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ラテントピック一語一絵 その38

2023-05-01 05:41:29 | ラテントピック・一語一絵
Arsenio Rodriguez

アルセニオ ロドリゲス

1911-1970

キューバ人。トレスギター、パーカショニスト、
バンドリーダー。

間違いなくキューバを代表するミュージシャンの一人で
いわゆるソン・モントゥーノのコンフントや今に言う
ところのサルサの原型を完成させるのに大きな影響を
与えている。総合的に近代キューバ音楽やバンド形態の
基礎を成したと言える。

多産系の家庭で何と15人兄弟の3番目に生まれ、兄達が
音楽に従事していたことからアルセニオも楽器に早く
から親しんだ。

7歳の時に友達とホウキで遊んでいた際に、ホウキの柄
が馬に当たり馬に顔を蹴られて失明している。

ミュージシャンとしてのキャリアを書き出したら大変な
量になるので短めに。

自分のバンドにピアノや複数のトランペットを早くから
取り入れコンガも加え、それまでの7人から10人編成の
多人数のコンフントに変えてリズムに厚みと多様性を
もたらし後のサルサの原型を作りだした。

かつてはコンガはアフリカ系の打楽器と見做されどこか
遠ざけられていたと言う内容の記事を何処かで読んだ
記憶がある。オルケスタでコンガを初めて使用したのは
キューバのガーシュウィンとも言われたヒルベルト・バル
デス楽団らしい、1936年頃のようだか、モンゴ・
サンタマリアによると、30年代はマチャード大統領が
オルケスタではティンバレスは許されたがボンゴとコンガの
使用を禁止させていて再び使用するようになったのは
1940年の初めの頃だ、La llave de Rafael Ortizという
コンフントがコンガを取り入れて演奏したから、アルセニオ
はそれも聞いて覚えていたのだろうと思うよ、とコメントし
ている。Rafael Ortiz と言えばあの当時ならギタリストで
著名でコンフントを組み、当時ハバナで有名だったキャバレー
のモンマルトルでも演奏していたから、彼のことを指して
いるのだろうけどこの辺りの細部な出来事となるなかなか
は分からないよね。Llaveは何を指すのだろうね。

マチャードは将軍からキューバ大統領になったものの汚職や
暴力や権力による悪政支配をしたから結局キューバから
逃げ出している。

日本でも戦時中はジャズを敵性音楽などど制限していた
し、キューバの独裁政治なら音楽ビジネスにも口を挟んで
いたかも知れないね。アメリカでも一時太鼓の使用を
禁止した時期もあったらしいからマチャードも真似をした
のかもしれない。

スペインから裕福階級がキューバへ移民して来た頃は
ピアノがまだまだリストやショパンを演奏していた時代
だから親は子供達をフランスに音楽留学させている。
日本で言えば明治維新の前で、上流階級はクラシック
音楽が主流で、それから時代が下りアフリカ系の打楽器が
キューバの黒人ミュージシャン達に広がって行くことになる。
わずか何10年の経過だろうね。アフリカのルーツを考えれ
ば自然の成り行きだ。多少乱暴な言い方だけど、キューバに
移った貴族や支配階級は楽器や楽曲にもある種の品を求めた
のかも知れない。まだ時代が浅くヨーロッパからの支配階級
が圧倒的に多かったからね、キューバは。

底辺に生きるキューバの黒人階級がアフリカ色の強いコンガを
全面に押し出して来るのには音楽形態としては 時間が必要
だったのだろうね。ジャズが浸透し始めの頃と同じでハッキリ
したアフロ味は後から付けられる。

メキシコ湾に面するニュー・オリンズは早くからアフリカ
系黒人が流入している。ハイチあたりからも海路で意外と
近い。3,4日くらいで着いた。フランスの影響下にあったからね、
ブードゥやらアフリカングッズショップは今も溢れフレンチ
クォーターもフランスの名残りだし、ルイ・アームストロングも
この地域の生まれだ。また「欲望と言う名の電車」のテネシー・
ウイリアムスもここを舞台とし、日本では杉村春子の当たり役だ。
アフロクーバから話しが逸れた。

1940代はコンフントとしての活動が多忙だったが、
その時期にアルセニオが演奏していた音楽は70年代に
なるとニューヨークでサルサと呼ばれるし、キューバの
ダンス音楽がアメリカのバンドを経てメキシコで大ヒット、
さらにアメリカで大当たりになったのがペレス・プラド
のマンボで元々は共にキューバだ。後述するキューバ
のトレス奏者のエリベルト・ゴンサレスは「マンボを作っ
たのはアルセニオで、それで金を儲けたのがペレス・ 
プラドだ」と言っている。

