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喉元過ぎれば熱さ忘れる

東日本大震災から一年が過ぎました。
記憶が曖昧になる前に、あのとき、私が見た事を記しておこうと思います。

3月12日(土曜日)2

2012年04月22日 | 東日本大震災
そんなことを繰り返すうち、うっすらと明るくなって来たので、
どうせ眠れない事だし行動する事にした。
まず親が避難している所へ被害状況を伝えに行く事にする。
さくらを抱いて一階へ降り、モモちゃんと留守番を言いつけて玄関に行くと、
泥の上に落ちた、パックに入ったおにぎりを見つけた。
恐らく魚屋さんが届けてくれたのだろう。
靴入れの上に置いたがパックの中まで泥が入っていて、おにぎりも汚れていた。
 線路の上の道路を山の方へ向かうと、結構自動車が止まっており、
中で一晩過ごしている人が目についた。
(この時私は黄色いヘルメットをしていた。
ひと月前に工事を手伝った時借りていたもので、車の中に放置しっぱなしだったが、
いつ車から出したのか覚えていない。)

 親達が避難している家の玄関を何も言わずに開けて入り、
皆がいると思われる居間の戸をそっと開けた。
寒い所から温かい所へ入った為一気に眼鏡が曇り、何も見えなくなったので、
「すいません○○ですが、うちの親いますかね?」と小さく声をかけた。
すると隣の台所からその家のお嫁さんが出て来て、「○○屋(屋号)の家に避難してますよ」
と教えてくれた。
 
 ○○屋というのはうちの親戚で、魚の加工業をしている。
本宅は津波の浸水地域にあるが、別宅はこの家よりもっと高い所にあった。
昔からこの辺の余裕がある家では、津波被害に備えて山あいに別宅を持っていたりする。
ちなみにうちの親父は戦時中の空襲のときも、この家の別宅に避難して難を逃れたそうだ。

 親戚の別宅に着き玄関を開けようとすると、鍵がかかっていた。
ドンドンドンとドアを叩くと息子さんが開けてくれた。
中に入ると部屋一杯に布団を敷き、5人で雑魚寝しているようだった。
暖房は火鉢と反射式ストーブだったか。暑いくらいだ。
親に家の様子と被害状況を話し、昨夜見た街の被害状況も話した。
が、あまり伝わらなかったみたいで、親父は「透析にはタクシーで行くしかない」
みたいなことを言っていた。
津波で浸水した状況を目の当たりにしたのに、と非常にあきれたが、
水が去った後のドロドロの状況が、見ないとわからないらしい。
 鉄橋が落ちた事、道路のあちこちに瓦礫や自動車があって車が通れない事、
静○先生の家は瓦礫で近づく事も出来ないことなど、もう一度説明した。
親戚が「うちはどうなってだぁべ?」と聞くので、今度来るときまでに見て来る旨と、
長靴でなければ歩けない状況なので、絶対来るなと言って引き上げて来た。
(被害状況を説明しても、見ないと理解出来ないみたいで、非常に疲れるだけだった。)
 
 家へ帰る途中、もうすっかり明るくなっており、朝早いので人はいなかったが、
津波被害にあっていない地区は全くの別世界で、本当に平和だった。
線路の上から改めて道路を見ると、自動車が折り重なって山になっている。
そして瓦礫と泥…雪がうっすらと覆っていて、太陽の光に反射して光っていた。
変な世界だった。

 何から手をつければいいのか、というか、手を付けるのも嫌になるぐらいどこもドロドロだったので、
家に帰ってしばらくこたつで横になっていた。
そのうち誰か来たので玄関にでると、見た事もない女性二人がいた。
玄関先に脱ぎ捨ててあった衣類の持ち主だった。
 話を聞くと、逃げる途中津波に襲われてしまい、あたりを見回すと水面からでている登れそうなものは、うちの塀しかなかったらしい。
で、二人で塀によじ登ってやり過ごそうとしたが、だんだんと水位あがってくるし、
ズブ濡れになってしまって寒い。
塀づたいに玄関先まで来て、試しに戸を開けたら開いたので、
しばらくうちで水が引くのを待ったということだった。
 女性二人は親子らしかったが、娘さんの方はホットパンツというか、
見ているこっちが寒くなるような格好だった。
「何か着るもの貸してやんが」と言っても今から行く所に着るものはある、と遠慮したので、
濡れた服を入れるビニール袋を渡した。
私が一度目に家に来た時に出くわさなかったのが、ちょっと不思議だった。


