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野球応援

阪神タイガースを中心に野球の記録と記憶を徒然なるままに書きつづってみます。

タイガースにやってきた有名選手たち 投手編

2011年06月12日 | タイガースの今昔
いまでこそFAで一流の選手の移籍が話題になっており、最近では「兄貴金本」や「新井さん」、今年になって「こばひろ」が阪神にやってきた。

しかし以前からタイガースに移籍してきたビックネームが目白押しだった。
ただ、結構「峠」を過ぎた選手が多くめちゃ活躍した記憶がない。

ここではタイガースにやってきたビックネームを拾い出してみた。


投手編 ()内は在籍年数

安仁屋宗八 広島(11)→阪神(5)→広島(1)

石毛博史  巨人(6)→近鉄(6)→阪神(2)

伊藤敦規  阪急・オリックス(7)→横浜(2)→阪神(6)

伊良部秀輝 ロッテ(9)→MLB(6)→阪神(2)

上田卓三  南海(8)→阪神(2)→南海(1)

宇田東植  東映・日拓・日ハム(10)→阪神(1)

江本孟紀  東映(1)→南海(4)→阪神(6)

岡部憲章  日ハム(10)→阪神(2)

金村暁   日ハム(12)→阪神(3)

久保康生  近鉄(11)→阪神(8)→近鉄(2)

久保康友  ロッテ(4)→ 阪神(3)

小林繁   巨人(6)→阪神(5)

権藤正利  洋松・大洋(11)→東映(1)→阪神(9)

酒井光次郎 日ハム(6)→阪神(1)

下柳剛   ダイエー(4)→日ハム(7)→阪神(9)

杉山賢人  西武(7)→阪神(1)→近鉄(1)→横浜(1)

清俊彦   西鉄(4)→近鉄(8)→阪神(1)

大門和彦  大洋(7)→阪神(1)

成本年秀  ロッテ(7)→阪神(1)→ヤクルト(2)

西川佳明  南海・ダイエー(5)→阪神(1)

野村収   大洋(3)→ロッテ(2)→日ハム(4)→大洋(5)→阪神(4)

藤本修二  南海・ダイエー(7)→阪神(1)→西武(2)

古溝克之  阪急・オリックス(9)→阪神(5)→日ハム(1)

星野伸之  阪急・オリックス(15)→阪神(3)

前川勝彦  近鉄(7)→阪神(2)→オリックス(1)

村上雅則  南海(1)→MLB(2)→南海(9)→阪神(1)→日ハム(7)

山内新一  巨人(4)→南海(11)→阪神(2)

吉田豊彦  南海・ダイエー(10)→阪神(4)→近鉄・楽天(6)

米田哲也  阪急(19)→阪神(2)→近鉄(1)

若生智男  毎日・大毎(8)→阪神(11)→広島(2)


名球会の米田投手
日本人初のメジャーリーガー村上投手
ロッテのエース伊良部投手
日ハムのエース金村投手
オリックスのエース星野投手
南海のエース山内投手
巨人のエース小林投手
現投手コーチの久保康生投手
ロッテのストッパー成本投手
猫にかまれた藤本投手
警察にお世話になった前川投手
沖縄出身の名投手安仁屋投手
馬力があり疲れ知らずの下柳投手


みんなタイガースのユニホーム以前のビックネームばかりです。

機会を見て、個別に紹介したいと思います。

タイガース 田淵の想い出

2011年06月10日 | タイガースの今昔
むかしむかし
小学校の頃、甲子園横にあった虎風荘へ選手のサインをもらいに遠く大阪北浜界隈から行ったことがあった。
ひとりで行ったのか、誰かに連れられて行ったのか、野球友達と行ったのか覚えていない。
が、ひとりでそんなところへ行けるわけがない頃である。

虎風荘の前で結構大勢のファンが居たように思う。
お目当ては田淵だった。
と言うことは、田淵がまだ寮に居た入団当時の1969年か1970年ぐらいだろうか。
となると自分は小学校3,4年か。(ちなみに岡田彰布が隣の小学校で5,6年生)
ほどなく田淵が現れ、獲物に群がる蟻のようになったように思う。
田淵に貼り付いて、見上げるようにサイン帳を差し出した。


ふと見れば、目線ぐらいにベルトがあった。
「なんて長いバットを持つんだろう」とびっくりしたことを覚えている。
バットは持っていなかった。が、なぜそんなことを思ったかと言うと。
当時中之島公園で草野球をよくしていて、淀屋橋のミズノ本店にもよく野球道具を見に行っていた。
(あーグローブのにおいが懐かしい)
たしか自分たちのバットは、地面から腰のベルトの高さと同じ長さのバットを選ぶとしていた。
なので田淵のベルトが自分の目線近くにあったので、どれだけ長いバットやねんとびっくりしたのだ。
そのサインもらった後のことは今は覚えてない。

