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丸岡城

2017-07-25 | 風景

現存12天守のひとつで、北陸地方では唯一現存する天守のある福井県坂井市の丸岡城に行ってきました

お天守前公園から見た丸岡城天守

日本100名城のひとつにも数えられる丸岡城(別名・霞ヶ城)は、福井県坂井市丸岡町市街にあり、かつては五角形の広い内濠に囲まれた中に本丸や二の丸があったそうですが、現在は天守と天守台石垣だけが残るのみです

天守付近一帯は「霞ヶ城公園」として整備されていて園内には400本のソメイヨシノが植えられ、日本のさくら名所100選にも認定されていて、毎年4月に丸岡城桜まつりが行われています

丸岡城は、戦国時代の天正4年(1576年)に織田信長の命により家臣の柴田勝家の甥の柴田勝豊が築いた連郭式平山城。
天守は独立式望楼型二重三階(外観は2層ですが内部は3層)で、現存12天守の一つ。
天守台の石垣は野づら積みという古い方式で、すき間が多く見た目には粗雑にも見えますが、排水がよく大雨でも崩れる心配がないと言われています

現存天守は日本の城の天守のうち江戸時代またはそれ以前に建設され現代まで保存されている天守のことで、1940年代前半までは20の城の天守が現存していましたが、第二次世界大戦末期の本土空襲(1945年)で、水戸城・大垣城・名古屋城・和歌山城・岡山城・福山城・広島城の7城の天守が焼失、戦後の1949年には失火により松前城天守が焼失しています。

現在、現存する残り12の城の天守(弘前城・松本城・丸岡城・犬山城・彦根城・姫路城・松江城・備中松山城・丸亀城・松山城・宇和島城・高知城)は、"現存12天守"と総称され、いずれも国宝か重要文化財に指定され保存されています



駐車場から天守へは、丸岡城築城400年を記念して造られた日本庭園式公園のある歴史民俗資料館(歴代城主ゆかりの品が展示)横の急な坂道を上っていきます

■丸岡城天守
開館時間/08:30~17:00・年中無休
料金/大人450円・小中学生150円
※入場券は栞付きで、丸岡城天守、歴史民俗資料館、一筆啓上日本一短い手紙の館共通入場券になっています。



この日の福井県嶺北地方の最高気温は35

少しは涼しくなることを期待して丸岡城を訪ねたのは16時ころでしたが…
結局気温は30度以上のままで熱中症対策の冷たい飲み物片手にかなりしんどい思いをしながら天守台を目指しました

※駐車場は無料駐車場(一筆啓上茶屋前)を利用、ここは路線バスのバス停にもなっていました。

 

丸岡城は、合戦の折に大蛇が現れて霞を吹き城を隠したという伝説から、霞ケ城(かすみがじょう)とも呼ばれています。
かつては、五角形の広い内堀に囲まれた中に本丸や二の丸があったそうですが、大正時代から昭和初期までの間に堀は埋め立てれて道路などに変わり、現在は天守と天守台石垣が残るのみです
外堀の一部は用水路となり今も使われているそうですが、今回は確認できませんでした。



柴田勝豊築城の後、城主(城代)は、安井家清、青山宗勝、青山忠元を経て、徳川家康の次男・結城秀康が越前国に入封後は家臣の今村盛次、本多成重と続きます。

福井藩2代目の松平忠直の豊後配流後、幕府から附家老として派遣されていた本多成重は福井藩より独立した大名となり丸岡藩が成立しますが、4代本多重益の治世に丸岡藩でお家騒動が起こり、幕府の裁定により本多家は改易となります。代わって越後糸魚川藩から有馬清純が5万石で入城し、有馬氏は幕末に至るまで続き明治維新を迎えます

丸岡城天守は独立式望楼型2重3階で、屋根瓦には福井県足羽山山麓から産出の笏谷(しゃくだに)石製の石瓦が使われていて、1枚20~60kg、屋根全体(石瓦約6000枚))の重量は120トンにもなるそうです 



丸岡城名物"急な階段"

階段には昇降補助用にロープが備え付けられていますが…けっこうキツイですよ 
なによりもこれがいちばん印象に残っているかも…



狭間(さま)

天守の壁面に開けられた小さな小窓で、攻めてきた敵兵に向かい弓や鉄砲を撃ったりする時に使うそうです。



天守からの展望

城は福井平野丸岡市街地の東に位置する小高い独立した丘陵に築かれていて、天守の最高階なら本丸から約18m、城山のふもとからだと約35mの高さがあり、四方の壁に大きな窓があり東西南北の景観を見渡すことができ、日本海(三国海岸ま)で見渡せます。

丸岡城は、一瞬ですが北陸自動車道(丸岡インター付近)やJR北陸本線からもその姿を見ることができます。



掘立柱を用いたり大入母屋の上に廻り縁のある小さな望楼を載せた古式の外観から現存最古の天守とも言われていますが、それについては犬山城天守との間で論争になっているようです
現在の天守は、1948年の福井地震によって倒壊した後、倒壊材を元の通り組み直し1955年に修復再建されたものです



1948年の福井震災前には屋根の上には笏谷石の鯱が載っていましたが震災で落下し、現在の鯱は木造の銅板張りです。
石製の鯱は天守登り口の階段脇に保管されています。

天守は望楼型天守で遠目には迫力がありますが、近くで見るとかなり小振りで大きな城の櫓くらいの大きさです


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