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喉元過ぎれば熱さ忘れる

東日本大震災から一年が過ぎました。
記憶が曖昧になる前に、あのとき、私が見た事を記しておこうと思います。

3月11日(金曜日)13

2012年04月10日 | 東日本大震災
 誰ともなく「様子見に行くべ」と言い出したので私もついて行く。
ついて行きながら、〈地震、津波、雪、寒さ、火事…次来る天災はなんだろう?〉と探してみたが、
私の貧困な想像力では思いつかない。
 ライトを持参しているのは私だけだったか。
皆の後をついて、山田線のトンネルの方へ迂回して国道へ出た。
ドーンという音は続いていたが火は見えない。
(空がオレンジ色になっていたのはどこかで見た記憶はある)
 
 消防団員は埠頭の方へと歩いて行ったが、爆発音だけで火が見えないので大丈夫と思い、
家の方へと国道を一人で反対に歩いて行った。
国道の水はすっかり引いていて、たまに自動車はあったが瓦礫もなく歩きやすい。
が、国道から市道へ入ると太く長い丸太が横たわっている。
それと津波の流れが速かった道路は泥もなく濡れているだけだったが、ちょっとでも遅くなったと
思われる所はドロドロで、長靴がとられるぐらいだった。
 
 家に近づくと、道路はまだ水に浸かっていた。
なんとか長靴が浸水しない所まで行こうと進むと、私の車を発見した。
きちんと路側に寄った感じで瓦礫に埋もれる事なく、見た目大丈夫そうだったが、
アンテナが伸びきっており、電気がショートしたのは明らかだった。
 水の深さは長靴ギリギリになったが、家はもうすぐだったので強行突破した。
幸い水が長靴に侵入する事はなかった。
玄関を開けると一度戻った時とは違い、泥が溜まっていた。
 
 家に上がろうとすると、私が戻った時に脱いだ衣服のそばに、
なぜか女性もののビショビショに濡れた衣服が脱ぎ捨ててある事に気付いた。
二人分の衣服で、一着は大きめのビョウがついたローライズのジーンズ。
それらが玄関の上がり口の所に脱ぎ捨ててある。
なんで?と思ったが、人のいる気配はない。
不思議だったが非常時なのでそんなことは気にしてもしょうがない。
 家に入ってヘッドライトで部屋を照らしながら、とりあえず何か食べるものを探した。
不二家のミルキーを二箱発見。と、いいものがライトにうつし出された。
神棚に供えてあった一升瓶が地震の揺れに耐えて無事だったのだ。
これがあれば多少は寒さも凌げるはずだ。とりあえずそれらを持って玄関を出た。

 一升瓶を抱えて濡れないように神社へ引き返し、そのまま集会所の中へ入った。
炊事場では蝋燭の灯りを便りに何かしている女性がいたので、
「すいません、外の人達寒いんで、酒持って来たんで湯のみ茶碗か何かありますかね?」
と声をかけると準備してくれた。
広間の中で子供の声が聞こえていたので、「ミルキー持って来たんで子供達に分けて下さい」
と手渡すと広間から「ライト持ってる人、ストーブの火が消えたからつけてちょうだい」と呼ばれた。
 広間の中に入ろうとすると、足の踏み場もない。
まるで養鶏場のような密集具合と喧噪だった。
「火が消えたストーブはどこですか?」と大きめの声を上げ、「通ります」と言いながら進んだ。
ストーブは年代物で危なそうだったが、手こずりながら火をつけた。

 外へ出ると後から女性がお盆に湯のみを乗っけて来てくれた。
「酒持って来たんで、寒い人、持病のない人、自己責任でどうぞ」と声をかけて回ったが、
最初は皆遠慮していた。
スーツ二人組と堤防の釣り見知りの人達が手を出すと、徐々に湯のみを取りに来る人が増えた。
 いちばん人の集っているドラム缶の所で、犬見知りの久○さんがいたので酒を勧めると、
ちょっといつもと違う雰囲気だったが「寒いから、自己責任で」と言って湯のみを手に取らせた。
 最後に少々余ったので、数人がおかわりをしてすぐに空になった。
空きっ腹に結構効いたがまだ寒いので、もう一本あった方が良かったなとも思ったが、
取りに行くのも面倒くさい。
皆で火を囲んでしばらく電波の悪いラジオを聞いていた。

