転勤してきて、調べ物ばかり。
毎年、12月31日夜に帰省していたが、この年は帰省を先送りして元旦を阪神で過ごした。1969(S44)年元旦のこと。
仕事始めの4日がたまたま土曜日であったので、年休を申し出た。このころはまだ土曜日は休みでなく、14時まで勤務があった。だが、地方出身者は帰省を理由に年休をもらう人もいて、わたしも便乗申請した。
大きな声では言えないが、センターへ勤務して日が浅く、定型業務や重要業務を持っていなかったのも好条件だった。
正月休みが増えたので、あの娘と初詣をしてから帰省することにした。女の子と初詣なんかしたことないわたしは、約束の場所へ出向いた。 家の近くには近所のおばさんなのか、女性が三人立っている。近づくと一人はあの娘。だが他の人はわからない。振袖で着飾った人はお姉さんで、もう一人はお母さんでしたか。こりゃぁ失礼しました。
先日、酔ったあの娘を家まで送ったが、夜間だったのでお母さんの顔まで、しっかりと覚えていなかった。

振袖の姉さんは、これから彼のところへ行って、二人で初詣に出かけるところだった。
羨ましいなぁと、姉さんを見送ってから、ふたりは神社がある近所の山へ向かった。
街からだんだん離れて山の方へ登っていく。この山道は神社へつながっていないのだろうか。ほかにだれも歩いていない。ふたりは歩き疲れて、山の中腹で止まってしまった。そして折り返しはじめた。
「足が痛い」とあの娘がいい出す。下り坂だから負んぶをしてくれともいう。この娘の我がままが出てきた。こっちも、これ以上はしんどいからと、道端にしゃがんでしまった。それから長々とおしゃべりを続けていた。
昨年の春、この娘が赴任してきたときのことだった。「この娘の指導をよろしく頼む」と課長からいわれて、「はい」と返事した。それから、いろんなことを話した。しかることもあった。そして半年経ったところで、わたしは転勤した。
気になっていたが、その後も、甘えたり駄々をこねるくせは、治っていなかった。この娘は将来、どうなっていくのだろうかなぁ。お正月にたべる蓮根で見通しを覗いてみたい。そんな若い二人の初詣だった。
最近知った曲、♪「若かったあの頃」守屋浩唄 昭和49年9月発売。 みょうに歌詞が似ているので気に入った。
仕事始めの4日がたまたま土曜日であったので、年休を申し出た。このころはまだ土曜日は休みでなく、14時まで勤務があった。だが、地方出身者は帰省を理由に年休をもらう人もいて、わたしも便乗申請した。
大きな声では言えないが、センターへ勤務して日が浅く、定型業務や重要業務を持っていなかったのも好条件だった。
正月休みが増えたので、あの娘と初詣をしてから帰省することにした。女の子と初詣なんかしたことないわたしは、約束の場所へ出向いた。 家の近くには近所のおばさんなのか、女性が三人立っている。近づくと一人はあの娘。だが他の人はわからない。振袖で着飾った人はお姉さんで、もう一人はお母さんでしたか。こりゃぁ失礼しました。
先日、酔ったあの娘を家まで送ったが、夜間だったのでお母さんの顔まで、しっかりと覚えていなかった。

振袖の姉さんは、これから彼のところへ行って、二人で初詣に出かけるところだった。
羨ましいなぁと、姉さんを見送ってから、ふたりは神社がある近所の山へ向かった。
街からだんだん離れて山の方へ登っていく。この山道は神社へつながっていないのだろうか。ほかにだれも歩いていない。ふたりは歩き疲れて、山の中腹で止まってしまった。そして折り返しはじめた。
「足が痛い」とあの娘がいい出す。下り坂だから負んぶをしてくれともいう。この娘の我がままが出てきた。こっちも、これ以上はしんどいからと、道端にしゃがんでしまった。それから長々とおしゃべりを続けていた。
昨年の春、この娘が赴任してきたときのことだった。「この娘の指導をよろしく頼む」と課長からいわれて、「はい」と返事した。それから、いろんなことを話した。しかることもあった。そして半年経ったところで、わたしは転勤した。
気になっていたが、その後も、甘えたり駄々をこねるくせは、治っていなかった。この娘は将来、どうなっていくのだろうかなぁ。お正月にたべる蓮根で見通しを覗いてみたい。そんな若い二人の初詣だった。
最近知った曲、♪「若かったあの頃」守屋浩唄 昭和49年9月発売。 みょうに歌詞が似ているので気に入った。
12月22日、大阪地区の家族も参加してのクリスマスパーティが、太閤園で行われた。ぼくらハワイアン・バンドのメンバーは生演奏で参加。そこには、関西で有名な大村崑(こん)さんが、司会を引き受けてくれていた。1968(S43)年12月のこと。

