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少し重たいテーマですが、自己の住まう街の歴史を調べてみるのも結構楽しかったりして?
歴史嫌いの方はどうぞスルーして下さいね(^ー^)ノ
さて、市域は令制国の河内国中部にあたる。古代にはこの一帯は河内湾と呼ばれる大阪湾の奥にある小さな湾であったが、次第に海から分離して湖となった。その湖が大和川を経て上流から運ばれてくる土砂が堆積したことによって徐々に陸地化したが、こうした経緯から湿地・深田が多く、また洪水に見舞われやすい土地であったらしい。
古代には物部氏の本拠地があり、物部守屋の最期の地は衣摺(きずり、市西南部)であるなど、早くから開けた地域であった。飛鳥時代には中国大陸への玄関口であった難波津との街道筋にあたり街道筋には多くの集落ができた。奈良時代になると、平城京と難波津を結ぶ街道が整備され、その街道筋にも多くの集落ができたという。
平安時代になり、熊野詣や高野山へ上皇や貴族が参詣に訪れるようになると、その街道であった高野街道の沿線であった市の東部の生駒山麓に多くの集落が点在しており、今なお旧村として市内に静かなたたずまいを残している。平安時代には、枚岡神社の勢力が大きく、それを背景とする水走氏が有力な領主として市東部を中心に活動した。
水走と書いて「みずはい」と読みます!まぁ車に乗られる方ならご存知でしょうが、ただ、水走という地名が人名から来ていたなんて歴史って色んな答えが隠されているもんなんですね!
以降の歴史は明日お届けいたします(^_^)お楽しみに、、、
また、お逢いしましょう!
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