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喉元過ぎれば熱さ忘れる

東日本大震災から一年が過ぎました。
記憶が曖昧になる前に、あのとき、私が見た事を記しておこうと思います。

今日の様子

2012年09月19日 | 東日本大震災


今日の国道45号線です。
冠水しました。
去年もそうだったのですが、秋口に冠水します。
大潮と温度の上昇による海水の膨張と、地盤沈下。

私の家の前の側溝もあと30cm弱、水があがると冠水します。

これが私の現実だ

犠牲者数(東日本大震災)

2012年08月23日 | 東日本大震災
宮古市の東日本大震災による「災害対策本部」が8月末で廃止になるそうだ。
こんな資料を見つけたので、ウェブ上で保存しとこうと思います。


     死亡届出者  死亡認定者    合計
宮古地区   63      5      68
鍬ヶ崎地区  48      9      57
千徳地区   11      1      12
磯鶏地区   58      7      65
崎山地区   8      14      22
花輪地区   5       1      6 
津軽石地区  53      4      57
重茂地区   24      24     48
田老地区  136      45     181
新里地区   1       0      1

合計    407      110    517

生前の居住地分けだと思うので(千徳、花輪、新里地区は内陸部で、
浸水地域ではないです。)
どの地点で死亡が確認されたか、行方不明になったかではないみたいです。

年齢別では60代以上が過半数です。
最も犠牲者が少なかった年代は10~19才の2名。

個人的には磯鶏地区の65名という数字は驚愕でした。
私の居住区の隣で当日の夜に私が徘徊した地区ですが、私の居住区との大きな違いは
山や高台までの距離でしかないと思います。

3月12日(土曜日)5

2012年05月11日 | 東日本大震災
 川の方の、さっき会った同級生の親父さんの加工場兼住宅へ行くと、酷い状況になっていた。
周りの木造の建物は跡形もなく、同級生の三階建ての家が防波堤の役割をして全部の瓦礫を
せき止めていた。(鉄骨の三階建て。一階は事務所で壁はぶち抜けていた。)
その横の道路上には、川沿いを覆っている4m弱の高さの防潮堤との間に、
造船所から流れて来た定置網の巻き網船がすっぽりと挟まっている。
この大きな船が家に突っ込まなかったのは不幸中の幸いだったが、
それにしても凄い光景だった。
ここから造船所の方には電柱が一本もない。
恐らくこの船が流されながら薙ぎ倒して行ったのだろう。
 
 側に私を不審者と思ったのか、ずっと張り付いている人がいたので
同級生の家の親父さん以外の安否を聞くと、全員無事らしい。
皆家にいて難を逃れたが(逃げずに三階建ての屋根の上に登ったそう)、
朝、家から脱出する事が出来ずレスキューに救助されたそうだ。
(後日同級生が撮った動画を見せて貰ったが、横の閉○川の水がみるみる引いて
川底が露になっていた)

 同級生の家を背に、海側の方を見ると海が見えた。
そして私の足下から海へ砂浜が続いている…
あるはずの防潮堤がなく、あるはずのアスファルト道路がなく、
ないはずの砂浜と海が見えた。
晴れた空と青い海がもの凄く恐ろしい。
あったはずの防潮堤に近づくと、造船所の前の道路はえぐられ、
見ているうちに少しずつ浸食されて海へと変わって行く。
側に見える海も私の目線より高く感じられて、絶対的に不利な状況が恐くなった。


 その後卵を届けに親達が避難している所に行った。
その時向かいのおばあちゃんに「津軽○はどうなったか?」と聞かれたが
「わからない」とだけ答えた。
それしか言えるわけがない。

 家に戻ってしばらくしてから情報収集のため神社に向かおうとすると、
家の前で名前を呼び止められた。
振り向くとスナックを経営しているいとこだった。
「みんな大丈夫が?家はや??」彼はなんというか、活力に溢れて元気いっぱいに見えた。
現実離れした状況に、ウキウキわくわくテカテカで溢れている。
テンションは夏休み前の終業式を終えたばかりの小学生という感じで、こっちも元気になった。