↑ コーラス部の「聖夜」からはじまり、予定されたかくし芸や余興などへ。

↑ 司会は大村 崑さんがやってくれた。
おわびのクリスマス
先週は寮祭、今週は大阪家族会と大パーティが続いたので、忙しかった。招待したあの娘には、ろくな相手もできず申し訳なかった。
おわびにと24日、食事に誘った。誘ったものの梅田界隈は全然行ったことが無い。逆に誘われて、寿司を食べ、パブへ入る。口当たりの良いカクテルを何杯か飲んだら酔いが回ってきた。わたしよりこの娘の方がよく酔っている。こりゃいかんと、電車で送ることにした。
幸い電車はガラガラに空いていた。最後尾の車両には人がほとんどいない。車掌の目を盗んで、長椅子に寝ころび、酔いを覚ます。そして発車を待つ。降車駅に着いてもまだ酔っているので、自宅まで肩を貸す。
玄関で迎えてくれたお母さんは、娘の様子を見て、「そのまんま、2階まで負んぶして行って」と、これまた大胆なことをおっしゃる。なにしろ私は、この家も家の人も初対面であったのだ。部屋には既にふとんが敷かれている。その上に寝転がして、夜も遅いのでと、そそくさと帰ることにした。
駅に戻って、やれやれ。終電前の電車で帰ることができた。それにしてもあそこのお母さん、いきなり娘の寝室へ案内されたのには驚いた。
布団カバーのたすき掛けにも。カバーが簡単に外れないようにと、太いたすき掛けが手縫いされていた。わたしのお袋も縫い仕事をすこしするが、布団カバーのたすき掛けは見たことがない。初対面の態度といい、町のお母さんと田舎のお袋を、なぜか比べていた。(その節は、失礼しました)

↑ コーラス部の「聖夜」からはじまり、予定されたかくし芸や余興などへ。

↑ 司会は大村 崑さんがやってくれた。
おわびのクリスマス
先週は寮祭、今週は大阪家族会と大パーティが続いたので、忙しかった。招待したあの娘には、ろくな相手もできず申し訳なかった。
おわびにと24日、食事に誘った。誘ったものの梅田界隈は全然行ったことが無い。逆に誘われて、寿司を食べ、パブへ入る。口当たりの良いカクテルを何杯か飲んだら酔いが回ってきた。わたしよりこの娘の方がよく酔っている。こりゃいかんと、電車で送ることにした。
幸い電車はガラガラに空いていた。最後尾の車両には人がほとんどいない。車掌の目を盗んで、長椅子に寝ころび、酔いを覚ます。そして発車を待つ。降車駅に着いてもまだ酔っているので、自宅まで肩を貸す。
玄関で迎えてくれたお母さんは、娘の様子を見て、「そのまんま、2階まで負んぶして行って」と、これまた大胆なことをおっしゃる。なにしろ私は、この家も家の人も初対面であったのだ。部屋には既にふとんが敷かれている。その上に寝転がして、夜も遅いのでと、そそくさと帰ることにした。
駅に戻って、やれやれ。終電前の電車で帰ることができた。それにしてもあそこのお母さん、いきなり娘の寝室へ案内されたのには驚いた。
布団カバーのたすき掛けにも。カバーが簡単に外れないようにと、太いたすき掛けが手縫いされていた。わたしのお袋も縫い仕事をすこしするが、布団カバーのたすき掛けは見たことがない。初対面の態度といい、町のお母さんと田舎のお袋を、なぜか比べていた。(その節は、失礼しました)
12月15日(日)、寮のクリスマス・パーティが寮の球技室で行われた。1968(S43)年12月のこと。
今年の会場は寮の敷地内と近いので、パーティ準備を手伝った。ミュージックの担当も引き受けたので、自室からステレオセットを運んだり、音量テストをしたりとあわただしかった。そうこうしているうちに、幕や天井の飾り付けが終り、バンドのメンバーと楽器が到着した。わたしも一応バンドのメンバー。今年からはO瀬くんに代わり、エレキベースを担当した。
真昼のパーティー、時間が迫ると女性の来客が続々と到着する。男子寮の寮生にとって、女性の参加は何よりも嬉しい。去年は誰も誘えなかったわたしにも、誘いに応じて1人来てくれた。(謝々)

