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兎も角も

ともかくもいちにちぐらしとぞんずべくそうろう ・・・ 芭蕉

本「普天間」交渉秘録

2011年07月29日 | 本と映画の話
 「普天間」交渉秘録

 守屋 武昌 著 
 平成22年7月10日  新潮社 発行

「一官僚が見つめてきた一つの記録として、(ご覧いただきたい) 沖縄問題の根深さを垣間見ていただければ幸甚である」 「はじめに」より


この本は、守屋武昌 元防衛事務次官が、交渉の舞台裏や経緯を詳細に記した日記を元に書き上げられました。忘れてはならない歴史の一部だと思いました。

私は在職中(1971年防衛庁入庁、2007年8月退職;nono記入)日記をつけていた。防衛が国の重要な問題となり、それを当事者たちがどのように考え、どう対応したかを記録に残したいと考えたからである。たいへんなプレッシャーがかかる日常の中で、ともすれば自分を見失ってしまうのではないかと感じることも多々あった。


私が官房長の時から事務次官をやめる時まで、私の秘書であった女性が日程表を前日に作成し、当日には新たに入った会議、来客、外出先、受けた電話とかけた電話の先方の使命をすべて書き記してくれた。

私は鉛筆でびっしりと書き込まれた記述のある日程表に基づき、時間を見ては、自身と相手の発言内容を含めそれぞれの詳細を日記に記した。

(略)

2009年12月ころより、私はそれらの日記を繙き始めた。あらためて読み返すのは、初めての事だった。そしてそれを元に本を書き始めた 


一人の人の目によってあらわされたものです。これが真実の全てとは言いません。けれど、真実の一部であることに間違いなく、貴重な記録であります。

沖縄の基地問題の迷走ぶりがよくわかりました。自民党時代からの政策決定手順の不明瞭さ、地元の首長らの狡猾さ…なんというか…とても腹立たしい。

1945年8月より66年経った今も、日本は様々な問題を抱えながら、在日米軍をそのまま受け入れてきました。しかし2001年ににおきた9・11事件以降、アメリカは自国領土での防衛に踏み切り、世界的規模で米軍の配備を見直していた。今こそ基地問題解決の交渉をするチャンス、「この機会を逃してはいけない」これが、長年防衛庁・自衛隊の中にいた守屋氏の結論だったという。 

2004年9月に小泉純一郎総理に呼ばれた守屋氏は説明をした。

この時期、アメリカ側が求めていたのは、トータル・パッケージ(米軍第一軍団司令部をキャンプざまに移す。横田基地にある第五空軍司令部をグアムへ移転)、日本の外務省は、グアム移転だけを受け入れるというスモール・パッケージを考えていた。「小規模の移設で在日米軍の再編を済まそうとするスモール・パッケージでは、在日米軍が抱える問題の解決は蚊帳の外に置かれたままになる」

守屋氏は、在日米軍の再編にあたりさらに、「①米海軍厚木基地の空母艦載機部隊を海兵隊岩国基地へ移す ②相模補給庫や牧港補給地区など、嘉手納以南の基地返還 ③普天間飛行場移設合意の見直し」を付け加えるべきだと進言。


約30分における説明を受けると小泉総理は、矢継ぎ早に質問した。 「岩国は基地を受け入れるのか」 「座間の反対はないのか」 「普天間は転換できるのか」 守屋氏は「総理のリーダーシップがあればできます」と即答した。 「本当に日本の戦後を終わらせることが出来るんだな」 私は再び「はい」と答えた。



沖縄の米軍再編については、すでに1996年に日米で合意ができていたのだが、守屋氏は 小泉総理に説明したこの2004年までほとんど何も動かないままだった。という。

▼これまでの経緯はどうであったのか ・・・・・

1995年に設置された「沖縄に関する特別行動委員会」(SACO)で協議を重ね、1996年12月の最終報告で、普天間飛行場については今後、五年乃至七年以内に、十分な代替施設が完成し運用可能になった後、普天間飛行場を返還する。 と、取り決められていた。住宅地に取り囲まれた飛行場となったため、住民生活に大きな影響を与えていたから解決を急がねばならなかった。

「会場施設の建設先は名護市沖とする」、政府はそう決めていた。
(略)
ところが1年2か月後、これに反対したのが、普天間飛行場の返還を橋本総理に求めていた、ほかならぬ大田昌秀沖縄県知事だった。「沖縄が求めていたのは単純返還だ。新たな代替施設の建設が付いてくるのは承知できない」

(略)
そして1998年11月大田知事を破り、「県内に軍民共用空港を建設。米軍の試用期間は15年とする」ことを公約して当選したのが稲峰恵一知事だった」 (略)しかし、稲峰知事は、県民の強い要望であり日米両国の最大の懸案だったこの問題に積極的に取り組むことはなかった。

稲峰知事任期2期目の半分まで、つまり約6年経っても普天間移設問題が建設現場で進むことはなかったのである。しかもその間、後述するが、「北部振興策」として年間100億円単位が国庫から支出されていた。
2004年8月、沖縄国際大学での米軍ヘリの墜落事故がおきてしまった(大学生や一般人にけがはなかった)。稲峰知事は米国政府に厳しく抗議し、マスコミを前に飛行場の早期返還を要求した。

こうした事故の危険性は十分予測されていた。だから早期の移設に日米両政府が合意したのではないか。それなのに稲峰知事は、その問題解決を推進すべき当事者としての立場をわすれていたのではなかったかと守屋氏。

