兎も角も

ともかくもいちにちぐらしとぞんずべくそうろう ・・・ 芭蕉

大原富江

2010年12月15日 | ドリー
本の話   大原 富枝  2
  
本は大切な友達
時空を超えて語りかけてくれる。風のようにいつも自由に


大原富枝さんは達者な文章を書く作家ではありません。けれど、言葉
を慎重に積み重ねて、作中人物の心の深みに静かに寄り添う気配を
行間から感じることができます。


「わたしの和泉式部」より
王朝の女たちの「ながめる」という行為とその姿勢、その内部のありようが、このごろたまきにはようやく見えて来はじめた。それは現在の人々のいう眺めるとはまったく姿勢も心もありようも異うものなのである。もの想いに耽る女の視線はひとりでに斜め後ろに流れることになる。その視線の流れにこそ彼女たちの想いのすべてがあるのであった。
                                            
人が生きるには、皮肉なことにも、希望を持って営々と努力しているときは苦しみばかりであるのに、なぜか、絶望の極みに陥ったとき、歓喜の極限がようやく訪れるのであった。
                                           
   くろかみの乱れも知らず打ち臥せば
             まづかきやりし人ぞ恋しき
                                       
        
「地籟」より
仕合せなことに、わたしは人間によって傷ついたりはしないんですよ。人間は怖い存在だと十分知っておりますからね。うまく逃げてしまいます。弱い生き物というものは、自分を守る本能においては、つよい動物とは比べようもないほど賢いものなんですよ。却って、あなたのような強い人が、思いがけないところで、思いがけないような傷つきようをなさいます。あるときそれに気がつくのですわ。
                                           
生涯の決算というのは、じつにエネルギーを消費するものだよ。殆ど一人でやってのけたんだ。丸々一年半はかかったかね。誰にも手伝ってもらえるものではない。全部自分がやるしか仕方がないんだ。

みんな、だんだん片づけられてゆく。よくしたものだよ、自然というものは。自分でこうして骨折って片づけなければならない私のようなのは、一番手がかかって困る。まあ仕方あるまい。病気にも片づけてもらえないものは、自分で片づけるほかないからな。いずれにしてもみんな、だんだん片づいてゆくよ。きれいさっぱりとね。
                                               
これで物事はすべて片づいた。残っているのは感性というものだけだ。これが案外片づきにくいものでね。/ もちろん人間に対しての所有欲なんかはとっくに無い。ただ、微妙な感性だけが残っている。これが難関だな、といつも考えているのさ。

わたくしは、死の瞬間までそういう感性だけは持ちつづけたいと思いますわ。ちっとも邪魔ではございませんでしょう。

若い、若い。邪魔にならないと思えるだけ、あんたはまだ若いのさ。邪魔になります。煩わしくなる。振り捨てたくなる。
                                                  
50代というのはいまから考えますとね、手前どもにはとても不思議な年齢に思われるのでございます。ご本人のあなたは、もう自分の生涯はそろそろ終わるのだ、というふうにお考えでございましょ、きっと。ところが大違いなんでございます。50代というのは、ほんとは生涯が始まるときなんですよ。
                                
                                 
                                                   
「忍びてゆかな 小説津田治子より
津田の本名は鶴田ハルコ。1911年(明治45年)ー1963年小学六年頃発病、昭和4年18歳のとき正式にハンセン氏病と診断される。昭和11年から回春病院の『アララギ』会員田中光雄の指導で作歌はじめる
                                             
     現身にヨブの終りの倖は 
     あらずともよし
     しのびてゆかな
              
『アララギ』では、写生ということを一番重く見る。その意味が、私にもようやくわかってくるようであった。自然をよく見ることの大切さは、作歌のためではなく、まず、よく生きるということの大切な手段だというふうに私は独り学んだ。

