et amor ―― 慈しみと 愛のあるところに。
現実は現実としても、理想は、せめて理想だけでも、そう ありたいものです。
( 2011/10/24 一部修正 )