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「 八尾市の歴史!古代編? 」

2012-08-15 20:02:45 | 日記

 

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八尾市の歴史について今日は古代編をお届けしたい!

毎度のことながら興味のない方はスルーして頂ければ(^_^;)詳細の分かる方はコメントをよろしくです(^_^)

旧分国では河内国に属する。古代においては河内湖がこの付近まで広がっていたと考えられている。旧大和川流域の肥沃なデルタ地帯として、弥生時代から耕作が行われていた。 古墳時代には多くの豪族がこの地一帯に勢力を維持し、生駒山地の麓に数多くの陵墓を造築した。その多くが現在でも古墳として残っており、その数の多さから千塚(ちづか)という地名として残っている。
飛鳥時代には、一帯は物部氏の勢力圏下にあり、その武具を製造する集団が居たとされている(またそのことが市名の由来となっている)が、物部氏は物部守屋のときに蘇我馬子とこの一帯で戦い敗れたために滅亡した。 物部氏傍系一族の弓削氏、来栖氏、矢作連などは引き続きこの一帯で勢力を維持し、特に弓削氏の道鏡は奈良時代後期の日本における実質的な最高権力者となっている。道鏡は当地(現在の中田・八尾木地区あたり)に西京(由義宮)を造築したが、失脚とともに歴史に埋もれてしまい、現在でも遺構は判明していないらしい。

朝鮮半島での白村江の戦いで敗北した大和朝廷は唐の侵攻に備えるために西日本で古代山城などの防御施設の整備を進め、この時高安山にも高安城が築かれたとされる。1978年に高安山の東側で遺構が検出されたが、後に壬申の乱以降に再建された高安城の倉庫であると判明。しかし、1999年の調査で高安山頂の北西約300メートルの場所で花崗岩を二段積みした石垣がおおよそ100メートル続いているのを検出。その後の調査などから城壁の高さは10mを越えるものであり、高安山の西側に張り出した尾根の先端を平坦に整地してあり、その周囲に石垣が構築されていたことがわかっている。

東大阪然り八尾市も歴史由緒ある土地柄なんだと改めて感じ入る次第ですね!本当に自分の住まう街について何一つ知らないでいるってことは勿体無いような気が、、、

また、知ることによって!より身近に街を感じられたり、やはり私たちの今の生活は先人の知恵や労力によって築かれたものなんだと先祖に対する敬愛の念が芽生えるのも自然なのかも知れません(^_^)

また、お逢いしましょう!


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