さらにこの時、石破茂防衛大臣が自分でラムズフェルド国防長官に抗議すると言い出した。「アメリカと普天間飛行場移設の合意を交わしたのが8年前。それから日本は何もしていない。しかも、この4年間、それを促進すべき立場の石破防衛庁長官が抗議をすれば信頼関係を裏切ることになる。」と守屋次官が諌めて、アメリカへの抗議は副長官の名で出すことになった。

▲ 守屋次官が小泉純一郎総理に「トータル・パッケージ」について述べたのは、このような状況の時でした。

小泉総理  「わかった、次官。それでいこう。じゃあ、俺から二橋(内閣官房副長官)に言っておくから」と、了解。

スモール・パッケージを考えていた外務省にとっては面白くない状況。


2005年、日本は普天間移転先について「辺野古見直し」を議論。反対派の阻止活動激しい。

米政府は 「普天間移設案の代替案がでれば、積極的に検討する」と。

2005年5月 小泉総理国会答弁 「地元とも話し合いをして、協調できるような解決がないものかということを真剣に考えている。もう少し時間がほしい。今、交渉中であり、結論が出ていない中で、こういう意見もある、ああいう意見もあるというのは、政府として控えなければならないと思う。よく検討したいと考えている」

小泉総理はその前に「辺野古は難しい」と発言していた。

移転先はこの後、新たな移設先として「シュワブ陸上案」を提案してきていた。それとは別に 守屋次官も「米軍基地キャンプ・シュワブの敷地内に飛行場を建設する」を推していた。(妖怪たちの思惑により後にシュワブL字型に変更)

しかし、この年の8月、米国防総省副次官ローレス氏が来日、「名護ライト案」(=辺野古沖の浅瀬を大きく埋立、そこに滑走路を作る)を提案してきた。 この、辺野古沖の海上空港案は、日米間で消えたはずだった 6月4日にはローレス氏は「ヘノコ・イズ・デッド」と発言していたのだ。

ローレス副次官の、「名護ライト案」(辺野古沖の浅瀬を大きく埋立、そこに滑走路を作る)を推す理由は、「現沖縄がこれなら賛成だと言っている」と、ローレス副次官。 外務省も防衛施設庁も賛成に回る。

さて、一旦消えた筈の、「名護ライト案」(辺野古埋め立て案)を生き返らせたのは誰なのか? この辺りでの妖怪たちの動きは、ここでは省略する。

10月、守屋次官は小泉総理に面会を申し込み、アメリカの示した「名護ライト案」が実現不可能であることを伝える。

小泉総理 「いくら地元の首長が賛成したからと言って、環境団体は抑えきれない。池子がいい例だ(神奈川県逗子市池子弾薬庫全面返還に環境団体が参加。市民運動に拡大)」と、自らの経験を話す。

「環境という言葉に国民は弱い。環境派を相手に戦っては駄目だ」

「それほど住民運動は怖いんだよ。執念深い。絶対に海に作るのは駄目だ。陸上案が海兵隊の訓練に支障をきたすというなら、君の言うように宿営地に作ればいい。金は多くかかるが、辺野古沖の埋め立てよりいい。俺の考えははっきりしているから、君の考えで案を作ってくれ。事務方で交渉をまとめられないなら、俺がブッシュと話をしてまとめるから」


また、

「自民党で防衛庁案に反対している奴の名前と、その理由がわかったら教えてくれ」

「何だ、俺の身内じゃないか」

と、笑っていたそうです。→ 「小泉おろし」だね。びくともしないが。

10月、アメリカは、防衛庁の「キャンプ シュワブL字案」を受け入れた。大野功統防衛大臣と守屋次官の粘り勝ちだ。

小泉総理は少しもぶれない。当然ながら♪
「防衛庁の案で今、決めるべきだ」 しかし、「決まらないなら、2プラス2は無理してやらなくてもいい。延期してもかまわない」と、決して焦らず。

外務省の情報にのって、防衛庁案はアメリカに拒否されるだろうと読んでいた朝日、毎日、読売、共同の落胆。 外務省の首脳たちの怒り。 2005年10月27日の日経の、はてな?の社説。

敵の多い中で 小泉総理の言葉が秘書官から伝わる。「総理は飯島さんとの立ち話で、次官のことをほめていました。守屋は信念の男だ あいつを信じてよかったと、総理は言っていました。私はその話を聞いて、防衛官僚としてうれしくて仕方ありませんでした」(深山秘書官)

小泉総理は、山崎元副総裁にも、「守屋は方々から叩かれているので慰労してやってほしい、守ってやってほしい」と伝えていたそうです。 守屋氏は「私は『うれしくて感激を覚えた』と日記に記した」 と。



日米が合意した翌日、守屋次官は、赤坂御所で行われた園遊会に招かれています。二度目の園遊会で、陛下から「この間はありがとう」とお言葉をいただいたということです。


 
6章までのうちの1章までです。 
後にL字からV字に変更され、その他の条件を付けて仲井真知事が受け入れを表明するところまでこぎつけました。
 

それが、民主党ドシロウト政権になり、この長~い時間と労力と知恵と、莫大な費用の上に積上げられてきたものすべて、ぶち壊されました。 鳩山氏 「学べば学ぶほど、連携し抑止力を維持していることが分かった」
あな なさけなの・・・ 


私は、よし と信じたら貫き通す、小泉さんの姿を証明する記録に、再び出会えてとても嬉しいと思いました。 利権や私欲につられて余所見をすることが微塵もないところからくる強さです。

その他の政治家の言動もさらっと記されています。  とても参考になりますですよ ・・・


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