奇跡のコース/奇跡講座で生きる! 愛を阻む障壁を超え、本当の自分を思い出そう【真我なるハート】

2018年10月から奇跡講座の学び実践の奥深さを思い知って、本当の妥協のないプランAの実践で歩むことを望んでいます

神聖な出会い、神聖な関係

2021年02月01日 02時04分53秒 | ACIM奇跡のコースという生き方


ルーシーとルーシーの神聖な出会い(映画:ルーシーより)



奇跡講座/ACIM/奇跡のコースの言うところの

神聖な出会い (ホーリー エンカウンター)
神聖な関係 (ホーリー リレーションシップ)

って、これなんだ。
ああ、これだったんだ。って

自分がどのような視座から出会い、
どの視座から関係するかなんだな、、と

私はもう、ほんとにこれ以外の視座にブレたくない。って
聖霊に沈み込んでいきたい。って本気で思う。


先日の勉強会でも話したけど
私は、私の人生に登場した「父」が精神分裂病で、彼が病気で、彼が狂っていると見えていた。
その関係は最終的に「神と神の子として私たちはひとつだ」と経験を与えられたのだけども

それでも、あのときは父は確かに発作が起きていて
狂っていたし、病気だし、治療が必要だった。そういうシナリオだ。
と、私は思えていた。



けど、待てよ??と先日思った。
あの瞬間、どこの誰が、そのバージョンの、その夢を、その視座で、見ていたのだろう?


自分が見ている夢の中で、病気を知覚することができて
病気の実在性を信じていること、、それ自体が「立証」しているのは
そのような夢を見ている「心」の方が、病に陥っているということじゃないか?

ちょっと、顎が外れそうな感じだった。



夢の中の登場人物の「父」が
病気に陥っているように見せかけられた錯覚は起きていたけども


事実は、
そのような病気があり得る、そのような体や物語があり得る、と信じながら眺めている
「私=夢見る心」が病気だったのだ。

「個々の体で分離しあった、自分とは別ものの誰か」という現象が本当に起きている。と
疑うことなく信じてその夢を見ている状態が病気だったのだ。


病気は、体に引き起こるものではない。
なぜなら、3D映像・粒子のかき集まりのホログラムは、もとより存在し得ない空想の産物なので、病気にも健康にもなることは絶対に不可能なのだ。


なんで、、、それが確信から腑に落ちていなかったのかが、わからない。
なんで、、、その当たり前がわからなかったのかが、わからない。

おそらく、わかりたくなどなかったのだろう。
今も完全には受け入れ切りたくないのだろう。



神聖な出会いとは、自分の前に現れたその相手
実は自分と別個の他者ではなくて自分自身として出会うことを意味するのだろう。
方便でもなく、そういうスピリチュアルなことを知的なレベルで知っているから、そう見るとかの見方ではない。


それでしかあり得ない、という当たり前さから見ているその視座。
聖霊と一緒に世界の外側から世界を眺めている状態。



そこから、人と出会い、関わる。

それが、神聖な出会いであり、神聖な関係だった。

それがどのような出会いか、どのような関わり合いか、というのは
見る者の視座という原因の反映にすぎないんだな。


だから、世界に見ている何か人々に見ている何かとは
「自分自身の愛ある想念」か「自分自身の愛と助けを求める懇請」のみなんだ。。。


ルーシーとルーシーの神聖な出会い(映画:ルーシーより)



日常、人生の中で
神聖な出会い (ホーリー エンカウンター)
神聖な関係 (ホーリー リレーションシップ)
だけを知覚して、経験している心にとっては、完全なる平安が約束されるのは絶対的に当たり前のことだった。





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⭐️映画:ルーシーの最後のストーリーを通じていただいたインスピレーション

ルーシーが「自分は、幻想世界を超えたすべてだった」っていう自覚が復活する前

「私」のはじまりの類人猿ルーシーに出会って
その相手を自分として認め関わった瞬間、、、ルーシーは世界から出た。

(映画の最初、人間ルーシーは類人猿ルーシーを嫌って除外していた)

相手を自分として認めたから、そこからどんどんネタバレが起きていって
最後は「意識の私」「見る者の私」も消滅した。


そういう隠喩が含まれていたんだな、、、っていうインスピレーションを受け取りました。








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