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ラテントピック一語一絵 その37

2023-04-01 08:29:25 | ラテントピック・一語一絵
Dona Ivone Lara

1921-2018

ドナ・イボンニ・ララ

ブラジル人歌手・作曲家。

リオ・デ・ジャネイロのボタフォゴ生まれ。
1921年4月13日生まれだが、1922年4月23日
生まれとも言われている。日本なら大正10、11
年で関東大震災のあった年より前の生まれだ。
僕の母親の弟、叔父さんと同じ頃の生まれか
と思うと何だか身近に感じる。

母親は歌い手で、父親は自転車の修理工の
ような仕事をしていたが、プロコのバイオリン
弾きだったらしい。音楽に溢れた環境だった。

父親の死後、3才の時に母親とティジューカに移る。 
母親の死後は、トロンボーンやカバキーニョを弾き
ショーログループのベーリァ・グアルダだった叔父 
のDionísio 一家に育てられ、自らもカバキーニョを
学ぶ。  

看護学校に通いソーシャルワーカーとして働くよう 
になるが、音楽との接点は多くエスコーラのエンヘ
-ドにも参加して作曲も多い。特にインペリオ・セラ
-ノとの関係が深い。1990年のパレードにも出ている 
が何とインペリオ・セラーノの創設時にも参加して
いると言うから驚く。

1940年あたりからパレードやエンヘードにも関わっ
ているし若くして音楽才能を発揮していて作曲の才を 
示している。

最初の結婚でAlfredo とOdirと言う男子を設けて
いる。

有名な曲は沢山あって上げきれないが、Tié Tié とか
Alvorecer, Sonho Meuとか名曲が多く歌に存在
感がある。いまだに他のMPB歌手に支持されている
曲だ。

ブラジルのジャーナリストであるLucas Nobileが
"Dona Ivone Lara-A primeira Dama do Samba"
と言うバイオグラフィーを出版しているが、それに
よるとイボンニ・ララが音楽の仕事に本格的に専念
したのは37年間の看護職を辞めてからだったと  
している。満を持して音楽シーンに入って行ったと
言うことだろう。

確かに1970年代はイボンニ・ララの人気が高まっ
ていた時期でもあるし、これほど大衆に親しまれた 
歌手もそうはいない。

Dama do Sambaを「サンバの女主人」とそのままに
訳されていることを見かけるけどどうもしっくり来ない。
もっと良い訳があるかも知れない。

イボンニ・ララに限らず若い時の顔と高齢になった時
のそれとは大きな差が出てどう描くか悩む。いつも
煩わしい。特にラテン系の女性は若い時はスリムでも
高齢になると凄い太り方をする人が多い。

アルシオーネは太り過ぎで体調が悪くなりダイエットを
したと自分で述べていたが、確かにアゴなど三重になり 
元々凄い迫力が更に増していたくらいだった。来日した
時にすぐそばで見たが既に存在感があったね。

顔の変化の大きな人は上手く描くのが難しい。まず最初に 
顔ありき、だから顔を描くことが上手く行かないと文章が
ついて行かないし、描く方の歌手への思い入れもあるし
顔の若い時にするか、歳を取って味わいの出た顔にするか
悩むところだよ。

まあまあ似てる顔になったかな。

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