goo blog サービス終了のお知らせ 

にしのサラリーマン時代

にしがサラリーマンで幸福のときを書いている。当時の知り合いや、子や孫たちに読んでもらいたい。

箕面スパーガデンへ慰安旅行

2010-03-05 23:49:24 | サラリーマン3年生
 もうすぐ4年目を迎えるサラリーマン3年生は、箕面方面への慰安旅行に参加していた。1966(S41).3.5~6のこと。

 淡路島から貸切バスで明石へ渡り、西宮へ。そこからチョビットだけ名神高速道路を走る。なにしろ、高速道路というもの、出来てから2年しか経っておらず、まだまだ珍しい。高速道路をバスで通る企画もみんなの希望であった。
 貸切バスは女性のガイドが乗務しており、こんなクイズが出ていた。「むかし、この近くで坊さんと尼さんが駈けっこをしたところがあるのだと。それで、どちらが先に着いたと思いますか?」だと。みんなは、考え込んでいた。バスが高速を少し走ったところで、この辺りが「尼がさき」というところなんだ。だから、駈けっこは尼さんが先に着いたのだと。みんな、どっと笑い、あっという間に尼崎を通過、豊中ICを抜けて、箕面に向かっていた。

 この尼崎というところ、わたしがもうじき赴任するところでもあった。

196603056
 ↑ 高速降りて着いたところがここ、「箕面スパーガーデン」
なぜか、この旅行では全員写真が無い。撮ってなかったのかな。


音楽クラブ練習曲「寒い朝」

2010-02-05 23:42:55 | サラリーマン3年生
 年末・年始は何かと気ぜわしくて休んでいたバンド練習、時節に合った曲「寒い朝」で再開した。1966(昭和41)年2月のこと。
 昨年は、やや大人びた曲ばかり続いた。それで今回は、同世代の吉永小百合さんの曲を選んでくださったのだ。
19660205
 ↑ 寒い季節にピッタリの曲。
 冬になると、ラジオや有線放送からよく流れてくる曲であった。
 日活映画の主題歌だが、1962(昭和37)年4月20日にレコードも出ている。

「寒い朝(1962.4.20)」吉永小百合&和田弘とマヒナ・スターズ
 ↑ 「寒い朝(1962.4.20)」
吉永小百合&和田弘とマヒナ・スターズ。

 この曲を聴くと、高校時代の自転車通学を思い出す。昭和37~8年のこと。オーバーコートなど買ってもらえるほど裕福でない。薄いダスターコートに化繊の手袋で自転車に乗る。ハンドルを握る手は冷気でかじかみ冷たい。田んぼ道ばかりを6km離れた学校へ向かう。そんな中「こころ一つで暖かくなる」と口ずさみながらペダルをこぐと苦痛から解放された。

 この曲は途中で明るく転調する。そこのところが大好きだ。そのメロディーに元気をもらい、歌詞にも励まされながらの通学でした。

居り家の建前

2010-01-24 18:41:18 | サラリーマン3年生
 1966(昭和41)年1月22日(土)は半ドン勤務だが、会社を休んで居り家(おりえ)の建前を手伝った。朝から梁・柱を組みはじめて、その日の夕方には棟が上がって上棟式になった。小餅・隅餅を放り、最後に天餅を放り終えると、とばりが降り暗くなっていた。引き続いて日屋(ひや:離れのこと)で、大工さんや、手伝ってくれたご近所や親戚の方々の労をねぎらっての宴会になった。
 サラリーマン3年生もちょっとかっこをつけて、買ったばかりのステレオにマイクロホンを差し込み、あいさつ(のまねごと)を行なっていた。マイクなどなくても聴こえる狭い部屋なのに。


セパレートステレオを買った

2010-01-05 23:54:51 | サラリーマン3年生
 1月5日、頼んであった「セパレートステレオ」が家に到着した。サラリーマンになって3度目の正月明け1966(S41).1.5のこと。

 1か月前になるか、本屋で見つけた雑誌「ステレオ」に新製品が紹介されていた。すこし立ち読みするも、勤務中でもあり長居は禁物。買って帰り、詳しく見てから電器屋へ走り込んだ。パイオニアというメーカーは業務用音響メーカーなので、洲本の電器屋には縁がない。その製品にこだわるなら取り寄せるしかない。電気屋のご亭主は、15%ぐらい引けるだろうといいながら、神戸か大阪の電器問屋に問い合わせてくれた。数日後、値引きは難しいと回答を得る。がそれでもいいからと取り寄せてもらう。それが次のステレオだ。年末・年始をはさんでいたから、頼んでから半月以上も掛った。パイオニアの一番安い機種だが、それでも高卒初任給(当時¥18,000)の4倍もする。ローン販売のない時代、貯金先行へと必死に積み立てていた。

