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喉元過ぎれば熱さ忘れる

東日本大震災から一年が過ぎました。
記憶が曖昧になる前に、あのとき、私が見た事を記しておこうと思います。

5年目の3月11日

2016年03月11日 | 東日本大震災
今日津波の日から5年目の3月11日。

5年もたったという実感はない。
今の生活はあの日から始まっているからだ。

今日の仕事も復旧関係工事。

テレビではあの日の映像が映し出されるが、見ると
腹の底が重くなる。


あの日の今、午後7時。
1回目の「あ、オレ、死ぬかも…」ってのを乗り越えて、
寒さに震えながら避難した神社でドラム缶を囲み、
何か燃える物はないかとあちこち探しまくっていた。

海の方から聞こえる断続的な爆発音に
「なるようにしかならない…」と絶望を味わった時間だ。

今思えば物凄い体験だった。

津波で翻弄された紙幣の残骸

2014年11月29日 | 東日本大震災
さっき灯油保管庫の扉に引っかかってるのを発見した。



たぶん、津波の時の千円札…
どっからどー来たもんだか……


津波の後、半年ぐらいの間では、小銭、紙幣など
たまに発見する事があった。

すっかり跡形もなくなった友達の家には、変色した
小銭が基礎の上に乗っけられてたりもしてた。
たぶん片付けてた人が、持ち主の見当を付けて置いてって
くれたんだろうが、持ち主は津波でいなくなっちゃったんで、
津波の記念として友達の甥っ子に持たせてやった。


紙幣は色落ちしない。
今回見つけた千円札は、だいぶ年数も経ってるせいか
結構ボロボロだが、津波後さくらの散歩中に発見した
紙幣は、銀行に行けば取り替えてくれるんじゃ?ってぐらい
の原型は留めてた。


紙幣を開くと、津波後、おれのPC2台を動作不良でお釈迦にして
くれやがった、超微粒子の泥の乾燥したのがパラパラ落ちてくる。


このお札見てたら、津波の一月後ぐらいだったか、
みんなが大ざっぱな後片付けがすんでちょっと一息ついた頃、
道路の側溝の泥さらいを一人でやってた時を思い出した。

もうみんな泥さらいをするのはいい加減嫌になってた頃なんで、
「俺もしねぇばなんなぐなるがら、あんまやんなぁ…」
とか通る人に言われてたんで、
「こないだ泥さらいしてたっけば、10万入った封筒が出て
きたんだでばぁ!」
って言ってやってた(笑

みんな100%本気にした(笑

当時は、札束が落ちてた話や拾った話なんかが、休憩の時の
世間話で珍しくなかったから。。。

もちろん10万の封筒なんて嘘の話だが、側溝の掃除を
やる気にさせるには、一番手っ取り早い焚き付け方法だった(笑

遺体捜索1

2013年03月08日 | 東日本大震災
遺体安置所からの帰り、疲れてはいたが、行方不明となってしまった○子先生
(死んでしまったおばあちゃんの娘)の家に寄った。

後で時系列に沿った形で書くと思うが、彼女の家には津波後ついでで何回か通っている。

玄関には誰かが貼った紙に心配している旨と連絡を請う内容の走り書きが書いてある。
最新の情報(おばあちゃんの死亡と○子先生の行方不明)は書かれていない。
私は仕入れたばかりの情報を事実のまま書いた。

すると塀を挟んだ隣の家に人の気配がした。
声をかけるとそこの家の奥さんが脚立に乗って顔を出した。

○子先生の行方不明とおばあちゃんの死亡を伝えると、
「○子さんには近所の人がスーパーで会って、無事だと思っていた…」と言って
泣いた。
私も話している途中、泣いてしまって何度か声をつまらせた。

「旦那さんはどこにいったかわかりませんか?」
「津波の後二日ぐらいしてからリュックを背負って一人でどこかへ行ってしまった。
一緒に避難所に行こうと誘ったんだけど…いるとしたらお寺か宮古小学校だと思う」
「もし旦那さんが帰ってきたら伝えて下さい。詳しい事は書いておきますんで…」

○子先生の旦那さんは病気だった。確かパーキンソン病。
お子さんもいないので、一人での行動は厳しい…


○子先生の家を出ると、通りを挟んだ釣り具屋の店先に同級生の弟がいた。
友人の釣具屋の片づけを手伝っていた。
無事を確認し合い、近くの共通の友人の安否を聞くと、親父さんが行方不明らしい。
釣具屋の息子さんが出てきたので、近くの同級生の家の家族の安否を聞くと
「あっちは近付けない状況でわからない。近所の安否は大体わかってきたんだけど…」
ということだったので、同級生の家へ行ってみる事にした。

その同級生の家には前の日だったか、違う道から行こうとしたが、積みあがったがれきに
邪魔され断念していた。
今度は別の道から行ったが、道路の真ん中に漁船がある…
漁船のキールからの曲線のへこみをくぐり分団の方へ行くと、見なれた車が分断のシャッターに
突っ込んでいた。
前述の、親父さんが行方不明になってしまった友人の車だった。

