本の話 大原 富枝 2
本は大切な友達
時空を超えて語りかけてくれる。風のようにいつも自由に
大原富枝さんは達者な文章を書く作家ではありません。けれど、言葉
を慎重に積み重ねて、作中人物の心の深みに静かに寄り添う気配を
行間から感じることができます。
「わたしの和泉式部」より
「地籟」より
「忍びてゆかな 小説津田治子」より
「風を聴く木」より
水仙のように気品のある人は 2000年1月28日、87歳で昇天
水仙の透きとほりつつ枯れゆけり
本は大切な友達
時空を超えて語りかけてくれる。風のようにいつも自由に
大原富枝さんは達者な文章を書く作家ではありません。けれど、言葉
を慎重に積み重ねて、作中人物の心の深みに静かに寄り添う気配を
行間から感じることができます。
「わたしの和泉式部」より
王朝の女たちの「ながめる」という行為とその姿勢、その内部のありようが、このごろたまきにはようやく見えて来はじめた。それは現在の人々のいう眺めるとはまったく姿勢も心もありようも異うものなのである。もの想いに耽る女の視線はひとりでに斜め後ろに流れることになる。その視線の流れにこそ彼女たちの想いのすべてがあるのであった。 人が生きるには、皮肉なことにも、希望を持って営々と努力しているときは苦しみばかりであるのに、なぜか、絶望の極みに陥ったとき、歓喜の極限がようやく訪れるのであった。 くろかみの乱れも知らず打ち臥せば まづかきやりし人ぞ恋しき |
「地籟」より
仕合せなことに、わたしは人間によって傷ついたりはしないんですよ。人間は怖い存在だと十分知っておりますからね。うまく逃げてしまいます。弱い生き物というものは、自分を守る本能においては、つよい動物とは比べようもないほど賢いものなんですよ。却って、あなたのような強い人が、思いがけないところで、思いがけないような傷つきようをなさいます。あるときそれに気がつくのですわ。 生涯の決算というのは、じつにエネルギーを消費するものだよ。殆ど一人でやってのけたんだ。丸々一年半はかかったかね。誰にも手伝ってもらえるものではない。全部自分がやるしか仕方がないんだ。 みんな、だんだん片づけられてゆく。よくしたものだよ、自然というものは。自分でこうして骨折って片づけなければならない私のようなのは、一番手がかかって困る。まあ仕方あるまい。病気にも片づけてもらえないものは、自分で片づけるほかないからな。いずれにしてもみんな、だんだん片づいてゆくよ。きれいさっぱりとね。 これで物事はすべて片づいた。残っているのは感性というものだけだ。これが案外片づきにくいものでね。/ もちろん人間に対しての所有欲なんかはとっくに無い。ただ、微妙な感性だけが残っている。これが難関だな、といつも考えているのさ。 わたくしは、死の瞬間までそういう感性だけは持ちつづけたいと思いますわ。ちっとも邪魔ではございませんでしょう。 若い、若い。邪魔にならないと思えるだけ、あんたはまだ若いのさ。邪魔になります。煩わしくなる。振り捨てたくなる。 50代というのはいまから考えますとね、手前どもにはとても不思議な年齢に思われるのでございます。ご本人のあなたは、もう自分の生涯はそろそろ終わるのだ、というふうにお考えでございましょ、きっと。ところが大違いなんでございます。50代というのは、ほんとは生涯が始まるときなんですよ。 |
「忍びてゆかな 小説津田治子」より
津田の本名は鶴田ハルコ。1911年(明治45年)ー1963年小学六年頃発病、昭和4年18歳のとき正式にハンセン氏病と診断される。昭和11年から回春病院の『アララギ』会員田中光雄の指導で作歌はじめる 現身にヨブの終りの倖は あらずともよし しのびてゆかな 『アララギ』では、写生ということを一番重く見る。その意味が、私にもようやくわかってくるようであった。自然をよく見ることの大切さは、作歌のためではなく、まず、よく生きるということの大切な手段だというふうに私は独り学んだ。 自然だけでなく、人間をも、自分の心の内側をも、私はよく視るようになった。それがどんなに私の世界を広くおし拡げ、豊かにしてくれるものであるか。また、何でもなく見過ごしてきた草や石や木が、虫が、思いがけないほど深く私を仕合せにしてくれるものであるかを知った。 電燈の光が蒼く見ゆるまで この夕ぐれの 黄にかがやける 稚い感動をそのまま、とにかく私は歌の形にまとめていった。雨も霧も太陽の光にも凝視(みつ)めれば豊かな、はかり知れない深い陰影があった。人の心の複雑な壁の深さも、揺らめきも、まだ表現は出来ないが、その存在を感じ取ることは出来るのである。口には出さない人の思いや、言葉を持たない生きものである 植物や動物たちの思いと、その語りかけを、聴くことができるように思った。 一日一日が、私にとっては新しい生命の発見になるのである。 歌の世界で、私は少しずつ甦りつつあった。 どうにでもなれと或時思ふとも 冬木の下の 石に日が照る 私はもう『争ふ如く』祈ることはしなかった。『狂した如く』祈ることもしなかった。ただ一人で竹林の根方に静かに跪いて祈った。 現実の世界の真実と、歌の世界の真実は、あくまでも同一でなければならないのだろうか。/ 願望の真実のせつなさをとる。 かなしみはいくたびにても まざまざと 立ち返りつつ再(また)逢はぬかも それがどんなに優れた文学であろうとも、私は読もうとは思わない。いかに優れた文学であっても小説や記録には、救いがない。北条民雄という人はあれだけの小説を書いて果して救われただろうか。救われはしなかったのだと私は思う。小説がたくさんの文学者たちに賞賛されても、この人の魂は決して救われはしなかった。 短歌(うた)はちがうのだ。短歌には救いがある。三十一文字というこの短い詩形に凝縮された短歌には、これを発見した人々、太古の日本人の魂のリズムがある。それは日本人だけの魂に連綿と流れつづけていまも私たちの血のなかにある。 木蓮は空に向かひて花ひらく わがよろこびの 満ち満つる日に |
「風を聴く木」より
・・・西窓が夕映えの色を映して、部屋の中が紅く染まった。するといままで乱雑ながらくたの山になっていた部屋が突然、まったく表情をを変えた。夕焼けのあの紅の色は、絵の具でいえば何という色だろう。 夕焼けというもののあたえる変貌には、言葉に表現できないほど感動してきた。それらは大体として歓喜の範囲に含まれる感動であった。侘しさがあったとしてもせいぜい回顧的なもので泊まっている。 この日の夕焼けのいのちは、はじめてのことだが、ただひと色に「哀しみ」の色に、わたしは見えた。 捨ててゆく台所の椅子に腰をおろして、わたしは自分も含まれたその部屋の作ろうとしてもけっしてできない絵画的な美しさ、おもしろさにしばらくうっとりしていた。 愛が、孤独が、世界が、もうわたしの心の傷口を洗うことはありません。 わたしはいま、風ばかり聴いています。 |
水仙のように気品のある人は 2000年1月28日、87歳で昇天
水仙の透きとほりつつ枯れゆけり