九州神社紀行-ブログ

北九州近郊を中心に神社および周辺風景の撮影日記です。

新田神社(鹿児島県薩摩川内市)

2008-12-04 12:51:41 | 神社参拝ー九州
 新田神社(鹿児島県薩摩川内市)を掲載しました。

 新田神社(にったじんじゃ)
<通称>八幡様(はちまんさま)
【鎮座地】〒895-0065 鹿児島県薩摩川内市宮内町1935-2 旧薩摩国 高城郡
【御祭神】天津彦彦火瓊瓊杵尊
     (配祀)天照大御神 正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊
【例祭】 3月春分 春分祭 9月15日 例大祭 11月23日 新嘗祭
【旧社格等】国幣中社 (現別表神社)
      薩摩國一宮
【御由緒】
薩摩國総鎮守 新田神社(旧国幣中社)
御祭神
◆本祀一座 天津日高彦火瓊瓊杵尊(あまつひだかひこほににぎのみこと)
◆配祀二座 天照皇大御神(あまてらすすめおおみかみ)
       正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊(まさかあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)
◆神統譜
 天照大神(伊勢皇大神宮)ー天忍穗耳尊(英彦山神宮)ー天孫瓊瓊杵尊(新田神社)ー
 彦火火出見尊(鹿児島神宮)ー鸕鷀葺不合尊(鵜戸神宮)ー神武天皇(宮崎神宮、橿原神宮)
御由緒
 新田神社は神亀山(しんきざん)という亀の形をした小高い山の上にあります。まつられている神様は天皇様の先祖にあたるニニギノミコト様を中心として、ミコト様のご家族の神様、食物の神様、山の神様などたくさんの神様がおられます。
 古い言い伝えによりますと、遠い神代の昔、高天原(たかまがはら)にいらっしゃいましたお日様の神様アマテラス大神様が孫にあたるニニギノミコト様に私たちの住んでいる地上の世界を治めるようにお命じになりました。その時に稲穂をいっしょにお持ちしてお米をつくるようにおっしゃいました。「齋庭稲穂の神勅(ゆにわのいなほのしんちょく」といいます。
 そこでニニギノミコト様はたくさんの神様をおつれになり今の鹿児島県の霧島にあります高千穂(たかちほ)の峯におりられました。「天孫降臨(てんそんこうりん)」そこではじめてお米をお作りになり、続いて同じく今の鹿児島県の加世田市にあたる笠沙宮(かささのみや)にうつられ、山の神様の娘であり大変美しいコノハナサクヤヒメ様と結婚されてその後、海路東シナ海を北上されて川内の地にこられました。
 川内にお着きになられたここギノミコト様は、この地に立派な千台(うてな)すなわち高殿を築いてお住まいになりました。川内(せんだい)の名はこの「千台」からきています。
 やがてニニギノミコト様はおなくなりになられて、お墓がつくられました。これが今の「可愛山陵(えのさんりょう)」です。そしてそのニニギノミコト様をおまつりするようになったのが新田神社のはじまりといわれています。もともとは社殿がなくお山そのものが神社であったとも伝えられ、新田神社の「新田」という名前には、ニニギノミコト様が川内の地に川内川から水を引いて新しく田んぼをおつくりになったという意味がこめられています。
 新田神社の名前が古文書ではじめてでてくるのは平安時代の末頃で、当時は「新田宮」と称していました。このころには薩摩国(さつまのくに)の守り神様として朝廷や幕府からも深い信仰をうけていました。今から八百年程前、承安三年に火災があり、それまでお山の中腹にあった社殿が焼け失せてしまいましたが、この時も朝廷や幕府に伺いをたてまして現在の山頂に再興されました。島津氏が薩摩国に封じられましてからは歴代藩主の崇敬は殊に厚く、四百年前の慶長年間に島津義久公により現社殿のもととなるものが造られました。
 明治時代にはいりましてからは皇室の御崇敬を賜り、明治十八年に国幣中社となり、大正九年に昭和天皇様が皇太子の時御参拝いただきましてより皇族の方の参拝が十度におよんでいます。
 (神社パンフレットより)