3月11日(金曜日)12

2012年04月07日 | 東日本大震災
 物置きから持って来たテーブルを、各ドラム缶の所に「これに交代交代座るようにして下さい」
と声をかけて置いて回ると、どこも燃やすものが十分でなさそうだった。
「何か燃やせるものはねぇのかよ?」とつぶやくと、スーツの兄ちゃんが
「下の線路の横の方に枕木が積んでありましたよ」と教えてくれた。
そう言えば長い間放ってある、古い枕木が積んであったような気がする。
 四人で枕木を取りに降りて行く途中、スーツの兄ちゃんの一人は二戸出身で、
もう一人は長野の飯田出身ということがわかった。
「飯田と言うと飯田高校? 俺、予備校時代に友達がいたんだよね」と言うと、
彼も飯田高校出身らしかった。
 
 枯れ草に埋もれている枕木を掘り出しながら、
「今頃長野では温かい所でテレビでも見てんだよねぇ…」と言うと、
長野の兄ちゃんが「何だったら風呂入ってビール飲んで、暖かい布団で寝てるぐらいですよ」
と言ったので、みんなで苦笑いした。
この時は長野とか、地震も津波もない所が非常にうらやましく感じられた。
 
 枕木は2本持ってくる事が出来た。
もっと持ってきたかったが、土が凍っていてそれ以上は素手では掘り出す事が出来なかったのだ。
凍った土にぶち当たったとき、どれほど過酷にしてくれんだよ、と頭に来た。
 境内まで枕木を運ぶと、神社の物置きにあったノコギリで二等分にした。
何年も使ってないような、全く切れない恐ろしくサビついたノコギリで苦労したが、
私ら四人以外の人も切るのを手伝ってくれた気がする。
 
 今まで燃やしたどんな木よりも、枕木は火持ちしそうで、しばらくは大丈夫そうだった。
しかし雪は相変わらずの本降りで、火の側から離れると、絶えず動いていないと寒くてしんどい。
火の側でモモちゃんのリードを持って座っている、魚屋さんのおばあちゃんにさくらのリードを頼んで、
下の様子を見に行く事にした。
 
 下の生活道路へ行くと、神社の鳥居の所で消防団が何人かたむろしている。
暗くてよくわからなかったが、雰囲気が重い。
すると海の方で、ドーン、ドーンと断続的に何かが爆発するような音が聞こえているのに気付いた。
「あれは何の音だべ?」と消防団に聞くと、
「埠頭の寄せ集ったトラックなんかが爆発する音だ」と答えた。
 
 そういえばまだ明るいうちに、埠頭へと物資を運ぶトラックやらローリーやらが、
津波の上をサーフィンしたという話を聞いていた。
そういう化学物資を積んだローリーやトラックが、吹きだまりのように一塊になっていて、
それらから漏れ出したものが引火して爆発しているらしい…
「大丈夫だべか?」と聞くと
「火の粉が枯れ草に引火すると家の方さ来る可能性もある。そうなったら何も出来ない。おしまいだ…」
頼みの綱のポンプ車は、津波に押し流されて墓地に突入して使えない。
水道も電気もない。消す術は何もない。助けも来ないだろう。
その火がもしかして線路を越えるような事があれば…
 