19660105パイオニアS-45X
 ↑ 到着したパイオニア セパレートステレオ S-45X。定価¥79,900が¥72,000に。
 毎月5千円づつ積み立てた預金は、満期が2カ月先。このあいだ出たボーナスでは、ナイトクラブの払いもあるので半分も払えない。しかたなく、母に前借りして代金を払う。

 早速、先月買ったばかりのベンチャーズのレコードをかけた。ボリュームを上げると総合出力34Wのアンプとスピーカーは、ガラス障子をガタガタ震わせて鳴った。周囲の田んぼまで聴こえるほどの音量に満足していた。後に祖母が言っていた。3軒隣のオバサンに、「楽隊か誰かが来ていたのか? 」と言われたと。

19660104
 ↑ 従来のポータブル電蓄(レコードプレーヤ)は、お払い箱。
 今まで枕元に置いていたプレーヤ、今日から邪魔者扱い。段ボール箱に入れて屋根裏へ。2年まえからお世話になったプレーヤだが、音が全然違うので、片づけた。値段が20倍も違うのだから仕方ない。


新年会

2010-01-03 23:31:45 | サラリーマン3年生
 1月3日はプライベートな新年会。昨年末からの約束だからと行きつけのところへ行った。1966(S41)年1月のこと。
 カメラを持って明るいうちから行ったので、お姉さんたちに撮ってとねだられた。次から次と撮っていくうちに夜になり、最後9人目は真っ暗闇の中となり、フラッシュを焚いた。昨日の同窓会で使い残したフラッシュが1球あったので、最後の人に使った。まだ2回目と不慣れなフラッシュ撮影、今回は正しく扱えた(と、現像して初めて判った)。

19660103
 ↑ 小さなナイトクラブだが、お姉さんたちが大勢いた。

「さよならはダンスの後に/(1965.3.10発売)」
 ↑ 「さよならはダンスの後に
/(1965.3.10発売)」
 この歌がジュークボックスから流れると、狭いフロアーなのにチークダンスを踊るカップルがいた。まったく以って歌詞のとおり。その年の忘年会・クリスマス会、そして新年会では立ち寄ることが多かった。

回転禁止の青春さ/美樹克彦(1965年12月)
 ↑ この「回転禁止の青春さ」
/美樹克彦(1965年12月発売)には、深い思い出がある。

 目方誠から名前を変えた美樹克彦が、道路交通標識をプリントしたTシャツを着て歌っていた。たしか、胸に大きな駐車禁止、背中ニは大きな転回禁止マークが描いてある。それを着て後ろを向き、上体をひねり顔をこちらに向ける。同時に両手を振り上げてぐるぐる回す。なんと派手なアクションで歌うのだろう。

 訪問したお宅のテレビはすでにカラーであり、赤が鮮やかに映る。美樹の熱唱とTシャツの赤い標識がぼくの目につよく焼きついた。我が家がカラーテレビになる5年まえのことであった。


卒業後3年で同窓会

2010-01-03 00:55:44 | サラリーマン3年生
 1月2日、高校の同窓会に出席した。卒業して3年しか経っていないが、みんなええ大人になっていた。1966(昭和41)年のこと。
 宴会の後、私のカメラで写真を撮ったのだが、フラッシュがうまく同期しておらず失敗。現像してみてわかり、みんなに配れず、申し訳ないことをしてしまった。ごめんなさい。

 そのネガフィルムを44年後(2010)にパソコンに取り込んでみると、うっすらと顔が判る程度に写っていた。でも、フィルムが44年も経っていたので劣化がひどい。そのままでは見られたものではない。写真ソフトで部分修正してみたらまあまあになった。すでに逝った人もいるが、目にとまった人には懐かしんでもらいたい。

19660102
 ↑ 三高3年6組同窓会の写真。
場所:ちどり旅館(福良)、男(16名):¥1,800、女(17名):¥1,300
写真クリックで大きく(800×530px)なります。(この写真は、目を塞いでいます)


元旦号に店長以下全員集合

2010-01-01 17:58:00 | サラリーマン3年生
 社内誌1月1日号に各店の社員が掲載されていた。1966(昭和41)年1月のこと。

19660101
 ↑ 洲本支店一同
 サラリーマン3年生も写っていた。
このころ仕事にややマンネリ感が出ていた。東京オリンピック後の不況が尾を引いて、証券業界はじめ社会の不況感は深刻だった。
それゆえか、毎年あったクリスマスパーティーは、昨年末はパス。それにつれて、バンドの練習もほどほどになり、飲み屋通いを覚えた年末・年始だった。