自然だけでなく、人間をも、自分の心の内側をも、私はよく視るようになった。それがどんなに私の世界を広くおし拡げ、豊かにしてくれるものであるか。また、何でもなく見過ごしてきた草や石や木が、虫が、思いがけないほど深く私を仕合せにしてくれるものであるかを知った。
                                               
     電燈の光が蒼く見ゆるまで 
     この夕ぐれの
     黄にかがやける
                                            
稚い感動をそのまま、とにかく私は歌の形にまとめていった。雨も霧も太陽の光にも凝視(みつ)めれば豊かな、はかり知れない深い陰影があった。人の心の複雑な壁の深さも、揺らめきも、まだ表現は出来ないが、その存在を感じ取ることは出来るのである。口には出さない人の思いや、言葉を持たない生きものである 植物や動物たちの思いと、その語りかけを、聴くことができるように思った。
                                       
一日一日が、私にとっては新しい生命の発見になるのである。
歌の世界で、私は少しずつ甦りつつあった。
                                  
     どうにでもなれと或時思ふとも
     冬木の下の
     石に日が照る
                                         
私はもう『争ふ如く』祈ることはしなかった。『狂した如く』祈ることもしなかった。ただ一人で竹林の根方に静かに跪いて祈った。 
                                  
現実の世界の真実と、歌の世界の真実は、あくまでも同一でなければならないのだろうか。/ 願望の真実のせつなさをとる。
                               
     かなしみはいくたびにても
     まざまざと
     立ち返りつつ再(また)逢はぬかも
                                     
それがどんなに優れた文学であろうとも、私は読もうとは思わない。いかに優れた文学であっても小説や記録には、救いがない。北条民雄という人はあれだけの小説を書いて果して救われただろうか。救われはしなかったのだと私は思う。小説がたくさんの文学者たちに賞賛されても、この人の魂は決して救われはしなかった。 

短歌(うた)はちがうのだ。短歌には救いがある。三十一文字というこの短い詩形に凝縮された短歌には、これを発見した人々、太古の日本人の魂のリズムがある。それは日本人だけの魂に連綿と流れつづけていまも私たちの血のなかにある。
                                     
     木蓮は空に向かひて花ひらく
     わがよろこびの
     満ち満つる日に
  
                                          

                   
「風を聴く木」
より
・・・西窓が夕映えの色を映して、部屋の中が紅く染まった。するといままで乱雑ながらくたの山になっていた部屋が突然、まったく表情をを変えた。夕焼けのあの紅の色は、絵の具でいえば何という色だろう。

夕焼けというもののあたえる変貌には、言葉に表現できないほど感動してきた。それらは大体として歓喜の範囲に含まれる感動であった。侘しさがあったとしてもせいぜい回顧的なもので泊まっている。  

この日の夕焼けのいのちは、はじめてのことだが、ただひと色に「哀しみ」の色に、わたしは見えた。

捨ててゆく台所の椅子に腰をおろして、わたしは自分も含まれたその部屋の作ろうとしてもけっしてできない絵画的な美しさ、おもしろさにしばらくうっとりしていた。
                                   
 
愛が、孤独が、世界が、もうわたしの心の傷口を洗うことはありません。 わたしはいま、風ばかり聴いています。 
                           



 

水仙のように気品のある人は 2000年1月28日、87歳で昇天

        水仙の透きとほりつつ枯れゆけり  


本 大原富枝

2010年12月13日 | ドリー
本の話   大原 富枝  1
  
本は大切な友達
時空を超えて語りかけてくれる。風のようにいつも自由に


大原さんの本を読むと、書き写したい言葉と文章がたくさんあります。
登場人物に大原さんが託した言葉を、ここにも少し残します。
                                       
   
「婉という女」「アブラハムの幕舎」「建礼門院右京大夫」
「地上を旅する者」「地籟」「忍びてゆかな(小説・津田治子」
「メノッキオ」「わたしの和泉式部」「風を聴く木」
「山霊への恋文」「詩歌と出会う時」「三郎物語」「草を褥に」
「そして人生は輝く」「大原富枝の平家物語」