 もっと被害の大きい違う地区の話だが、私の友人の奥さんも逃げ遅れてしまい、
知らないアパートの階段へ駆け上った。
やはりズブ濡れになり、寒いし赤ちゃんもいる。
躊躇したがアパートのドアを開けると開いたので、誰もいなかったが
勝手に中に入って押入から毛布を取り出し、一晩そこにお世話になったという話があった。
今回の津波では、誰もいない他人の家に避難して命拾いや寒さを凌いだ話が結構あったが、
鍵を閉めなければ人に入られる、という言い方をする人や、何かあっては責任が取れない、
と避難者を拒む人もいた。
 事実、悪質で計画的な窃盗もあったので何とも言えないが、個人的な意見として、
鍵は開けておいても良いと思う。
結局津波には勝てない。
避難した時点で、家をはじめ全ての財産を津波に待って行かれる覚悟を決め、未練は残さない。
そしてその後の事の流れは運任せでしかない。

3月12日(土曜日)1

2012年04月20日 | 東日本大震災
 神社に戻るとさすがにドッと疲れた。
さくらはスーツの兄ちゃん達と仲良くなったみたいだった。
(ただ大人しく寝ていただけだと思うが、
楽な姿勢をとるため兄ちゃんに寄っかかったりしたのだと思う。)
 スーツの兄ちゃん達に見て来た被害の様子を話した。
現在自分らが置かれている状況は孤立しており、救助のあてもない。
出来るなら明るくなったら脱出した方がいい、というようなことを言ったと思う。
 
 隣で、体育座りでうずくまっている魚屋さんのおばあさんは大変そうだった。
朝早くから起きていたので(朝といっても深夜帯)腰が辛くてしょうがないらしい。
相変わらず余震はあったが水も引いて来ている事だし、何よりもこれから先、
いつまでこんな孤立した状態が続くかわからないので、できるだけ疲れを蓄積したくはない。
そして幸いにして私の知っている限り、近所で水没していない家はうちだけだ。
 私は家に帰る事に決めた。
魚屋さんにその旨を話し、「もし良かったら、自己責任で一緒にどうぞ」と言った。
魚屋さんは遠慮というか迷っていたが、腰の痛さには勝てなかったようだ。
(顔見知りの消防団に、私の家は大丈夫な事と体調を崩した人がいるなら布団もあるので、
鍵は開けておくから自己責任でうちで休んでいい、と言い残した。が、結局来た人はいない。)
私はさくらを、魚屋さんはモモちゃんを抱いて私の家へ向かった。
 何事もないようなすっきりとした憎たらしい、満天の星空だったような気がする。
 
 家に入りモモちゃんをさくらのゲージに入れ、さくらは自動的に冷たいこたつの中に潜り込む。
反射式のストーブに火をつけ、やっと落ち着いてぬるいお茶を飲んだ。
何時だったか忘れたが、日付はとっくに変わっていた。
たまたまあった柿ピーか何かを口にしたと思う。
体を横にする事が出来てやっと安堵した。
 ラジオをつけていたが、ぼんやりとした不確定な被害状況をしゃべっていたと思う。
ただ私らのような被災に直面して動けない人間向きではなく、
混乱した情報を何度も繰り返していたような記憶がある。
横になると、これだけの余震がまだあるのか、というぐらい余震が続いているのに気付いた。
というか、フェリーのような乗り物に乗っているような感じでフワフワとずっと揺れていた。
 そうしているうちに、ラジオで長野県で深度5以上の地震が発生したという。
さっき長野の人をうらやましがったのに…
他の地域でも結構大きな地震があったりと、日本全体どうなってしまうのかと思った。
けれど頭の中では何故か、筒井康隆の「日本以外全部沈没」が浮かんだ。
そしてそれから派生して「農協月へ行く」が思い浮かんで訳が分からなかった。
たぶん疲れていたのだと思う。
 