レコードを衝動買い

2009-12-14 21:17:39 | サラリーマン3年生
 ボーナスの支給日が近づく12月の初旬、神戸まで出かてステレオを物色するぼくがいた。サラリーマン3年目、1965(昭和40)年の年末のこと。 

 会社の先輩がステレオを買ったと聞いてから、ぼくも欲しくなり、ボーナスが出る前から電気店をまわっていた。入社してすぐテープコーダを買い、半年後にはポータブル電蓄。そして今度はステレオと、その移り気には自分でもあきれていた。
 神戸で電気店らしい看板を見つけたのだが、ショーウインドウを見るだけで、中へ入らなかった。商品知識の無さに怖くなり、その日は買わずに帰ることにした。その帰り道、商店街のどこからか、耳新しいエレキサウンドが聴こえてきた。このクリスマスソングのレコードが欲しい。とっさにそう思ったぼくは、レコードショップでないのに音の鳴る店の奥へと入っていく。曲名と演奏者を尋ねると、店員は即座に答えてくれた。ありがたかったが、そこはレコードショップでない。欲しいのは、そのレコードだ。申し訳ない顔をしながらその店を出た。しばらく歩いて、見つけたレコード店でそのレコードを買う。500円だった。それがこれ( ↓ )

19651115lp4115
 ↑ ザ・ベンチャーズ演奏のクリスマスソング4曲入りレコード。1965(S40).11.15発売

このレコードと同様の演奏を、下記リンク先で見つけました。

「ジングル・ベル」
https://www.youtube.com/watch?v=640IOHoxtCc


「サンタが町にやってくる」
https://www.youtube.com/watch?v=a4jHcu_bGHQ


「ホワイト・クリスマス」
https://www.youtube.com/watch?v=d1Ek1xqldo4


「赤鼻のトナカイ」
https://www.youtube.com/watch?v=4Khw7nLCO2c



手形用紙が全国統一された

2009-12-09 23:17:06 | サラリーマン3年生
 1965(昭和40)年12月1日から手形用紙の規格統一制度が始まった。それまでは、市販の用紙のため、縦書き、横書き、大きさがバラバラであった。制度が始まっても混乱を避けるため、しばらくは併用が許されていたが、2年半後の1968(昭和43)年7月1日から、金融機関公布の用紙に統一された。

19651201
 ↑ 統一された手形用紙の見本

19651201_2
 ↑ 統一された手形用紙を割賦販売専用に利用の見本(マル専)

19651201_3
 ↑ 統一された小切手の見本


同窓会の案内

2009-12-09 01:08:39 | サラリーマン3年生
 島内の高校を卒業して3年、ちょっと早いかなといいながらも同窓会の話が持ち上がった。地元に住んでいることもあって、往復はがきの案内状を作って送る役を引き受けてしまった。1965(昭和40)年11月のこと。

1965112436
 ↑ 原紙を鉄筆で書き、会社の謄写版を借りて刷った往復はがき。


音楽クラブ、また2曲練習追加

2009-11-23 23:00:40 | サラリーマン3年生
 1965(S40)年11月6日は土曜日。2時までの仕事の後、音楽クラブの練習をした。さっそく先生が2つの課題曲を追加された。 1曲はクリスマスの定番「ジングルベル」。もう一曲は、石原裕次郎の「泣かせるぜ」だった。

 例によって、楽譜を自分で転記するはずであったが、時間がないので、複写機でコピーさせてもらった。当時の複写機は、感光紙に焼き付けてから現像液に浸す湿式。湿った紙を乾かすと青く出来上がる。全体が青っぽくて判りにくいが、こんなもの。( ↓ )
19651106
 ↑ 「ジングルベル」
プロの楽譜は、見慣れないので難しい。そのうえ、今度のリズムは難しい。

19651106_2
 ↑ 「泣かせるぜ」・・・「二人の世界」の裏面。

泣かせるぜ(原曲は石原裕次郎 1965年5月発売)
 ↑ 泣かせるぜ(原曲は石原裕次郎(1965年5月発売)だが、上手な方(MrShirakawaさま)の歌をYouTubeで聴かせてもらいます。



大工さんが木取りに来た

2009-11-23 15:47:27 | サラリーマン3年生
 1965(S40)年11月5日、勤め先から帰ると、今日の報告が、母からあった。
「大工さんが来て、我が山の松の木を一本一本木取りしてくれたよ」と。