                                        
 「地上を旅する者」(1983年)より
しかし、真実というものは、やはりそのことだけでなく広いつながりを含む重要な意味が、地下茎のように根を張っているものだから、あんまり残念がらないようにしましよう。どこかで収穫が用意されていることだってあるのだから。

                                        
自分と意見が違う人に出逢えば、日本人はあいまいに笑ってやりすごし論争をさけます。・・(略)・・ヨーロッパ人は徹底的に自説を主張して討論し、論争します。壮烈に激論を闘わせます。しかし後に不快なものを残さない。といいますが、そうともいえなくてけっこう以後も口をきかなくなる人も多いのです。どんなに激論を闘わせても、数学ではありませんから、大方の問題はきちっとした優劣とか、正邪とかはつくはずがないのです。こういう考え方もあるのだと認めるほかないでしょう。
                                        
その点日本人は激論する前にそれが分ってしまうものわかりの良さ(?)あるいは饒舌への情熱のなさ、厭悪、または怠惰、悪く言って怯懦か、その種のものがあるかもしれません。(略)論争によって、何かが理解し尽されたとも思えないし、解決できたとも思いません。ただ相手の考え方、思考の方法、その人独特のパターンなどはだんだんわかって来ます。つき合って行く上でこれは確かに必要であり、いいことだと思います。(略)日本では初めから何も話し合わず、論争もせず、敬遠することが多いと思うのです。(略)

しかし、日本人は時間をかけて、逆に控えめにすることによって相手を少しずつ理解してゆき、相手を自分に親しませてゆきます。ヨーロッパ人にはとても真似のできない気長な芸当です。

                                             
正の世界ではなくて負の世界のこの住み心地のよさ。たしかに私は、不仕合せな心地がしています。憂愁と寂寞としたものに心が閉ざされているのをはっきりと感じます。しかし取り乱しているのではなく、むしろ冷静ではあるのです。安堵のような平穏さも感じています。少なくとも予感を抱きつづけていたより落ち着いています。何かが近づいて来る不安よりも、来てしまったときの安心のほうが堪えやすいように思います。不安な仕合せよりも、不仕合せな安堵のほうが落ち着きます。 

                                          
一人一人の人間は、近くで見ると物欲やエゴイズムや気取りなどに充ちていて生臭く、決して懐かしい存在ではないのに、遠く眺める人間の生きている風景は、どうしてこうも懐かしいものなのでしょう。

                                       
私はただ思いやりのある考えと優しい思いが欲しいのです。これから先、私の思うことはいつもあなたのものです。私たちがただ一度だけ口のするある事は、それは一度は言わなければならないことだし、黙っているのはお互いに苦痛だからのことです。それは一度きりのことで、そのあとは黙っていることこそが心のうちをよく伝えてくれます。お互いに魂の奥深い聖地で祈ってさえいればいいのです――――今は  (略) 逆に人間の生命力の方が、果てもしなく拡散していってしまって無力になってゆく。病んでいってしまう。

                                          
         ジャン・コクトー 「眠る女」(後ろより)
      私はあなたの頬に接吻し、あなたの體を抱きしめる
      それなのに音もなく、あなたはあなたから出て行く
      屋根から室を出るやうに
                                       
         シャルル・クロス
      両のこの手もよろこびを、とどめることは出来かねた
      この水あまり失せ易く、指の隙から洩れ消える
      歓楽のその良夜
(あらたよ)の匂ひさへ
      時が過ぎれば、消えて無い
            光の眼、恋慕の目、思ひを籠めたまなざしの
            何が果たして残ったか?
            はかない恋がやがてして、まどろみ憩ふ寂滅の
            涅槃の虚無に、消えるまで
      われ等の胸を匂はした、われ等の心に輝いた
      その幸福の名であった、いとしい人の名の数よ
      その名の数を連ね読む
      連祷
(つらねうた)より身に辛い、
      歌がこの世にまたあるか?
                                    