 家に入り、お互い地震後の話をした。
私の話に彼は興奮しっぱなしだった。いい年なのに…
彼の店は水没したらしいが、被害はそれだけで今は手もつけられないし、どうしようもない。
それよりも来る途中宮○橋を渡ったのだが、橋が50cmぐらいの間隔で落ちていて、
数メートル下の川面が丸見えで、そこを飛び越えるのがおっかなかったという武勇伝?
を興奮気味に話してくれた。
私も嬉しくなり、初めて笑いながらしばらく二人で盛り上がっていたが、
いとこの探検心はマックスに盛り上がっており、他の所も見て来ると言って帰って行った。

3月12日(土曜日)4

2012年04月30日 | 東日本大震災
 神社で山水を汲み、家に戻って犬達にご飯を与えてから玄関周りの片付けをはじめた。
風呂の残り湯をバケツに汲んで、水が無駄にならないように少しずつ泥をかき出した。
玄関内を終えて、改めて駐車スペースや自転車置き場の小屋を見ると、うんざりする。
しかし自分でやらないと誰がやってくれる訳でもないので、
雪かき道具で少しずつ時間をかけて泥をかき出した。
 
 しばらくすると、あれだけ来るなと言ったのに、母親が帰って来た。
食料を取りに来たという。
冷蔵庫にあるもの、野菜、缶詰、お菓子など、手当たり次第持って行くらしい。
「おめさんのは? なんぼか置いてく?」と聞かれたが、
私が食うものぐらいはめぼしいものがあるだろうと思い、
「好きなだけ持って行っていい」と言った。
「卵は忘れないように持ってがねぇば」と言いながら手提げやリュックに
適当に食料をつめ、途中水も汲んで行くというので、
私も親達が避難している家まで運ぶのを手伝った。


 この時だったか、同じ町内に住むいとこが死んだという。
親戚のおばちゃんや親父がしゃべっていた。
「逃げなかったのか…」と思ったが、親戚の一人や二人が死ぬのは想定内だったので、
寧ろ早く遺体が見つかって良かったと思った。
数日後、彼女の家を線路の上から見たら、本人が後片付けをしていた。
いとこの家の敷地内で見つかった遺体が女性で、誰かが勘違いしたらしい。
信用出来ない情報は、もう次の日から飛び交っていた。
特に年寄りの話は信用出来ないものが多かったが、そんな事を
いちいち気にしている状況ではなかった。

 
 戻ってからも一人で延々と泥かき…
しばらくすると、ジャージの女子中学生が
「津軽○川は、死体がいっぱい浮かんでるんだって…」
と連れの大人と話しながら私の前を通り過ぎようとした。
津軽○と言えば、私の親と一緒に避難している向いのおばあさんの娘さんが
嫁いでいる地区だ。
その女子中学生に「津軽○はダメなの?」と聞くと
「赤○と津軽○は何もないそうです。津軽○川には死体が浮いてるって聞きました」
と教えてくれた。
赤○、津軽○がない…
たぶん川を渡った、鮭の孵化場のある側の事だろうと思った。
孵化場の近辺の、ジャズバーをやっている友人は寝ている時間だったはずだ、
と頭をよぎる。
心配になったが、どうする事も出来ない。
 
 めちゃくちゃになった自転車置き場から自転車を出し、
使えそうな事を確認すると雑巾で泥を払い、普通に乗れる状態にした。
(自転車は浮いたのか、あまり泥はついていなかった)
一息つこうと家に入り、何か簡単に口にするものはないか探したが、何もなかった。
あったのは、あれだけ持って行くのを忘れないようにしていた卵だけが、
テーブルの上にぽつんと…
水を口にするぐらいはしたと思うが、何か食べた記憶はない。
犬達も特に何かあった記憶はないので、大人しくしていて、
手間がかかるような事はなかったのだと思う。
卵を親達の所に持って行く前に、避難している親戚の本宅を見に行く事にした。