 今まで感じた事もない、何とも言い表せない絶望的な気分になった。

3月11日(金曜日)11

2012年04月06日 | 東日本大震災
 神社の境内には、社務所というか集会所みたいな平屋の建物がある。
その中は二十畳弱ぐらいの広間と炊事場があり、広間はとうの昔に避難者でギュウギュウで、覗いてみる気にもならない。
その中で色々と世話をしている女性が、外の私たちの所に来てカップラーメンを差し出してくれた。
 が、お盆に乗っかったカップラーメンは三つほど…。(それしかないらしかった)
見た瞬間、私は違う焚き火の確認をするフリをして遠ざかった。
犬の食べ物の心配はしたが、自分たちの食べ物は皆無だという事に気付いた。
でも市内では水害のひどい地域はこの藤○(地名)のはずだ。
鍬ヶ○(地名)は防潮堤がないからダメにしても、藤○がこの程度ならば他の地域は同程度か、そんなにやられているわけがない。
火災が発生したなら別だが、幸い市内では火災の発生は聞いていない。
朝まで我慢すれば食い物なんてどうにかなる。
この時はまだそう思っていた。
(カップラーメンはスーツ二人組が食べていました)

 しばらくすると薪が心細い感じになって来たので、何か燃やせるものはないかとヘッドライトで探ると、賽銭箱のある建物の上のしめ縄がライトに映った。
「あれ燃やすか」と取り外しに掛かると、20代ぐらいの若者が手伝ってくれた。
「ま、子供のときから知ってるから神様も許してくれるべ。罰は言い出しっぺに当たるから気にすんな。」と言いながら外していると、「それ何すんのや?」と60才過ぎぐらいの男性に聞かれた。
「いざとなったら燃やすべぇと思って」と言うと「それはしめ直したばっかだがら燃やすな」と怒られた。知らない人だった。
燃やす気満々だったのでちょっと残念だった。(後日元に戻しておきました)
  
 みんな立ちっぱなしで、正直これ以上立ったままでいると、しんどい。
年寄り達はもっとだろう。何か座るものが欲しくなってくる。それと燃やせるものも…とひらめいた。
数十段の石段を上った高い所にある、ご神体が入っているお堂の下に、お祭りの時に使うテーブルみたいなものがあったはずだ。
しめ縄を外す時手伝ってくれた若者と取りに行きながら「あと二人来て」と言うと、スーツの兄ちゃん達が来てくれた。
 お堂の下は物置きになっており、扉に鍵がかかっている。
誰かが「鍵だ、ダメだ。」と言ったが、「いいの、いいの。罰は俺が当だっから」と言って無理矢理開けた。(と言っても大層な鍵ではない)
 この時スーツの兄ちゃんのどっちかが「さっき怒られたんですか?」と聞いて来たので「世の中には金閣寺燃やそうとした人間がいたぐらいなのにな。これらも(物置きに置かれたもの)燃やす時が来たら燃やすしかねぇべな。」と言った。
 中から使えそうなものを取り出して階段を下りようとしたとき、でかい余震が来て下の境内から悲鳴が聞こえる。そして雪が本降りになっているのに気付いた。
“天は我々を見放した”
これからどうなるんだろうと、もの凄く心細くなった。

3月11日(金曜日)10

2012年04月05日 | 東日本大震災
 線路の上の生活道路は、町内にある事業所などからの人もいたせいか、避難者でいっぱいだった。
さくらを探してウロウロしていると、缶詰工場で働いている知り合いに会った。
私の顔を見るなり無事だったのか、というような笑顔になり、「鉄橋がないっけ…」と教えてくれた。
鉄橋…山田線の鉄橋がない!?「マジで…」絶句した。
太平洋戦争で米軍の空襲にも耐えた鉄橋が落ちてしまったようだ。
「犬、見なかった?足が短い変な犬?」と聞いたが見なかったらしい。スキーウェアのポケットに突っ込んでいた缶コーヒーを渡して別れた。

 家族が避難すると言っていた山の方の知り合いの家に近づくと、さくらの吠える声が聞こえた。
普段家の中にばかりいるせいで、他人の家でも中に入れないのが不満らしく吠えまくっている。
さくらを連れて行く旨を言い残して、親父、母親と別行動にする。
一気に肩の荷が降りて気が楽になった。
 