 あッ、そうそう。2~3カ月前に、隣町の大工(初海)さんに建築仕事を、わたしが頼んでいたのだ。
 前々から、家を建てるお金なんかないない。そう渋っていた両親だが、自分家の山の松の木を使って、屋根・壁など外回りだけでも作っておけば、後は、金ができてから徐々に造作すればいい。こう言って親の賛同を得て、自分で図面を描き、大工さんに頼んでいた。
 それで今日、農業を兼業する大工さんが、農閑期になったので来てくれたのだ。いよいよこれで、古びた母屋からおサラバできる。そう思うと胸がわくわくしてきた。

 それから3カ月、近所や親せきの人が手伝いに来てくれるなど、旧家屋の解体や新築の準備であわただしかった。旧家屋が無くなったある日のこと、更地になった敷地を掘り起こして、基礎の地固めをしようと母(45)が言うので、二人で行った。わたしが作った図面に沿って、敷地に杭を打ち、縄を張る。ツルハシや幅広クワを持って土地を掘り起こす。そのクワの扱いには、45歳の母のやる気と巧みさを感じた。日ごろペンしか持たないサラリーマン3年生のわたしには、農業で鍛えられたもう一人のたくましい母を見た。
 
賀集生子
 ↑ 木取りした里山があった所。
この山のふもとに我が家の里山があった。だが、今は人手に渡り、舗装道路と耕作地に変わり、こどものころ遊んだ山とため池は無い。


新米音楽クラブ、新曲にトライ

2009-10-23 16:44:18 | サラリーマン3年生
 音楽クラブが出来て3カ月(サラリーマン3年生)。まだ、2曲しか弾けない。それもそうだ、やったことがない人間ばかりが、楽器の触り方から教わるので、時間がかかる。とくにスチールギターでメロディーを受け持つIwakiさんは大変だ。その楽器、名前はギターだが、普通のギターとは全然違う。琴のように横置きで、弦の押さえ位置が定まりにくい。それゆえ音符どおりに弾くのが難しそう。Haradaくんの弦バスもそうだ。大人の背丈より高くて、ボディも大きい。スチールギター同様、弦の下に音を区切るもの(フレット)がないので、こちらも難しそうだ。
 でも、岡崎先生の熱心なご指導で、みんな大分上達してきた。そうしたら、次はマイナーの曲だと、3曲提示された。1965(S40).10.23のこと。

19651023
 ↑ ただちに自分の音楽帳に譜面を転記させてもらった。
先生は忙しいので、各人の譜まで手が回らない。パート譜は、自分で書くと身につくとの教えだった。




 忘れていた当時の練習曲だが、You Tube(↓)で拝聴できて、当時を懐かしく思い出しました。

19640715
 ↑ サヨナラ東京(原曲は坂本九(1964(昭和39)年7月15日発売)だが、上手な人(gantanさま)のYouTubeを聴く。



19650500
 ↑ 二人の世界
(石原裕次郎、1965(昭和40)年5月発売)


ウナ・セラ・ディ東京
 ↑ ウナ・セラ・ディ東京
(ザ ピーナツ、1964(昭和39)年9月発売)


地下鉄3号線が開通した

2009-10-22 22:53:27 | サラリーマン3年生
 昭和40年10月1日、大阪地下鉄3号線(のちに四つ橋線と改名)が開通し、梅田から肥後橋まで3分で行けるようになった。今度、出張する機会があれば乗ってみたいと、子供みたいなことを思っていた。1965(S40).10のこと。

196510013
 ↑ 当時の地下鉄肥後橋駅出入り口と開通記念切符。


20091031
 ↑ 44年後(2009年)の肥後橋駅出入り口と、切符。


秋の社員旅行は「保津川下り」

2009-09-26 23:53:09 | サラリーマン3年生
 サラリーマン3年生の秋季旅行は、京都府亀岡の「保津川下り」だ。前日から京都に来て一泊、明けて9月26日、バスに分乗して亀岡にある乗船場へ。そこから小舟に乗って保津川を下った。着いたところは嵐山。昼食の後、市内観光、苔寺(西芳寺)ほかへ立ち寄った。1965(昭和40)年9月25日~26日のこと。

19650926
 ↑ 保津川の上流(亀岡)にある乗船場で、後続のみんなを待つ。

19650926_2
 ↑ 全員そろったところで、二班に分かれて乗船。保津川を下る。


19650926_3
 ↑ 後続の船には、若い女性が多く乗っていた。(うらやましい)


1965092620
 ↑ 苔の多さに感動した苔寺(西芳寺)だが、写真は、枯山水石組の前だけ。


クリックでジャンプします。
 ↑ このころ、橋幸夫の「僕らはみんな恋人さ」
(1965.7.17発売)をよく聴いていた。