                                   
                                     
「メノッキオ」より

「町の上で」

ここでの生活、べつに苦痛じゃないわよ。心配しないで。・・・ううん。お見舞いだけはおことわり。もうね、はっきり死相が出ているわよ。健康でまだ生きなきゃいけない人は、そういうもの見ない方がいいの。だってね、見られるほうの身にもなってみてよ。ね、そうでしょう。お見舞いはおことわり。
                                           
        アポリネール
    ミラボー橋の下をセーヌ川が流れ、われらの恋が流れる  
    わたしは思い出す、悩みのあとには楽しみが来ると
         日も暮れよ 鐘もなれ
         月日は流れ わたしは残る
                                           

「男友達」

色川武大さんは、わたしの数少ない男友達の一人であった。・・いつからか日記を書かないのでさっぱりわからないが、昭和25年にいまの杉並の家に移って来てからのことであることは確か・・
                                         
今年は必ず、お作品を取ってみせます。と書き添えてある年賀状をもらったことが(略)珍しい名前を記憶した最初であった。(略)ひょっこりと何の前ぶれもなく訪ねてくる(略)少年時代の話をぽつりぽつりとしたり、お父さんのことについて話したりする。(略)誰に紹介されたわけでもなく、ある間隔を置いてひょいひょいと訪ねてくるうちに、ふっと、不思議をおぼえて訊いたことがあるらしい。(訪ねてくることを、そしてその答えが)あなたの書くものが好きだから(略)そういう返事だったように思う。
                                        
ほんとうに不思議なひとだった。ひょっとしたら、わたしの知らないでいた彼の真実の生活の神経の疲れがわたしのような、彼の真実の生活を何年でも知らないで平気でいるような間抜けな田舎者のところで、幾分は寛ぎやすらいでいたのかも知れないと、彼を失ってしまったいまのわたしの思ったりすることではある。

                                         
あるときわたしを能楽堂につれていった。観世の演じもののなかに『善知鳥』があった。彼は熱心にこの能についてわたしに説明した。


                                        
『黒い布』中央公論新人賞(色川32歳) (略)色川さんは多忙で訪ねても来てくれなくなった。それでも、折り目、折り目には訪ねて来てくれて(略)その後いつであったか、思いがけなく手紙が来て、どうすれば、そんなに小説がたくさん書けるでしょう。教えてもらいにゆくつもりです。(略)その手紙の中に『私の和泉式部』の一節を書き写してあった。(略)およそ3ページ分(略)たわむれに映しているうちに止まらなくなってしまいました。他人の文章を写すのは初めてだけど、文章というのはその人間の呼吸だというのはほんとうらしい。写
していると大原さんが側に居るような気がしてきました。いつかの小公園のぶらんこのように。からだを大切にして書いてください。

                                     
人生を長々と生きてしまった、わたしのような女でも、何人かの男と交渉を持ってきた。その一人一人の男から、それなりの人生を学んできた。どの一つの恋あるいは自分を騙して恋だと思ってきた男との交渉もいまとなっては何一つ悔いる思いはない。恋愛というものは、その真贋にかかわらず、したことを悔いるものでは決してなく、しなかったことをこそ悔いるべきものなのだ、ということを、いまわたしは肝に銘じて思っているのである。
                                     
色川武大が生涯に唯二回だけ書いてくれた手紙を、ある意味で恋の手紙だと思うほど、わたしは自惚れやでもなければ、まだそれほど呆けてしまったわけでも決してない。しかし、小説として書いたこの一篇は、いまは地上のどこを探しても見つけられない色川武大への真実の恋の手紙なのである。息子のような年齢の青年だから、などと、どうしてあんな常識的なブレーキを自分にかけたりしたんだろう。なんておもしろくない女だったんだろう。あのころのわたしという女は、と思うのだ。
             