 さくらと一緒に神社に戻ると、さっきより避難者は増えている。
皆、携帯で連絡を取ろうとしているようだったが、無駄のようだった。
 まだ明るいうちに、避難していた他の犬達も集め、持ってきたドッグフードを食べさせた。
しかしさくら以外の犬は、普段自分が食べているフードと違う為か食が進まないようだった。
 
 神社の境内では、二カ所で半分に切ったドラム缶でたき火をしていた。
避難している人数に見合った火の数ではないため、もう一個ドラム缶を見つけて火を焚く事にした。
辺りは徐々に暗くなってきたので急いだが、年寄りが多いのと皆疲れているせいか一緒に動いてくれる人はいない。
 燃やす木もないみたいだったので、前年の大雪で倒れて切ってあった桜の生木を燃やす事にする。
結構な重さの桜の切り株を運んでいると、手伝ってくれる人が出て来た。
 その中に二人のスーツを着た見覚えのある人がいた。
保育園の所の水門付近にいた、スーツ姿の兄ちゃん達だった。
「保育園の所にいた人だよね。ホラ、俺逃げろって言ったじゃん」と言うとすぐに思い出し、一緒に桜の木を運んでくれた。
 
 すっかり暗くなる前に、どうにか境内に3カ所目のドラム缶の焚き火が出来、一息ついて辺りを見回すと、いつも防波堤で釣りをしている顔見知りの年寄り達が結構いた。
魚屋さんのおばあちゃんもコーギーのモモちゃんと一緒に、3カ所目のドラム缶のそばに来た。
 魚屋さんは家族皆と連絡がとれずにいたが、息子夫婦は海から遠い所で勤務しているし、孫達は学校で避難しているだろうから大丈夫らしかった。
 
 何時になったのか時間は全くわからなかったが、辺りは暗くなり寒さも増して来た。
さくらはドラム缶の近くの火の粉が飛んで来ない発泡スチロールの上で、丸くなって寝ていた。
まだ余震は続いており、皆疲れて来ているせいか火のそばに自分の居場所を確保してジッとしている。
 スーツの兄ちゃんがワンセグで得た情報を教えてくれた。
震源はどうやら宮城県沖らしいこと、首都圏でも被害は甚大らしいこと、千葉のコンビナートが爆発炎上したこと…
「この辺の情報は?津波の事はやってないの?」と聞くと「テレビは千葉の火事ばっかなんですよ」と携帯を見せてくれた。
見ると、千葉の石油コンビナートが大炎上している映像だった。
こんなの映してるようならこの辺はすっかり見放されたな、と思った。
 
 
 私は家から携帯ラジオを持って来ていたので、田老、山田、大槌が壊滅的な被害で火災が発生している状況は知っていた。それと盛岡のデパートの地下が大爆発して死傷者が出ている事と、どっかがどっかの国を爆撃しているという情報もラジオでやっていたと思う。(多国籍軍がリビアを爆撃)
「こっちがくそ困ってんのに何馬鹿な事してんのや!爆撃してる暇あったら助けに来い」と、もの凄く腹が立った。
 ラジオもそのうち電波状況が悪くなったのか、まともに受信出来るのが中国語の放送だけになったので、なんでこんな時に…と落胆した。

3月11日(金曜日)9

2012年04月03日 | 東日本大震災
 衣装ケースを抱えパンツ一丁で生活道路の上に上がると、さくらを預けていた男性が
「あんまり遅いから心配してだったぁ」と言って近づいて来た。
バスタオルで体を拭き乾いたパンツにはきかえるが、あまりの寒さでガクガク震え、
思うように着替えが出来ない。
 いつの間にか肩でゼェゼェと息をすることはなくなっていた。
よう壁をよじ登る時切ったのだろう、右太もものあたりがざっくりと切れて、血が出ている。
そのままバスタオルにくるまって小さくなっていると、隣の家のおばあさんが、「裸で水の中をどこの誰が来んのかと思って見でだったぁ」と声をかけてきたが、震えて頷く事しか出来なかった。
 
