「腹を立てる前に、顔を立てること」
今の僕の心に起こっている密かなブームです。
上のフレーズ、実は、借用。福井県若狭町の保健センターで、認知症サポーター養
成講座の講師を務める高島久美子さんの言葉です。
理解が深まれば、介護負担が軽減します。理解が深まるよう、上手に接してあげた
い。
今の僕の心に起こっている密かなブームです。
上のフレーズ、実は、借用。福井県若狭町の保健センターで、認知症サポーター養
成講座の講師を務める高島久美子さんの言葉です。
理解が深まれば、介護負担が軽減します。理解が深まるよう、上手に接してあげた
い。

福井県では7人に1人が認知症サポーターらしいですね。
しかも、中学生から教育の現場で意識を高めているらしいとのこと。
町ぐるみで意識改革をされているとは凄いです。
日本全国で起こればもっと、介護に関する理解が
深まるだろうに・・と思います。
成長とは能力を獲得していくこと、老化とは失っていくことでしょうか。
子供だって褒めて自信をつけてやらなければ、うまく成長できない。
その逆の状況にある御年寄は、ただでさえ自尊心を傷つけられやすいのだから、温かい心配りが必要ですよね。難しいけれど。。
ぐれの親が介護を必要とする年齢になるのは、まだだいぶ先だと思いますが、忘れないでおきたい言葉です。
勉強になりました。
何時も優しいコメント有難うございます。
地域の活性化として、文化の発信地になっていくとい
う考え方があると思います。心強い話ですね。それに
してもよくご存知なんですね。また、いろいろ教えて
ください。
子供時代は、知識を獲得し、大人になってそれを活用
する。老いて獲得するのは、英知です。手に入れるも
のが違う。その意味で、老いてから、若者には未知な
成長が始まる。だから、顔を立てるのです。英知をも
のにしていく瞬間に立ち会いたいからです。
記憶力の衰えている人から学ぶものがないというのは
少し傲慢に過ぎます。
親の介護なさり始めたら、身にしみて感じると思いま
す。この人の子供に生まれてきてよかったなぁ、と。
そこに老人の叡知も生まれますね。。。
大変失礼いたしました。
老いて心身が衰えていくなかで、尊敬し直したくなる・・・忠太さんのお母様は、本当に立派な方なのですね。
ぐれが老いたときのことを考えると、老化を埋め合わせるように成熟していけるのか……自信がありません。
ぐれの両親も、忠太さんのお母様のように年取ってはいけないかもしれません。
それでもいいと思ってもらいたい。自分も、それでいいんだと思いたい。
みんながみんな、尊敬できる老人にはなれないと思うんです。
話は変わりますけど・・・知的障害児にも、いろんな人がいますよね。
よく「この子達は心がきれいだ、感受性が豊かだ、目が輝いている」と言う人がいます。子供たちの絵を展示して、健常者には描けない世界だと褒めちぎったり。
ぐれは疑問を感じるんです。
脳のどこに障害があるかで、一人一人の状態は違うでしょ? 障害のせいで感情の動きが乏しい子もいるわけです。
みんな目が輝いているわけじゃない。前頭葉に障害があって、積極性を持てない子もいますよね?
「知能は低いかもしれないけど、そのかわり…」って彼らを弁護する言葉を聞くと、「そのかわり」を持てない障害児には、人間として価値がないの?と言いたくなります。
極端な話、生まれつき脳が無い子もいるんだから。長くは生きられませんけど。
ぐれは、年取って脳細胞が萎縮しても、たぶん「そのかわり」の叡知は獲得できません。ただの困り者のワガママ老人になりそうです。
それでもいいと、誰かに言ってほしいなぁ。。。
気に障ったら、ごめんなさい。m(_ _)m
ということでいいんではないですか?
僕の最近の悩みは、年老いたとき、誰が自分の面倒を
見てくれるのかということです。もし、世話になる幸
運にめぐまれたとき、遠慮しないでおこうということ
だけです。
迷惑はかけたくない。しかし、かけてしまうもので
す。それでいいんじゃないですか?
知的障害の話がでましたので、それにも言及させてい
ただきます。
「レインマン」のようにサヴァンと呼ばれる特殊な
能力のある人はいいという憧れは、少なくとも、障害
者の家族葉持たないのではないでしょうか。
「天才」に対する恐れと同根な、そういう障害者の特
別扱いは、何も知らないからこそできるのです。言う
なれば、偏見ですよ!
愛情あればこそ、「成長」という人間の飛躍が見れま
す。これは、空論ではないですよ。
ボタンをかけるのを覚えるのに、10年の歳月を要す
るとして、恥ずべきですか。
「能率」を考えると、そんな作業に10年もかけて
関わりたくない、と考えるのが普通でしょう。しか
し、過程が大事なのですよ。ボタンのかけ方を教える
ことで、介護者は、金銭的評価の不能な感動を山ほど
も手にいれられることでしょう。ただ、その感動とい
う宝を手にするかは、ひとえに介護する側の責任で
す。だから、威張っていていいのです、知識に代わる
知恵が目の前にチラチラしていなくて。
お互い、年老いたら威張っておりましょう。
ひょいと、わが人生を振り返って、感ずるものがあれ
ば、きっとそれが知恵だと僕は思います。