                            
齢をとるということは確かに哀しいことではあるけれど、また一方で、とてもおもしろくたのしいことでもある。若いときは、口が裂けても言えないこと、などと、ばかばかしくも考えたりするものだが、いまは、ほんとうのことがなんでもなく言ってしまえる。

人生というものが 多くの場合 悔いの積み重ねであるとしたらその理由というか 拠ってきたるところは唯ひとつしかないと私は考えているのである。肉体の若さみずみずしさとともに精神の老年が同生できないというこの哀しい一事に尽きると思うのである。   


さて、「色川武大が生涯に唯二回だけ書いてくれた手紙」と、ありまし
たね。二通目が、「『私の和泉式部』の一節を書き写してあった」手紙。
そして一通目は、

  大原さんが軽井沢の別荘へ滞在中のこと。講演会で不在になる
  のに留守番を頼む人がいなかったため、色川さんへ来てくれる
  よう電報を打つ。愛犬の世話を頼みたかったのだが、色川さん
  からは返事がない。主催者に相談して犬を連れて講演に行くが、
  後日、色川さんから分厚い封書が届いた。

ぼくのことならちっとも構いません。しかし、軽井沢の山の家でぼく
が泊まったということになると、大原さんの名に傷がつきます。

                                              
    色川武大(別名 阿佐田哲也)
    1989(平成元)年4月3日岩手県一関市で心筋梗塞で倒れ
     一週間後入院先の宮城県の病院にて死去。享年60歳 


   
                               
 

水仙のように気品のある人は 2000年1月28日、87歳で昇天

        水仙の透きとほりつつ枯れゆけり  

冬のソナタ

2010年12月01日 | ドリー

冬のソナタ

美しい恋の歌



幾億の生命の末に生れたる
二つの心そと並びけり
         
*****************白蓮 「踏み絵」より

恋の歌とともにもう一度・・・



やはらかに積れる雪に熱てる頬を
埋むるごとき恋してみたし
                      
*****************石川啄木 『一握の砂』
「忘れがたき人人」

   

君に似し姿を街に見る時の
こころ躍りをあはれと思へ

**************************石川啄木


火も人も時間を抱くとわれはおもう
消ゆるまで抱く切なきものを

**************************佐佐木幸綱





君かへす朝の敷石さくさくと
雪よ林檎の香のごとくふれ

**************************北原白秋


世の中の明るさのみを吸ふごとき
黒き瞳の今も目にあり

**************************石川啄木

 

白い雪よ、冷たい雪よ、
お前は遠い国で
わたしの恋人のトビ色の髪の中に、
わたしの恋人のいとしい手の上に落ちる。

************(ヘッセ詩集「孤独者の音楽」の中より


紙ひとえ思いひとえにゆきちがいたり
矢車のめぐるからから

***************************平井 弘




かの時に言ひそびれたる大切の
言葉は今も胸にのこれど

**************************石川啄木


約束の果たされぬ故につながれる
君との距離をいつくしみをり

****************************辻敦子


一度だけ本当の恋がありまして
南天の実が知っております

**************************山崎方代




夕ぐれは雲のはたてに物ぞ思ふ
あまつそらなる人をこふとて

********************古今集11巻よみ人しらず


お話はハッピーエンドが好き~♪
大好きな「ジェーン・エア」を思い出す。
 

ドアが静かに開き、
人影が夕闇のなかにあらわれて
階段の上に立った。
無帽の男の姿だ。

雨が降っているのを確かめるように、
男は片手を前にさしのべた。

暗かったけれど,
私はその男を見分けることができた。
ほかならぬ私の主人、
エドワード・フエアフアックス・ロチェスター
その人であった。

私は足をとめ、
ほとんど呼吸までとめて,
彼を見守りながら立ちつくしていた。

自分の姿を彼に見られずに、
彼の様子をよく見るつもりであったが、
しかし、ああ、
彼に見られるおそれはないのであった。

*********(ジェーン・エアより)
                      

「草の竪琴」

2010年12月01日 | ドリー
2003年2月13日、私はホームページを作りました。
説明書を読んだり娘にききながらPCの操作を覚えて
4年ほどたった頃でした。