当時のキューバのミュージシャンの多くはビジネス
チャンスの多いニュー・ヨークに出稼ぎに出てる。
アメリカ資本の入っているキューバにはアメリカ本土
からエンターテイナーが数多く来ていてそのうちに
キューバのミュージシャンもニュー・ヨークなどの
本土に招聘されるようになっていった。

アルセニオも1947年にニュー・ヨークに行っている。
尤もこの時は失明している眼が治せるかどうかの旅行
でもあったが、立ち寄ったマイアミでは黒人のために
差別が酷く、トイレや食堂にホテルで人間として扱わ
られないような待遇だった、と嘆いている。キューバ
国内でもしばしば差別がありキューバ系黒人の多くは
音楽か後はタクシーの運転手で生活をたてていた時代
だった。マイアミはもっとあからさまだったのだろう。

1960年代はスイング・ソンに重点をおいたニュー・
ヨークでの音楽活動が主になったが徐々に人気も薄れた
のを機に1970年に西海岸のロスに移る。キューバや
家族が恋しい、1972年の7月には再会出来るだろうと
妹のダリアに手紙を出しているが肺炎で死去してしまう。
遺体はニュー・ヨークに運ばれて埋葬された。

アルセニオが最後にキューバを去りニュー・ヨーク入り
する際に、自分のバンドを娘のReglaに託したが、彼女に
請われてこのバンドを率いたトレス奏者のエリベルト・
ゴンサレスは、後になりアルセニオの墓参りをしたが、
殆ど何も無いアルセニオの墓を嘆いて、キューバの偉大な
ミュージシャンの墓を作り娘のReglaを呼ぼう、とし
ウェブサイトで募金を呼びかけている。2000年の事で
アルセニオの墓の前でエリベルトがギターを弾き歌を
捧げていたのが印象的だ。

エリベルトは、キューバのミュージシャンは若い頃は一度は
アメリカのジャズやポピュラーソングに夢中になるが、一定の
年齢になるとソンを代表とするキューバの音楽に戻って行く。
キューバ音楽とはそれほど根の深いものだ、と述懐している。

キューバを離れアメリカで名を成したひとりにエルネスト・
レクオーナがいる。彼はカストロとソリが合わすキューバ
を離れたが、やはり自分のバンドが気になっていたようだ
しキューバでの音楽活動や故郷への郷愁の思いも強かった。
キューバ関連で思い出した。クラシック音楽を母体とする
超絶技巧のピアノだったが、キューバ国内よりアメリカで 
ビジネスを成した印象がある。

1950代後半から1960年代のキューバ音楽は懐かしい響き
がある。今よりテンポがゆっくりしているし情感が強い。
コンパイ・セグンドも思い起こさせるよ。東京赤坂でのコン
パードレスも良い思い出だ。サルサもそうだ、ジョニー・
パチェコとかウィリー・コロンのファニア・オール・スタ
ーズが懐かしい。確か1972年に初来日してる。
僕は、1960年後半に戦地ベトナムから一時休暇で横浜で過ごして
いたプエルト・リコ出の米国軍人と、当時まだあった山下公園の
前の米国の一般軍人の専用施設「ゼブラ・クラブ」で音楽の
話を肴に飲み喰いしたのも良い思い出となっている。あの時に
良く食べたピザは美味かった。ビールは確かシュリッツだった。
現在の県民ホールの辺りになるかな。所謂進駐軍のキャンプの
ひとつだった。

ついでながら、東京の赤坂にあった米国軍人の施設であった
山王ホテルは1980年近くまで営業していたが、その後南麻布
の方面に移りニュー山王ホテルとして新しい施設になっている。
どちらも行ったことがあるが、夜はバンドが入り米国軍人や
軍属のために食事やショーが楽しめた。余談になった。

手短かに、どころかダラダラと長文になってしまった。
省いて書くのはちょっと難しいよ。経済や歴史の背景も
考えるとね。急いで書くと話しが前後してしまうし、
記憶も定かで無かったりする。ダメだねー。
と、ここまで書いたら空腹感を感じるよ。フリホーレス
をご飯にかけて食べたい。チチャロネスをつまみに
してまずは一杯やるのが先だよね。

サングラスでカバーされた顔を描くのは結構難しい。表情は
目に支配されるから目を描けないとなるとさてどうしたものか。

まあまあ似てるかな。

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