 長い間横になっていたと思うが、魚屋さんは他の家族、特に小学生の孫が気になるらしく、
まだ暗いうちに行動を開始するという。
(小学生は集団で、高台にある、昔牧場があった大きな家に避難していた。)
モモちゃんは置いて行く事になった。
モモちゃんは騒ぐ事もなく、おさまらない余震のせいかゲージの中でソワソワしていたが、
いい子だった。
魚屋さんが出て行ってからしばらくこたつに横になっていたが、
なんか落ち着かないので自分の部屋で横になる事にする。
暖房がなく寒かったので、天然湯たんぽを連れて行く事にした。
さくらを抱き起こし、モモちゃんに
「もう津波は来ないから大丈夫だよ。トイレはゲージの中で自由にしていいからね、おやすみ。」
と言うような事を言って二階の自分の部屋に上がった。
 ベッドでさくらをがんじがらめに抱いて、寝ながらラジオを聞いていると、
“船で沖合に逃げた人は、何も食べるものがなく寒い思いをしている”とか
“仙台湾で海に浮かぶ遺体数百体”とか各地の被害状況、火災状況をしゃべっていた。
何ひとつ、いい情報はなかった。
ふと山田町の同級生の事が頭に浮かんだ。何人かの同級生はダメだろう…
 
 ちょっと大きな余震があるたびに下に降りて、モモちゃんの様子を見た。
気配がするたびにモモちゃんは、お尻を振りながら相手してアピールをする。
ゲージに敷いたトイレシーツは荒らされて一カ所に団子になっていた。
それを直しながら、「もう津波は来ないから安心して寝ててね」とあやした。

3月11日(金曜日)16

2012年04月13日 | 東日本大震災
 来た道を戻る途中、保育園の所の水門が本当に開いているのか気になったので行ってみた。
保育園をライトで照らすと、講堂が津波でぶち抜かれて壁がない。
窓は割れ、フェンスは倒れ、ここもあらゆるものが散乱していた。
水門の前の道路(防潮堤の陸側)にはえぐれたように大きな穴があいている。
…水門は人が通れるぐらいの幅が開いていた。
「開いてたんだ…」と思い水門のそばに行くと、海の方から波の音が聞こえる。
恐る恐る水門から海の方をのぞくと、当然ながら真っ暗で波の音だけがザパーン、ザパーンと響いている。
いつもさくらと一緒に行く公園の方をライトで照らしてみたが、光が反射するものは何もなかった。
ここも真っ暗闇で、妙に湿っぽく、生きている空間ではない感じがして気味が悪かった。
 
 保育園の対面の家を見ると、あった。
もしかしたらこの辺はそんなにやられていないかな?と思い、静○先生(前述の子供の頃に習字を習っていた、うちの母親とも友人の人)の実家の方に行こうとして、ライトでその方向を照らした。
瓦礫の山だった。
多少の瓦礫だったら気をつけながら進んで行くが、見た瞬間息を飲むぐらいの高い瓦礫だった。
破壊された家の残骸が道路に流れ込んで塞いでいる。
たくさんの丸太が瓦礫から見えているし、(というか突き刺さったような感じ)
登ろうとすると崩れそうな感じだったので、登る気にもならなかった。
こんなのに襲われたらひとたまりもない。
 遠回りして行こうと、別の道を通り瓦礫を迂回した。が、こちらも同じ状態だった。
近づく気にもならない程の湿っぽい瓦礫の山。
「静○先生、逃げられて良かったな…」と心から思った。(この時は)

 国道を歩道橋の方へと歩いて行くと、カーブしているあたりに車が数台あった。
(水はまだ溜まっていたが、長靴のおかげでさほど気にしなくても歩ける程度には引いていた。)
津波にバックのまま流されて行った軽自動車のことが気になり、止まっている車を覗き込んだが、
やはり曇っていて中が確認しづらい。
何台か見たが、人が取り残されている様子はなかった。
そこから自分の家に行くようにして神社に戻ろうとしたが、
前方に車が重なるようにして吹きだまっているのが見えたので、
大人しく確実に通れる国道をまた戻った。
 
 今考えると自分が通って来たルート上で、遺体を目にする事は別に不自然な事ではなかったが、この時は“さほど死んだ人はいないはずだ。大部分の人が逃げたはずだし、避難する時間もじゅうぶんあった”
と思っていた。

3月11日(金曜日)15

2012年04月12日 | 東日本大震災
 友人の会社に着くと事務所のドアは破壊されていたが、事務所、車両、友人の親の家はあった。
一見した所被害は軽微に見えたが、結局車両は塩水をかぶって全滅だったようだ。
そこからしばらく離れた友人の自宅へ行くと、玄関の戸のガラスは割れ、
そこから勢い良く水が入ったみたいで、結構津波に荒らされていた。
 