あの時もらったサインはどこにいってしまったかなぁ

ちなみに、大人が持つバットは腰位置を基準になんかしていないのでもっと短いはずだが、それでもプロ野球選手のバットの長さは身長の45%程度と言われており、公認野球規則では長さ106.7cm以下とされている。物干し竿と言われた長いバットを振り回して活躍した初代ミスタータイガース藤村富美男のバットは96.5cm

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あれから40年近くがたった。
子どもの小学校に田淵が来た。らしい。
母校を訪問する番組だったそうだ。
運動会で小学校に行ったときに、廊下の掲示板に田淵からのメッセージと訪問の時の写真が貼ってあった。

子どもに「田淵が来たの?」て聞いたら。
「誰?田淵?だれか来たみたい。」だって。

女の子で敵地江戸で昔の見知らぬ阪神タイガースの選手に興味が無かったみたい。
教えてくれたらまたサイン帳を持って行ったのに・・

タイガース事件簿 『捕手池辺』

2011年06月07日 | タイガースの今昔
1977年4月30日土曜日
大洋-阪神4回戦
川崎球場


前日にはあまりにも有名な事件があった。
レフト佐野が大飛球を追って外野のコンクリートフェンスに頭から激突し頭蓋骨を骨折し昏倒した事件だ。
センター池辺は泡を吹き、白目を剥いて意識を失っている佐野をみて、タイムも掛けず担架を要請したため、インプレーと見なされ、1塁ランナーがタッチアップで長駆ホームイン。同点とされた。
救急車がグランド内に到着するほど大きな事故であったにもかかわらず、インプレーとして扱われ、抗議も却下された。
当時は佐野にエラーがついたらしいが、後日訂正されたそうだ。
が、この事件とは違い、その翌日の出来事である。


田淵までダウン
田淵急所打撲 片岡右手中指骨折
捕手がおらん
お家の一大事『捕手池辺』が救った。


という見出し。

覚えていますか?

絶対絶命の八回
池辺 命がけの古沢リード
サインは2つ グーとチョキ



事の発端は七回

"うっ"とうめいて田淵がうずくまった。
高木のファールチップが急所に直撃。

変わった捕手片岡も福島のファールチップを右手に受けて骨折。

もうひとりの捕手大島はすでに代打で出場済み。

二死満塁の大ピンチ。


片岡の治療中に一枝コーチがグランド内をうろちょろ。

「タイラできんやろか」三塁守備位置での交渉で藤田平は「生まれて一度も経験がない」

次のお目当ては池辺。センターまで入って交渉。
だがこのベテランも「バッティング捕手もしたことない」

片岡は右手中指を絆創膏で固定して再びマスクをかぶった。
2-1と追い込んだ福島を三振にしとめて、なんとか七回をしのいだ。


しかし八回に大騒動が起こった。

「とにかく捕手を一人つくっとかなあかん」(山内コーチ)と言うことで、体のいい外野の町田公雄が候補にあがって、ブルペンで投手の球を受け始めた。

だが八回表に一死満塁で池内に打順が回るチャンスがやってきた。
投手は左の宮本だ。もう右の代打もいない。
「町田だ。アレを呼び戻してくれ」吉田監督の叫び声。
ブルペンからベンチを素通りして出ていった町田はあえなく三振。

そのまま片岡を無理使い出来るというベンチの判断は甘かった。

三番手安仁屋の制球難も輪をかけた。

四球の江尻が盗塁しても片岡の球は二塁にも届かない。
続く代打伊藤もまた四球。
この無死一、二塁に山下が無情にも片岡のケガを攻めてきた。
捕手前のバント。それを片岡が一塁へ暴投。もう球は投げられない。

差は一点。ワッショイ、わっしょいと大喜びの一塁側スタンド。


タイガースがそれどころではない。

見かねた池辺が「やります」と買って出た。

無死一、三塁。一点もやれない場面。

投手も予定外の古沢に変わった。

絶対絶命のピンチに立ち向かうのは急造バッテリー。

「ええか、サインは念には念を入れて出すんやで。三塁ランナーが帰りよるから」と山内コーチはプロテクターを渡しながらアドバイス。

(念には念を入れて、なんてアドバイスになってないが。笑)