基本的なことがわかっていないことは今も変わりなく、
進歩のない状態ではありますが、何回も転送に失敗
したり、かなり大変な思いをしながら作ったことを思い
だします。

ホームページの名前は『ドリーの家』とつけました。
ドリーというは前はカポーティの小説「草の竪琴」から
借りました。ドリーは主人公のかわいいおばあさんです。
「木の葉の海に漂う筏のようなムクロジの樹の上の家」
のイメージです。

当時、二人の子たちがそれぞれ独立し、私は空の巣症
候群に陥っているふうでした。それが新しいことをはじめ、
掲示板に書き込んでくださる方もでき、次第に回復でき
たような気がします。

ブログをはじめてからほとんど更新をせず、掲示板のみ
動いています。ビルダーも古いので、新しいPCでは対応
できなくなりました。

そういうことで、徐々にこちらに移してゆくつもりです。



「草の竪琴」を読みながら … 
むくろじの木の上へ ムクロジの樹の上で語りあう


床に腰をおろせば 
家は船のようにさまざまな夢の国のおぼろな海岸線を 
航海するのです


no.1 「思い出の箱に」 03年早春  
あたしが大事にしていた箱、今でも屋根裏にあるはずだけど・・・     
箱の中には何が入っていると思って?あのねえ、からからになった蜜蜂の巣、空っぽの熊蜂の巣、それから、丁子の蕾を差したオレンジや、カケスの卵なんかなの。こういうものを愛していたころ、愛はあたしの中に満ちていて、向日葵畠に遊ぶ小鳥みたいにあたしのまわりを飛びまわっていたわ。(ドリー)
                                           
 結婚式で 花嫁さんが ご両親に向けて書いた 感謝の手紙を
 読んだのわたしも子供たちが幼かった頃を思い出して
 涙ぽろぽ・・私の大事な箱に入っていたものは子供たちと暮らし
 たいろいろな思い出・・・そしてあのころ、 
 わたしのまわりにも愛が飛び回っていたのよ。
 今という時も後になればきっと光ってみえるわね。だから、この
 パソコンという箱にしまっておこうと思ったの。
                                          

むくろじの木の上へ
no.2 「優しい場所」 03年夏  
僕たちは友だちだった。ドリーとキャサリンと僕とは。
11歳から、16歳になるまでの間。目を見張るほどの素晴らしい出来事に恵まれたわけではないが、この年月は僕にとって心楽しい年月だった。~~もしも魔法使いが何か贈り物をくれると言ったら、僕はあの台所にこもる笑い声だのパチパチと燃える炎の詰まった瓶、バターと砂糖のとける匂いやパンを焼く匂いで溢れそうになっている瓶がほしいと言おう
                  (ドリーの友人コリン)

 コリン少年にとって、ありのままの姿で暮らすことができる
 素晴らしく居心地のよいところだったのね。少年期から
 青年期に、こんな優しく暖かい居場所があれば…
                                            

 
no.3 「愛の鎖」 03年秋
「おまえは反対の方向から始めようとしたのだよ。ラリー。どうして一人の娘を想うことができる?今まで一枚の木の葉にでも心を寄せたことがあったかね?」
                                     
「いまわたしたちは愛について話しているのだよ。一枚の木の葉、一握りの種、まずこういうものから始めるんだ。そして愛するとはどういうことなのかを、ほんの少しずつ学ぶのだ。
                                     
始めは一枚の木の葉、一降りの雨。それから、木の葉がお前に教えてくれたものを受けとめてくれる誰か。容易なことではないよ。理解するということは。
                                           
しかもまだ悟ることはできない。だが、これだけはわかっている。自然が生命の鎖であるように、愛とは愛の鎖なのだということ。こいつは粉うかたなき真実だ」   (ドリーの仲間の判事)
                                             
