少し前の話しになるが、
県外にいる甥っ子の運動会があったらしい。
甥っ子は小学校低学年。
祖母(ゴリ母)にかけてきた電話で
徒競走でビリだったということを報告したそうだ。
そして「1等にないたい・・・」と悔しそうに言ったという。
祖母はかわいそうになって
「世の中にはもっと足の遅い人もいるだろうし、気にすることはない。自分の得意な分野で頑張ればいい」
とフォローしたそうである。
祖母の孫を思いやる気持ち、言いたいことはすごく解る。
そのとおりだと思う。
確かに人には能力の差や、個体差、
得手不得手、努力ではどうにもならないことがある。
しかし、
「1等になりたい」
と言ったと聞いて、
ボクは“やりおるな”と少し嬉しく思った。
その想いが非常に尊いではないか。
その悔しさがある内は大丈夫だと思ったのである。
ビリでもいいか、
負けてもいいか。
自分には違う良さがある。
全てをそうだとはもちろん言わないが、
そう思うのはたやすく、
そう思うことで逃げようと思えば逃げ道に利用できたりするから。
自分に都合良く納得して楽になれたりするのだ。
それをいけないとは言わないが、
そこで進歩や向上心が止まってしまうのはもったいないと思うのだ。
それを言い訳にしてほしくはない。
有名な歌に
「ナンバーワンにならなくてもイイ、もともとは特別なオンリーワン♪」
という歌詞があるが、
これも都合の良いように解釈をはき違えると、
ただの言い訳になってしまう。
運動の得意な子、
勉強のできる子、
絵が大好きな子、
人の気持ちを想いやれる子。
どの子も尊くて、素晴らしいオンリーワンだと思う。
しかし誤解をおそれずにいうと、
ナンバーワンになろうと思わない人間は、
オンリーワンではない。
ここでいうナンバーワンとは結果や順位ではなく
自分に胸を張れるかどうか。
自分にウソをつかないということ。
1等になりたいと思い続けて走ったビリと、
ビリでもいいやと思って走ったビリでは全然違う。
ビリにはビリなりの戦い方が絶対にあるはずだから。
だから最近増えている
「みんなで手をつないでゴール」的なことも
絶対に反対だ。
それなら徒競走という名前を変えるべきである。
極論かもしれないが、そういう教育をしておきながら、
数年後には受験や就職などの競争社会にいきなり放り出すのだから。
例えば夢に向かってバイトをしている人間が、
これは夢が実現するまでの仕事(バイト)であり
自分が本来目指しているモノではないから・・・
といって手を抜いてやっつけている姿を数多く目の当たりにしてきた。
しかしそれすらちゃんとできない人間が、
自分の夢など実現できるはずがないと思う。
バイトだからとすでに自分に逃げてしまっている人間が、
自分の夢と戦えるはずなどないと思うのだ。
また絶対にどこかで逃げるから。
話しが逸れてしまったが、
小学校低学年の甥っ子には
下を見て優越感に浸るより、
上を見て少しでも這い上がろうとする男になってほしいと思う。
悔しいと思えるから次がある。
そのためにはまず自分がどこに立っているのかを
見つめないといけないけれど。
それは自分の得意なことや好きなことでも同じ。
せっかく道はたくさんあるのに、
逃げれば逃げ道しかなくなってしまうから。
「1等になりたい。」
ヤツはビリでも戦いの場から降りていない。
かつて多くのことから逃げてきた叔父は、
負けられないぞと思ったのでした。