 この頃にはもう装備は万端にしていたか。
頭には黄色いヘルメット、スキーウェアを着込み長靴を履いて、
さくらの散歩セットを入れていたウエストポーチを身につけていた。
ウエストポーチの中身は、ヘッドライト、カッター、ペンチ、プライヤー、
ニッパー、ドライバー、ビニールテープ、コピー用紙、マッキーのマジック、
マスク、チャック付き収納パック(ハガキサイズ)、柿の種、
500mlの水入りペットボトル、ライター、現金。
それにガムテープをベルト部に通して腰に装着した。
(中身は後に若干増えたかも知れないが、基本的にはこれらで十分だった。)

 国道45号まで行くと、消火栓から水が勢い良く噴き出している。
家庭の水道は止まっているので、これをなんとか利用したいと思ったが、
勢いが強すぎた。
 親戚の本宅の前に来ると、大変な事になっていた。
木造の旧宅が全壊して流れたのだろう、家の前に瓦礫となって積み上がり、
敷地に入る事が出来なくなっていた。
二階の窓に届きそうなくらいの山。
もう完全に人の手ではどうしようもない。
パワーショベルじゃなきゃダメな感じだった。
この場所は、私の家とは国道を挟んで川沿いの地区になるので、
瓦礫の状態が勇壮というか、豪快だった。
道路は流れが速かったのか泥というよりは砂っぽく、
なぜか魚の缶詰が結構落ちていた。

 回り込んで、親戚の家の敷地に入れないか確認しようと別ルートを行くと、
何人かで騒いでいた。
見ると汚水の配水管から水が噴出していて、それを止めようと悪戦苦闘している。
「何したの?」と声をかけると「蓋取ったら水が溢れ出した」と答えたので
「これいじったらダメ。汚水だがら。行政の管轄のマスだがら開けちゃダメ!」
と言いながら、足で蓋を押し込んで捻って蓋が取れないようにしてやった。
「蓋が白いのはいじっちゃダメだよ。」と言うと、恐縮しながら「はい。」
と言っていた。
ふと顔を見ると、近くで魚の加工場をやっている同級生の親父さんだった。
「あ、○○さん、俺です。向こうの○○です。」と言うと気付いてくれた。

(この時噴出していた水は汚水ではなく綺麗な水だった。
水道がストップしている中、綺麗な水が排水管を大量に流れていた事になる。
後々見聞きして気付いたのだが、この辺の加工場では水道代を節約するため
各々井戸を掘っている。
近年は、どこでも掘っていた為水量が激減していたらしいが、
地震を境に急に水量が増したそうだ。
震災後しばらくたっても、壊れたポンプから水が大量に吹き出している光景を
複数箇所で見た。)

 親戚の家の本宅は、近づけそうもないので早々に諦めて川の方に向かった。
木造だった漁箱の製作所は跡形もなくなって砂浜っぽくなっている。
大昔の、幼稚園に入る前に広がっていた、かすかな記憶の砂浜が広がっている。
人間の作ったものは一瞬で本来の自然の姿に戻せる。
誰の仕業かわからないが、逆らえないものの存在に敬服し…と、タバコを見つけた。
封を切っていない。
開けてみると中身も濡れていない。
何年も前にやめていたが、逆らう事の出来ない、見えない存在を感じたばかりだったので
捨てる事はできず、ウエストポーチの重要アイテムとなった…。

3月12日(土曜日)3

2012年04月24日 | 東日本大震災
 来客者が帰って姿見にうつった自分を見ると、酷かった。
顔は青白く、髪の毛はボーボー。
しかし水道をはじめライフラインは全てダメだったので、顔を洗う事も出来ない。
外では徐々に人が動き始める気配がしていた。
とりあえず何かしようと思い玄関を出たが、ドロドロで歩くのもままならない。
何処かの家の残骸だろうか、板の切れ端が結構落ちていたのでそれを広い集め、
泥の上に敷いて家の前から道を作った。
 
 私の家の周りは、水の引くのが遅かったせいか、結構泥があって歩きにくかった。
家から右手の私の車がある方向に丸太が一本あり、それが道を塞いでいる。
その前の家では、玄関と雨避け屋根の支柱の間に車が斜めに挟まっている。
そして私の家の左手の道路上には、お墓の方から流れて来た塔婆が散乱し、
何処かの家の仏壇らしきものもあった。
私は見ていないが、泥に埋まった猫の死体もあったらしい。
塀の上に前輪を乗せて斜めになった自動車、ひっくり返ってガソリンが漏れている軽自動車、
どこからか流れて来た自動販売機…
人力ではどうしようもない状況だ。
 