 想像力や感性を育て、思いやる気持ちを学んでゆく。
 愛とは言い換えると「人を受け入れ理解する力」。
 そして、鎖のように連なって行くもの。
                                            
 反対もあるわね「憎しみ」・・。これも鎖のように繋がってゆく。
 断ち切るためには、矢張り小さなことから始めなければね。
 赦す力を学んで行くことかしら。
 これも容易なことではありませんね。
                                     

むくろじの木の上へ

no.4 「クリスマスの思い出」03年冬
 「ねえ、ごらんよ!」と彼女は叫ぶ。その息は窓を曇らせる。「フルーツケーキの季節が来たよ!」
彼女が話しかけている相手は、この僕だ。ボクは7歳で、彼女は60を越している。僕らはいとこ同士である。すごく遠縁のいとこなのだが、僕と彼女はそれこそ思い出せないくらい昔からずっと一緒に暮らしている。
           (カポーテイ「クリスマスの思い出」より)
                                   
 暖かな思い出を作り合うことは、お互いにとって素晴らしい
 プレゼント。
            
 

no.5 「恋心」04年春
そして・・・彼女の存在を心にとめたそのとき、
僕は恋におちてしまったのだ。
                    (11歳だったコリン)

 このときドリーは60歳。私も腕白坊やの心をキューンと
 させるような60歳になりたいわ~
                                   


 
no.6 「おばあさん」 04年夏
お婆さんの一人があたしの手をとってこう言ったの。さあ、唄を 一つ、贈り物に教えて進ぜましょうって。

常緑樹の樹皮、トンボ羊歯、それから・・・いま、森の中に探しに来ているいろんな草や木のことを唄ったものなの。『水腫の薬がいるのなら、まじりけなしの生一本、黒くなるまで煎じなさい』って唄 (ドリー) 
                                             
 私がなりたいのは・・魔法使いのおばあさんです。
 森の中で薬草を探したり、お薬を作ったり、鳥や獣とお話したり、
 魔法の言葉を使って不思議なことをしたり・・
 おばあさんにはもうすぐなれるけれど、魔法使いになるにはどう
 すればいいのでしょうねぇ。
                                          
 ♪Are you going to Scarborough Fair?
  Parsley, sage, rosemary and thyme
  Remember me to one who lives there
  For once she was a true love of mine.~♪
     

no.8 「神様に近いほう」  04年冬

ちょっと考えてごらんなさいな。そうすればあたしたちの方が、あなた方よりも神様の近くにいるってことはすぐおわかりになるわ。 5、6ヤードだけですけれど (ドリー)
                                       
 神様の前には皆同じように小さな私たち。人間関係のもつれや
 争いは、自分の価値を誇る高ぶりから生まれるのよね。
                                                                           
no.9 「澄み切った、輝く瞳」  05年春
ドリーの声はティッシュペーパーのすれる音のようにひそやかだった。そして天性の資質をそなえた物のみが持つ、澄み切った、輝く瞳をしていた。ペパーミントゼリーのようにつやのある緑色の瞳。(コリン)
                           
 



no.7 「草の竪琴」  04年秋
聞こえる?あれは草の竪琴よ。いつもお話しを聞かせているの。丘に眠るすべての人たち、この世に生きたすべての人たちの物語をみんな知っているのよ。わたしたちが死んだら、やっぱり同じようにわたしたちのことを話してくれるのよ、あの草の竪琴は (ドリー)
                                            
 人の生と死はけっして無駄にはならない。 死を超えて語り継
 れる言の葉は、荒地を豊かな緑の地に変える力となる。
 たとえ記憶の片隅に追いやられたとしても、自然の中の一片と
 なり風や光や雲の中、小鳥、草木、花影に。