宮城県の小さく綺麗で穏やかな海辺に住む、はげたま(禿頭)おっさんの~ごまめの歯軋り~

子供や高齢者は国の宝、且つ障害者等社会的弱者の人権を尊重し守ってこその先進国。年々逆行する現実に抗し当り前の国にしよう!

★映画 『いのちの山河』 上映実行委員のかみさん

2010年04月14日 10時17分51秒 | 社会
【吹雪の中、沢内村に徒歩で向かう深澤晟雄(ふかさわまさお)村長と妻のミキ】

かみさんのホームページ 『うみねこが舞う、漁業と原発の町の議員活動』

『いのちの山河』の上映成功を祈念する、わがかみさんの心=6月13日

 この映画は”平和憲法シリーズⅡ”として制作されたインディーズ(独立系)作品じゃ。
前作の『日本の青空』が、日本国憲法(平和憲法)の誕生の真相(苦悩)を描いていて、高い評価を受けたのに続くものだそうで、かみさんはチケット販売に公務の間に苦労もあるようじゃが、良い映画だけに売れれば嬉しそうな顔をしておる。

 

【この記事中にある写真は、映画 『いのちの山河』~日本の青空Ⅱ~からの引用じゃよ】


 おらがかみさんからこの映画を、6月13日(日)に石巻文化センターにおいて、2回に渡って上映することに決まったと聞いた時、正直な第一感といて、ただでさえ忙しい日々を送っているのに、また余計な仕事を引き受けちまったな、だった。
 なんせかみさんは忙しく(まっ本人の時間の使い方のまずさもあるけれど)どうかすると、おらの世話は最後になるってぇのも、覚悟せにゃならぬ。
 
 そんな事はどうでも良いが、おらとかみさんの願いは、どうしてもこの優秀な映画を、一人でも多くの皆さんに観て欲しいと言うことじゃ。
この日の(4月6日)実行委員会の会議もそれが主眼で、「いかにして多くの人たちに観てもらえるか」に尽きる話し合いだったらしい。
 家に帰って来たのは21時半過ぎで、それから夕飯造りだから、可哀そうじゃ。
何?唯待っているんじゃなくておれが造って、かみさん孝行しろってか?
それが出来りゃ何も苦労はないぞ・・・おらが外で昔みたいにバリバリ働いたり、活動できれば何も悩みはないぞえ、、、!
そぎゃんこたぁ出来ん体やから困っちょるやんけ・・・・・

 かみさんはいつも外出の際に持って歩くバッグの中に、映画のチケットとパンフレットを入れているみたいで、出会い頭の友人・知人に声を掛けると、快く「観るわ」と言ってくれる人が多いので、意を強くしていると言っている。
そのたくましさが、かみさんの良いところじゃけんのぉ!
がんばれ、ぐゎんばぁれ・かみさん・・・じゃ。

 この映画は全国各地で上映されていて、宮城県でも既に仙台市をはじめ5ヶ所で上映され、多くの人の感動を呼んでいるそうじゃ。
おらの知りあいが2月に多賀城市で観たとかで、感動のあまり年がいもなく泣いた言うとったから、立派に感情が働いているのだから誇りに思え、なぞと励ましにもならぬ言葉をかけたが、いざおら自身が観たら、どないなるんじゃろ・・?
このごろめっきり涙腺が緩くなってきたから、人目に触れんように隠れにゃなんかも・・・?

 まっおらのこたぁどうでも良いんじゃが、おら達の住む石巻広域圏でも多くの方に観ていただいて、感動するしないは個人のありようじゃが、いずれにしてもこの映画から憲法25条の精神がいかに大切な宝物であるかを、知っていただきたいと思っちょりまんねん。
そしてまた当たり前に思っている平和が、憲法9条や25条のように実は国民の生活に密着しているってことも知ってもらい、ちょっと油断していると取り返しのつかない事態に直面する危うさもあるんだ、と是非知って頂きたいとものじゃ。

 ところでおらのゆめ(希望)としては、このような優れた映画は、インディーズ(独立系)映画であっても市中の映画館で上映して欲しいと思っているのだがのぉ。
現実にはいろいろな壁があって難しいといいけど、大手の配給会社もケツの穴が小さいのぉ。
 おらが考えるに、もし市中の映画館が積極的に上映するようになれば、きっと現状より多くの若い人たちにも観る機会が増え、平和とか憲法とか政治に今より興味を示すだろうから、若い人たちの啓蒙になり、制作者も製作費の回収がより簡単になり、上映館も潤い3重の意味でけっこう毛だらけ猫灰だらけになると思うが、甘いかのぉ?・・・えっ、砂糖以上だって?・・・・ふぅ・・・だめだこりゃ・。

【写真=沢内村に帰ってきた深澤村長の遺体を乗せた車を、村民が総出で出迎える感動のシーン】


 さて肝心に映画だが、岩手県の沢内村(現西和賀町)で憲法25条を盾に、県や国の指導に真っ向からぶつかって村民のために偉大な業績を残した、深澤晟雄(ふかさわまさお)村長と村民の物語だ。
 しかし偉大な村長は、1965年1月28日に、福島医大附属病院で、村長在職中に癌で59歳の若さで生涯を閉じました。
 深澤村長の手腕に頼り切っていた村民の衝撃は相当なものであったのは、想像に難くないが、それを見事に実証しているのが上記の写真だろう。
 政治家としては余りに若すぎる死で、天はむごい事をするものと思うと同時に、それは国家的損失では無かったかと思っている。

 村長として、政治家として、乳幼児や高齢者のいわゆる弱者と言われる”いのち”を守るために奮闘した深沢村長が、自らは高齢者になること無く、この世を去ったのは正に歴史の皮肉としか言いようがないと思う。
 歴史に”もし”は無いと言いけれど、もし深沢村長が後10年15年と村長を続けられておられたら、もっともっと日本と云う国の政治(行政)に、多大な影響を与えていたのは間違いないだろうと思う。
在職わずか8年足らず(昭和32年5月~昭和40年1月)で、国を動かした村政を行ったのは、そんじょそこらの人ではなかったのは誰しも疑いようがないだろう・・・・・

 
深澤晟雄村長の政治理念は 『NPO法人 深澤晟雄の会』に書いてありますので、是非ご一読を。


※老婆心ですが(余計なお世話?)参考までに、憲法第2章9条と、第3章25条を書いておきます。
日本国憲法
第二章 戦争の放棄 
第九条【戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

第三章 国民の権利及び義務 
第二五条【生存権、国の社会的使命】 
1 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。

2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

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