 居る訳がないと思いながらも、大きな声で「おおい、生ぎったぁが?」と声をかけた。
静かなままだったので立ち去ろうとすると、二階から「はぁーい」と女性の声が聞こえた。
友人のお母さんだった。
「なんで居んの?」と声のする二階の窓を照らすと「逃げ遅れて…」という返事が返って来た。
「誰ですか?もしかして○○さん?」と言われたので、
「そうです。他の地区がどんな様子か見に来たんです」と言い、「みんなは大丈夫ですか?」と聞いた。
どうやら友人夫婦は小学校へ避難し、友人のお父さんはわからないという。
事務所と家はどうなったか聞かれたので、無事だと教え、
「避難するんだったら小学校まで一緒に行ぎますよ」と避難を促したが、動きたくないらしい。
もう津波は大丈夫だと思っていたし、どうやらあと1人一緒にいたみたいなので、
それ以上避難を促すのは止めた。
(逃げ遅れて二階の窓から外を見ると、道路に大きな渦巻きが出来、
車や色々なものが巻き込まれたそうだ。私が訪問したので水が引いた事を知ったようだった。)

 友人の家を後にした直後、道路に止まっていた救急車に呼び止められた。
救急車が稼働している事に多少驚いた。
骨折した要救助者がいるということだが、地理がわからず案内して欲しいとのこと。
私もわからなかったが、近くまで行ってそれらしい所を案内してくれるだけでいい、
というので承諾し、私の後をついて来させる。
途中それらしい所で瓦礫をこえて行って大声で叫ぶが、人の気配はない。
 救急車を先導して歩道を走っていると、所々側溝のふたが外れていて、
足を踏み外しそうになるのでその旨を話し、救急車の助手席に飛び乗った。
道路は所々瓦礫があり、自動車で進むのはちょっと困難になって来る。
車内を見回すと、後ろのスペースはギュウギュウだった。
誰も言葉を発せず、疲れ切った様子で静かだった。
「死んだ人はでてるの?」と聞いても誰も反応しない。
後ろを見ながらもう一度、「死んだ人はでてるの?」と聞くと、後ろにいた救急隊員が無言で頷いた。
 
 私の住んでいる藤○は水害には弱いはずだが、今回は違うらしい。
市内の海に面した大部分が、想像以上にもっとひどい事になっていると直感した。
 腹に重いものがどんよりと居座ったような暗い感じに襲われたが、
こういう時は冷酷な気持ちを持ち合わせないとやって行けない、と思った。
 
 救急車が山田線の踏切にさしかかると、踏切はカンカン鳴りっぱなしで降りている。
車外に出て踏切を上げ、出て来た救急隊員に、要救助者のいるかもしれない目的地は、
そこから右に曲がって迂回した所かもしれない旨を話すと、
「とりあえずいったん戻ってみます」と言う事だったので、救急車とは踏切を通してから別れた。
 
 線路を越えると何事もなかったように静かだった。
線路一本隔てて津波はさほど来ていないようだ。
ありきたりだが、ほんの数メートルで天国と地獄ほどの違いがあった。
 出来て間もない老人福祉施設の所まで来ると、暗がりで布団を運ぶ職員の姿を見つけた。
救急車が骨折した人を捜しているが、心当たりがないか聞いたがわからなかった。
 しばらく歩いて、山田線の上を走る道路を下る途中、流されて泥をかぶった車があった。
中をのぞくと窓ガラスが曇っていて様子がわからない。人は乗っていないことは確認出来た。
この場所の海抜はわからないが、ここは結構な高さがあるはずだったので、
津波の勢いは私が目にした以上のものだったらしい。
(後日聞いた話によると、津波は山田線の上を走る道路の坂を駆け上り、
坂の頂上から山田線に向かって滝のように流れたらしい。そしてトンネルの中を藤○方面へと流れ込んだ。
その際この流れに引き込まれ磯○から藤○へ、津波と一緒にトンネルを流された人がいたが、
枯れ枝につかまって震えているのを救助されたそうだ。)
 
 私の勘違いで、さっき救急車が探していたのはこの辺かも知れないと思い、
大声で「誰かいませんかー。骨折した人いないー?」と叫んでみたが、
この世に私だけしか居ないのではないかと思うぐらいシーンとしていた。
もう寒いとは感じなかったが、あたりが妙に湿っぽくて気味が悪かった。