新車で買い、大切に乗り、少しでも車内に埃がたまると割り箸に布を巻いて隅まで掃除して
大事にしていた車…
「アララ…ダメだコリャ…」という感じだった。

眼科医院の所までは行けたが、無茶苦茶に破壊された家や車、船やその他何がなんだかわからない
がれきの山に阻まれて、同級生の家にはたどり着けなかった。
同級生は盛岡に在住で、親父さんとお袋さんがいるはずだった。
だが津波の後2~3日たって安否が「わからない」というパターンはダメな確率が高かったので、
もしかしたらダメだ。誰も捜索しているはずがない。早く同級生をこっちに呼ばなければ、と思った。

家に着いて母親に○子先生の行方不明とおばあちゃんの死を教えた。

遺体安置所

2013年03月06日 | 東日本大震災
今朝、仕事に行く前に「遺体 明日への十日間」
という映画の紹介をテレビでやっていた。

ちらっとしか見てはいないが、津波の時の釜石の遺体安置所
に関する映画らしい。
主演は西田敏行。



このことは去年書いていたように、時系列に沿った形で書こうと思ったが、
書きたい時に書いておこうと思う。


津波後、月曜か火曜。
知人を探しに自転車で遺体安置所に向かった。
遺体安置所は図書館の裏手にある小さな体育館で、高校の時の部活で
たびたび使用した事のある所だった。

駐車場には車の台数は数台しかなかった。
まだ届けられる遺体の数が少なかったのと、車自体が流されて数が少なく
なっていたためだと思う。

体育館の玄関を入ると、同じ町内の、漁師さんの飯場で何度か会った事のある
大工さんとその奥さんが椅子に座っていた。
通常なら挨拶するのだが、旦那さんは宙を見つめて全く動かず、その横の奥さんは
号泣していた。
「誰かが駄目だったんだな」と直感しただけで、見ないようにした。

体育館に入ってすぐ左側の長机の上に名簿らしきものがあり、そこに警察官が
何人かいた。

「藤○三丁目(町の名前)の○○さんのおばあちゃんご遺体はありますか?」
一人の警察官が名簿から探してくれようとした時、別の所にいた警察官が
「さっき弟さんが来て遺体を確認して行った」と教えてくれた。

「その娘さんのご遺体はありますか?」
「娘さんはまだ行方不明です」
「弟さんが来たということは、誰かが動いて探してるんですね?」
「弟さんはけがをしてるので探しているかはわからない。もしかしたらお嫁さんが
探しているかもしれないが、ちょっとわからない」

ここのおばあちゃんは明日にでも100才になろうかという年齢で、まだ津波の
水が引けない時には無事逃げたという情報があったため安心していた所、どうも
行方不明らしいということで、私はその確認に遺体安置所まで来たのだった。
それでもってここの弟さんという人は、津波に飲まれて怪我をしているという情報
は入っていたので、誰も捜索していないのではないか?とうちの母親が心配していた。

遺体安置所に来て、その家のおばあちゃんは死に、娘さん(書道の先生)は
行方不明という事実は確認できた。


体育館を出る時、なるべく見ないようにしていたがやはり目に入ってしまった。
ブルーシートがしかれた床の上に、ぽつぽつとブルーシートに包まれた人がたがあり、
そのうちの何か所かで、遺体を確認している人たちがいた。
「ブルーシートしかないのかよ…」と思った。


体育館を出ると、その数日間の疲れと自分の体から発する臭いとが、体育館の近隣の
津波の被害を全く受けていない家並みに凄くミスマッチで、不公平に感じた。

図書館のそばを通った時、軽トラとすれ違った。
軽トラの荷台には三人ぐらいの人が乗っており、布団が風でなびくのが見えた。
体育館近隣の住民らしき人は、その遺体を乗せたであろう軽トラを憐れむような
表情で立ち止まって見ていたが、そんな表情も軽いというか、平和に見えた。

その時は、ただただ疲れていた。

全米が泣いた 。・゜・(*ノД`*)・゜・。

2013年02月27日 | 東日本大震災
津波ん時の話。


うちで土地貸してる人ん家で外飼いの犬飼ってた。

地震がきて、家の人は職場から急いで帰ってきて、重要なものを
取ってきてから、外にいる犬に
「どこでもいいから逃げろ」
と言って、繋いであったリードを首輪から外した。

犬はどっかに走って行った。
一旦は…


津波が引いて間もなく、そこの家の人が飼い犬が死んでいるのを
発見した。
見つかった場所は、隣の家の敷地内…


隣の家にはやはり犬がおり、そこの家の犬は鎖に繋がれたまま
死んでいた。
そしてその近くに、逃げたはずの犬も泥にまみれて死んでいたそうだ。


この話書くのに2年かかった…