 鹿児島県の西部東シナ海に面した薩摩川内市にあります。九州新幹線川内駅から川内川を挟んで北西に2km、神亀山の頂上に鎮座しています。

 太鼓橋から参道鳥居をくぐると大小二つの太鼓橋を渡ります。
 参道入口左に西門守神社(祭神:櫛磐間戸神)、右に東門守神社(祭神:豐磐間戸神)があります。社殿のある山頂まで階段の参道が続きます。

  参道から勅使殿
 社殿の前左右に樟の巨木があります。右側は樹齢推定650~800年、根廻13.3m、樹高20m余り、地上2mの所に慶長年間(1596~1615)社殿の修築時、工事奉行阿多長寿院盛によって彫られた大穴牟遅神の像があります。

     子だき狛犬
 勅使殿の前にあります、そばの案内に頭をなでると安産の霊験ありとあります。

 勅使殿 
枚聞神社と同様の拝殿の前に勅使殿のある鹿児島地方独特の建築様式です。左は西長庁、右は東長庁と繋がっています。
 はじめ神亀山の中腹に鎮座されていたが、承安3年(1173)神火のため社殿の全て焼失、安元元年(1175)山頂に移されました。

 本殿  
社殿は「山」の字にレイアウトされています。中央は手前から勅使殿ー舞殿ー拝殿ー本殿と連なっています。左右はそれぞれ廻廊です。

  武内神社  本 殿  四所宮
   西    拝 殿   東
   廻     舞    廻
   廊     殿    廊
   西長庁ーー勅使殿ーー東長庁
 
 創建は神亀2年(725)とも元慶4年(880)とも言われ、霧島神宮、鹿児島神宮と共に三大社と称されています。
 現在の社殿は慶長6年(1601)島津義久公が朝鮮の役に際して祈願達成の報恩として造営したものです。

        西廻廊
 本殿左側の廻廊です突き当たりに武内神社があります、対照的に右には東廻廊、突き当たりは彦火火出見命 玉依姫命 彦波瀲武鵜鵜草葺不合尊 豐玉姫命を祀る四所宮です。

  境内末社、廿四社
 西廻廊の左奥にあります。天孫降臨でお供をされた神々が祀られています。近くには道案内をした猿田彦神を祀る興玉神社があります。

 可愛御陵への参道
社務所の前の案内に従い進むと鬱蒼とした参道にでます。そばには樟の大樹が聳えています。

  可愛御陵御祭神瓊瓊杵尊の御陵です。
 宮内庁の管理で参道入口には管理事務所があります。

     勅使殿から参道

  がらつぱ大明神
 参道の途中にあります。平成3年、川内がらつぱ共和国建国式に造られたものです、けイザナギ河童とイザナミ河童とありなにやら怪しい雰囲気です。

  参道途中の末社
 参道途中、旧社殿跡地にあります。左、級長津彦神・級長津姫神を祀る早風神社、中、大山袛命を祭る中央神社、天鈿女命の高良神社です。

 旧社殿の礎石末社の前にあります。
承安3年(1173)神火のため焼失した社殿の礎石のひとつです。
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2 コメント

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リンク報告 (カミタク(リンク先は「新田神社訪問記」))
2009-07-26 23:49:06
はじめまして。カミタクと申します。

私が運営する、鹿児島県の観光・温泉紹介ホームページ「温泉天国・鹿児島温泉紹介!」
http://homepage2.nifty.com/kamitaku/kagoonin.htm
内のサブ・コンテンツ「新田神社訪問記」
http://homepage2.nifty.com/kamitaku/KAGKANA1.HTM
から貴記事にリンクを張りましたので、その旨報告申し上げます。

今後とも、よろしくお願い申し上げます。
返信する
ご来訪ありがとうございます。 (noyama)
2009-07-27 10:03:30
カミタク 様

 Linkの件、ご連絡いただきありがとうございました。

 この時は天候に恵まれず櫻島もお眼にかかれませんでした。鹿児島にはまたじっくりと訪問したいと思っています。

 今後とも宜しくお願いいたします。
返信する

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