池辺はまごまごしてプロテクターの付け方もわからないほどの"素人ぶり"だ。

「ガンちゃん(池辺)真っすぐとスライダーだけ決めとこか」と古沢も苦笑いのサインの打合せだ。

サインはグーとチョキだけの二種類だった。

たったこれだけでピンチを乗り切ろうというのだ。

古沢のスライダーが滑るたびに池辺は飛びつくようにミットに入れた。

一塁走者の山下が盗塁する。

だが、急造捕手の池辺は捕球が精一杯でそれどころではない。

打席の高木にヒットでも出れば逆転される無死二、三塁。

「あいつが勝負だった。あとは松原さんを敬遠して満塁にすれば清水、田代には自信があった」という古沢。

しかし勝負と言っても、池辺はグーとチョキを交互に出すだけだ。

だが、高木が三邪飛に打ち取ったあとは、二種類の球種だけで一点を守りきってしまった。

どっとわくベンチ。殊勲の捕手は握手攻めだ。

「もうこりごりだ。命がけだった。球を捕るのに精一杯で、なにがなんだかわからない。」と池辺は、今度はレガースがなかなか取れない。





池辺 巌(いけべ・いわお)
背番号34
1944年1月18日生まれ
長崎県出身
178cm77kg
右投右打
外野手、三塁手、ほか(捕手)
511試合 打率.262(1498打数392安打)
32本塁打 142打点 18盗塁
長崎・海星高-大毎・東京・ロッテ62-阪神75-近鉄79


74年オフに金田正一監督と衝突し2対5の大型トレードでロッテから阪神に入団。
翌76年にセンターでゴールデングラブ賞受賞
阪神在籍は4年

Tigersの歴史その2

2011年03月25日 | タイガースの今昔
タイガースの昔を振り帰ってみましょう。

1946年 藤村富美男監督 3位 優勝できなかったですね。
  戦後、プロ野球の再開した年

1947年 若林忠志監督 優勝絵文字
  甲子園球場にラッキーゾーンが設けられる。それで優勝したのかな

1948年 若林忠志監督 3位
  藤村富美男がプロ野球初のサイクルヒットを記録
  ペナントレース以外にも今のサッカーみたいに杯争奪戦があり、
  大毎杯、中日杯、読売旗などのカップ戦はすべて優勝

1949年 若林忠志監督 6位
  ただし8チームのため最下位ではない。
  この年まで1リーグ制であった。
  来期より2リーグになりチームが増えたため
  主力選手(若林忠志、別当薫、呉昌征、土井垣武等)が毎日に移籍

1950年 松木謙治郎監督 4位
  2リーグ制になりセントラルリーグ(8チーム)に所属

1951年 松木謙治郎監督 3位

1952年 松木謙治郎監督 2位

1953年 松木謙治郎監督 2位

1954年 松木謙治郎監督 3位
  4月17日甲子園球場にてNHKによる初のプロ野球中継
  7月25日審判に退場を宣告されたが、理解していなかった藤村が再び打席に立とうとしたため、乱闘が起こり、タイガースの没収試合

1955年 岸一郎監督、藤村富美男監督 3位
  7球団のウエスタンリーグで阪神が優勝

本日はここまで。なかなか優勝できませんね

Tigersの歴史その1

2011年03月23日 | タイガースの今昔
今日は、タイガースの昔を振り帰ってみましょう。

1935年12月10日 株式会社 大阪野球倶楽部(大阪タイガース)設立
  今から76年前 昭和10年ですね。

1936年2月11日 チーム結成式。浜の宮球場で初練習
  山陽電車の浜の宮(加古川市。現在の浜の宮公園付近)

1936年3月25日 球団か「大阪タイガースの歌」が世に出る。
  作詞は佐藤惣之助、作曲は古関裕而。またの名を国歌「六甲颪」

1936年前期 森茂雄監督
1936年後期 石本秀一監督
  年間優勝決定戦 vs巨人 1勝2敗で破れる。くそーー

1937年春 石井秀一監督 2位
1937年秋 石井秀一監督 優勝
  年間優勝決定戦 vs巨人 4勝2敗で初優勝。やったー

1938年春 石井秀一監督 優勝
1938年秋 石井秀一監督 2位
  年間優勝決定戦 vs巨人 4勝0敗で2連覇。いいねェ

1939年 石井秀一監督 2位 ちょっと残念
  年間通してのリーグ戦となる。9球団

1940年 松木謙治郎監督 2位 おいおい

1941年 松木謙治郎監督 5位 あれれ

1942年 若林忠志監督 3位 もうちょっとがんばって

1943年 若林忠志監督 3位 まただめか

1944年 若林忠志監督 優勝 万歳、ばんざーーい
  プレイングマネージャーの若林忠志投手がMVP、最優秀防御率、最多勝
  藤村富美男が打点王

1945年 戦局悪化で公式戦中止 それどころじゃーないか

本日はここまで。第一期黄金時代かな
1935年から1944年の10年間で優勝3回