My favorite things 2024

不定期でジャンルもバラバラです。 お気軽に寄って見て下さい、 

芝増上寺ー東京の中の江戸

2005-04-23 11:38:07 | 江戸由縁東京旧聞
芝の増上寺は上野の寛永寺と並んで江戸時代の徳川将軍家の菩提
寺です。日光に眠る神君家康と家光を除いて他の歴代の将軍たちは
ふたつのうちどちらかの菩提寺に埋葬されてきました。

増上寺の歴史は古く家康が江戸に来る前からありましたが、一方の寛永
寺は天海僧正が寛永時代に比叡山延暦寺を参考にして1625年ごろに
創建したもので、その時の年号がそのまま寺名として使われていますが
東の比叡山ということにし東叡山という山号になっています。

増上寺の徳川家の霊廟は広大な敷地だったらしく、現在のプリンスホテル
あたりまですっぽり入るほどでその広さは約6万平方メートルもあったの
だとか。
 
ここには二代秀忠、六代家宣、七代家継、九代家重、十二代家慶、十四代
家茂らの歴代の将軍が眠っていました。眠っていましたと過去形にした
のは、増上寺も昭和20年の空襲で建造物のほとんどが燃え落ちてしまい、
戦後の変動やら復興のためその土地の大半が人手に渡り、将軍たちの墓も
移される羽目になってしまったからです。

現在ある位置への改葬ということで昭和33年にとりおこなわれました。
この際に将軍たちの墓を開けることになるので当時の東大の人類学の鈴木
教授らが立会って人骨の調査が行われたのです。

このとき驚くべきことがおきたのでした。ここからは昭和55年発行の
角川選書114長谷章久の「東京の中の江戸」から引用させてもらいます。
 
「それは家慶(十二代)の宝塔から、遺体をおさめた棺がかつぎだされた
ときのことである。白日のもとで銅棺のうちに収められた木棺の蓋がはら
われた際、中の死骸は死の直後とほとんど変わらぬ様相だった。といっ
も、遺体が人工的なミイラになっていたわけではない。
当時非常に高価だった朱肉を腐敗防止のために死体の周囲にぎっしりつめ
てあったから保存がよかったのである。
何十キロもの朱肉の重さで、死体は背中を押され、うつ伏し気味だった。
それを引き起こして染まった朱を落としてみると、顔の肌の色は昨日息を
引き取った人のそれのよう。おかげで瓜ざね顔で鼻の高い「大名顔」と
いうべき高貴な面貌や、華奢な骨格まで観察にことを欠かさなかったの
である。だが外気に触れて、ものの30分もたったかと思われるころ、
乾燥しだした皮膚はにわかに裂け目を生じ、鉋屑のようにくるくると
はがれだしたではないか。こうしたことを記すのは死者を冒涜するよう
で情においてしのびないし、また後裔の方々に申し訳ないとは思うけれど、
逆にかつての将軍の勢威が、幕府の末期におよんでなお相当のものだった
ことを示す良い例として、あえて書かせていただいた。
家慶は六十一才で世を去ったのだから、当時としては長生きの部類に
属している。だが、その歯はまことに若若しく、虫歯など見ようと
しても見られなかった。これが長生きの原因かも知れない。」 

途中をとばして、

「家慶の場合よりも、もっと完全な姿で再び陽の目を見たのが六代
家宣である。彼の死体は二重の銅棺に束帯姿で収まっていたのだが、
なんら人手をわずらわせずに天然のミイラすなわち屍蝋と化していた
。死体がカルシウムやマグネシウム分の多い水や湿地の中に長時間
おかれたとき、体内の脂肪が分解して脂肪酸となり、水中のカルシウム、
マグネシウムと結合して鹸化し腐敗をまぬがれて蝋人形のようになった
ものである。」

中国などで何千年前の貴婦人の墓が見つかり、中から死後直後の
ような遺体が発見された、などということが伝えられたことがあり
ましたが、それと良く似たことがこの東京でもあったのですねえ。
ちょっとびっくりです。

このときの調査の報告書を今探していて来週中にはなんとかその内容を
ご報告できるかも知れません。

楽しみにしていて下さい。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 太田南畝集 | トップ | 上野逍遥ー東京の中の江戸その2 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