3月11日(金曜日)14

2012年04月11日 | 東日本大震災
 程よい感じのアルコールは入ったが、やはり多少動いてないと寒い。
考えてみれば水に入ったのだから当然だった。
それよりもただじっと火の側にいることが苦痛になって来た。
もう埠頭の方からドーンという爆発音も聞こえてこないし、さくらも丸くなって爆睡している。
何も心配はない。
「ちょっと探検してくっけ。犬お願いね。」と魚屋さんとスーツの兄ちゃんに言い残し、
また被害の様子を確認しに行くことにする。
藤○(現在地)はともかく、他の地区がどういう状況になってるのか知りたかった。
情報が入って来ない。そして何よりも他地区からの助け、もしくは避難して来た人を見ていなかった。
(この時はまだ藤○は被害が大きい方だと思っていた)

 線路に降りて墓地と線路の間の金網フェンスの所に行くと、フェンスは横倒しになっていた。
そのとき道路の向こうに人影が見えて「そっちに行けますか?」と聞かれ、
「登れるよ、フェンスが倒れてっから」と言った時、あり得ない事に気付いた。
本来ならば線路から道路が見える位置ではなかった。
さっき声をかけて湯のみを渡した久○さんの家があるはずだった。
横の方を見ると久○さんの家は、道路の真ん中に流されて道路を塞いでいた。
 
 墓地に沿って国道に出ると、信号機が斜めに倒れて頭に届くぐらいの所にある。
電線が切れて垂れ下がっていたが、映画のように火花を散らす事はなかった。
通る時頭に当たったが、信号はとうに止まっていたので電気は来ていないだろうと思い、気にも留めない。
 墓地の入口の門は塀ごとなくなっており、うちの本家のお墓の手前までポンプ車が突っ込んでいる。
消防団員が数名いたためそこだけ明るく、救助を求める無線がずっと鳴っていていたが、
応答出来ないらしく、また組織だった救助が出来る状態でもなかったみたいで、
消防団員がやむを得ず無線を切った。
 墓地の隣にあったレンタカー事務所のレンタカーはお墓に突入し、
流入した丸太とともに墓石を薙ぎ倒してその上に乗っていた。
バチもへったくれもなく、ただモノが散乱してぐちゃぐちゃだった。

 国道を磯○(地名)方面にちょっと進むと、建物の屋根だけが国道にあった。
ふと国道から海側にあった集落を照らすと、鉄筋コンクリートの建物以外壊滅している。
壊滅と聞いてもよくわからないだろうが、全部瓦礫。
暗闇の中、瓦礫だけがライトにうつし出される。
私もラジオで壊滅という単語は聞いていたが、ピンとくる訳がない。
だが、目の前には壊滅としか言いようのない状況がライトで丸くうつし出される。
「そうか、壊滅以外の何者でもないな」と、壊滅という事は壊滅なんだなと納得した。
 国道の反対の山側は、崖崩れが発生して一車線を土砂が埋めている。
一台の自転車がその土砂に埋もれていた。
 
 そこから先、しばらくは歩きやすかった。
「やはり藤○の方が被害が大きかったか」と思いながら、先日工事を手伝った友人の家まで
見に行こうと決めた。
あたりは何の音もなく、ライトがなければ真っ暗闇だ。
雪は降っていなかったと思うが、寒いくせになんだか湿気が多いようなジメッとした感じだった。
 いつも通る道を普通に進もうと前方を照らすと、二階建ての家が道路の真ん中にうつし出されて
通れそうもない。
唖然として見ていると暗闇の中から人が見えた。
「どこまで行くの?」と聞くと「藤○の中○さんの所まで」と、やはり犬見知りの人の名前を言ったので、「中○さんちは大丈夫。あそこはあまり水が来てない。でも途中がまだ浸水してるから、線路の上から行った方がいい」とアプローチを教え、「この先は行けるの?」と聞くと、
「線路の方に下って行けば、通れることは通れる」と教えてくれた。
 
 線路の方へ進路をとると、白いセダンの自動車が縦に電信柱に引っかかっていた。
よく見れなかったが、ぶら下がっているという感じで、地面には接地していなかった気がする。
非常に印象的だった。
 水の流れが素直だった所は普通に通れるが、モロに対峙してしまった建物、
水が最後まで吹きだまったような所はどこもめちゃくちゃだった。(水はすっかり引いていた)
どうしても通らなければ進めない、瓦礫の低めの所を崩さないように進むと、
建物の残骸や生活用品、ガスボンベ、中には太鼓や便槽までが瓦礫の山を形成していた。
「なんでこんなことになってんのや…」とつぶやきながら進んだ。
目からは自然と涙が出て来た。