 とりあえず手を付けられるのは玄関しかなかったので、
風呂の残り湯をバケツにくんで、それで玄関の泥を流した。
水道がまともだったらホースで勢い良く流せばいいだけの作業だったが、結構時間がかかる。
その作業を終えてから、犬達にごはんをあげなきゃと思い、神社に水を汲みに行く準備をした。
 玄関先にあったおにぎりを持って、リュックに空のペットボトルを入れて神社へ向かう。
歩きながらおにぎり(おにぎりと言っても二口ぐらいの大きさ)を口に入れた。
いつ作ったのかわからない、何度か凍ったり解けたりを繰り返したような、
口の中の水分が一気に吸い取られる不快な代物だった。
おまけに泥だらけ。
食い物がない状況で非常に申し訳ないと思ったが、全部泥の上に吐き出した。
後味が非常に不快だったが、一緒に入っていたたくあんが、もの凄くうまくて助かった。

 線路の上を見ると、生活道路の上に迷彩服を着た集団がいるのに気付いた。
自衛隊だった。救助が来た。
太陽に照らされた迷彩色は凄く輝いて見える。非常に元気づけられる光景だった。
 思った以上に早い救助隊だ。これでとにかく一息つけると思った。
生活道路に行くと、遠くの方にも迷彩色の集団が見える。
7~8人の集団ごとに固まって指示待ちというか、被害状況を俯瞰しているようだった。
 
 自衛隊の方に近づいてその中の一人に、
「昨日は寒くて薪がなくて困った。土に埋まっている枕木を掘ったが、
凍っていて少ししか掘り出せない。
今夜も寒いだろうから、今のうちに掘り出したいので手伝ってくれないだろうか」
というような事を言った。
するとその自衛隊員は自分に話しかけているのか?という具合で私を見た。
目が合うとまだ子供で、何がなんだかわからないという感じが滲み出ている。
(恐らく高卒一年目の隊員だったと思う。)
その隊員が無線機を担いだ、ちょっと年上ぐらいの隊員に助けを求めるよう視線を向けたので、
その人にもう一度用件を伝えた。
すると、「私たちは遺体捜索の為に派遣されたので、それ以外では動けません」と言われた。

…遺体捜索? 遺体なんてこの辺にあるのか? みんな逃げる時間はあったし、逃げたはずだ。
死んだ人なんているわけがない。
正直面食らったが、彼らも一番近い駐屯地からわけがわからず、とりあえず出発したのだろう。
みんな装備も持たず無線機以外はほぼ手ぶらで、何の情報もなく
とにかく駆けつけてくれたという感じだった。
(自衛隊員はその場を動く事はなく、道路へ降りるという事はなかった。今にして思えば
津波警報はずっと出ていて、むやみな浸水地域の立ち入りを制限されていたかもしれない。
もう津波後の感覚の私とはズレていた。)
 とりあえず津波後初めて外部から来た人を見た。しかも自衛隊。
忘れられていないことがわかっただけで、大変心強かった。

 神社へ行くとスーツの兄ちゃんが薪を切っていた。
「長野でもおっきな地震があったぁね」と声をかけると、「昨日はうらやましがったのにね。」
と笑っていた。
「まぁだ、木切ってんの?昨日は大変だった?」と聞いたら、
「大変でした。もっと木を切っておかなければ、今晩もっと大変ですよ、
もう燃やすものがない。」と言ったので、
「もう下に自衛隊も来てっから大丈夫だ。
なぁに、燃やすものは下に濡れた材木があるし、あとは残った人間がどうにかするんだ。
もういいよ、逃げられる人は早ぐ脱出した方がいい。
俺は逃げっとこがねぇがらいるしかねぇども。」と言って脱出を促した。
申し訳なさそうな顔をしていたが、それっきり見なかったのでいつの間にか脱出したのだろう。
(スーツの兄ちゃん達、色々お世話になりました。ありがとう。)