 ゆっくり着替えていると、通りかかった顔見知りの消防団員が「お、家に戻ってきたな。神社に濡れてるのがいるから着るもの貸してけろ」と言ったので「俺の着る分だけ残してって」と言い、スキーウエアとトレーナーぽいのを置いて衣装ケースごと持って行ってしまった。
 着替えを終えてソックスがないのに気付き、長靴に履き替え、さくらを抱いて神社に取りに行くと、決して広くはない境内には結構な人数がいた。百人ぐらいはいただろうか。
 衣装ケースを見つけてふたを開けると、見事にない。あるのは親父の薬を入れたリュックとヘッドライトとラジオだけ…。ある程度の着るものは考慮して余分に持ってきたが、ソックスと携帯カイロ20コぐらい入っていた袋がなくなっていたのはショックだった。

 親父と母親に合流出来たので薬の入ったリュックを渡し、境内をウロウロしながら近所の人達と無事を確認しあっていた。
もしかしたら津波が俯瞰出来るかもと思い、もっと高い所にある、ご神体が入っているお堂のところへ行き、そこから海の様子を見ようとしたが、津波の様子はわからなかった。
(既に津波らしい津波はおさまっていたと思う)
 ふと、「○子先生大丈夫だったべか」(前述の子供の頃に習字を習っていた、うちの母親とも友人の人)と母親に言うと、近くにいた人が「弟さんがお母さんと一緒に車に乗せて逃げでった。大丈夫だ。俺は隣の人間だから」と声をかけてきたので安堵した。
 誰ともなく「すげぇ津波だったがねぇ。」という会話になり、正面の道路からの水の勢いが凄かった状況をしゃべっていると、塀に寄り添って海の方を見ていた人が「水門が閉まってなかったのす」と言った。私が「俺、海見に行ったけど水門閉めてるのを見だよ」と言うと「人一人通れるぐらい開いてだったのす。俺の家は保育園の前で、あそっから水が来たのを台所から見て走って逃げたでばぁ…」どうやら保育園の所の水門は完全には閉じられなかったようだった。

 私が家に戻っている間に、親父と母親と向かいの一人暮らしのおばあさんは、山の方の知り合いの家に避難させてもらえるよう、話をつけたみたいだった。
 いつの間にかさくら含む家族とはぐれてしまい、生活道路の上を被害状況を見ながらウロウロしていた。
近所の人や顔見知りを見つけると無事を確認し合い、確認がとれない人の家族は避難先と無事を知らせ合うよう、声をかけあっていた。
途中で、防潮堤の上から見た、海側の路側を川の方へ歩いて行った高校生のお母さんに会った。
(犬見知りの人)
泣きそうになりながら「津波見に行くって行ったきり連絡が取れないの…」と言っていたので、目撃した旨を話し「川の方に曲がって行ったから、高校生ぐらいだったら逃げられるから大丈夫」と励ました。
(その後聞いた話だと、津波が来たので国道の歩道橋の上でやりすごしたそうだ)
 
 年寄りが多い為か、薬を持って来なかったという人が結構いたが、とってこようか?と聞くとさすがにお願いする人はいなかった。
 
 国道45号線から垂直に走る道路上は、どこも自動車や瓦礫の吹きだまりになっていた。佐川急便のトラックがあったのを見て、中の荷物はどーすんの?と思った印象がある。
 逃げ遅れた人もいたみたいで、周りが海となってしまったブロック塀の上で、しゃがんでじっとしている人もいた。
あまり命の危険もなさそうだし、若そうだし、いざとなったら濡れればいいだけだし、あーあという感じで、そのままそこにいれば濡れなくて済むよ、というようなのんびりした感じの印象しかない。
(周りは相変わらずの黒い海で、水に浮いた車のクラクションがあちこちで鳴っていたが、この時点で既に私の中では“津波襲来後”になっていたのだと思う)