↑ ミラーボールが輝くパーティー会場。
食堂でシャンペンを空けた後は、パーティー会場でダンスを始める。
レコードの係をしながらダンスの相手をするのは、少し厳しかった。誘いに応じてきてくれた娘には、十分に相手ができず、申し訳ないことをした。

↑ バンド演奏もダンス音楽で場を盛り上げた。
生バンドの後では、ステレオの出力(一応34Wあるのだ)が不足した。部屋で聴くのと広い会場では、全然違うことを思い知らされた。
このころ、音がうるさいと口うるさかった先輩が結婚で寮を出たので、またボリュームを上げてこんな歌(↓)を聴いていた。

↑ 愛を知ったの伊東ゆかり 昭和43年10月10日発売
今年の会場は寮の敷地内と近いので、パーティ準備を手伝った。ミュージックの担当も引き受けたので、自室からステレオセットを運んだり、音量テストをしたりとあわただしかった。そうこうしているうちに、幕や天井の飾り付けが終り、バンドのメンバーと楽器が到着した。わたしも一応バンドのメンバー。今年からはO瀬くんに代わり、エレキベースを担当した。
真昼のパーティー、時間が迫ると女性の来客が続々と到着する。男子寮の寮生にとって、女性の参加は何よりも嬉しい。去年は誰も誘えなかったわたしにも、誘いに応じて1人来てくれた。(謝々)

↑ ミラーボールが輝くパーティー会場。
食堂でシャンペンを空けた後は、パーティー会場でダンスを始める。
レコードの係をしながらダンスの相手をするのは、少し厳しかった。誘いに応じてきてくれた娘には、十分に相手ができず、申し訳ないことをした。

↑ バンド演奏もダンス音楽で場を盛り上げた。
生バンドの後では、ステレオの出力(一応34Wあるのだ)が不足した。部屋で聴くのと広い会場では、全然違うことを思い知らされた。
このころ、音がうるさいと口うるさかった先輩が結婚で寮を出たので、またボリュームを上げてこんな歌(↓)を聴いていた。

↑ 愛を知ったの伊東ゆかり 昭和43年10月10日発売
赴任して1ヶ月経った11月23~24日、伊豆・修善寺への慰安旅行に参加した。転勤してきて日が浅いわたしは、まだ旅行会費を1回も納めていない。それなのに参加してもいいのですか? 上司に尋ねたら、慰安旅行は会社から半分ほどの補助が出るから、遠慮はいらんよ。それを聞いて、あつかましく参加した。1968(S43)年11月23日~24日のこと。

↑ 伊豆・修善寺温泉街のホテルに着くなり早速、おっさん達だけで河原に出向いた。

↑ 翌日、修善寺境内を適当に散策。もみじがきれいに色付いていた。

↑ 富士山が観えるスポットでは若い娘たちと。

↑ こんな像の前では、若い娘がいない。おっさんと姐さん(失礼)たちと。
でも、この像、伊豆のどこに建っていたのだろうか? 覚えていない。いわれも分からない。

↑ 伊豆・修善寺温泉街のホテルに着くなり早速、おっさん達だけで河原に出向いた。

↑ 翌日、修善寺境内を適当に散策。もみじがきれいに色付いていた。

↑ 富士山が観えるスポットでは若い娘たちと。

↑ こんな像の前では、若い娘がいない。おっさんと姐さん(失礼)たちと。
でも、この像、伊豆のどこに建っていたのだろうか? 覚えていない。いわれも分からない。
赴任して半月後、総勘定元帳の作成プログラムの作成を命じられた。主任のY口さんから、「これができたら免許皆伝をあげるよ」と、言われて、俄然やる気を出した。というのも、使用していた電子計算機がNEAC1240と、電算学院で少しかじった機種と同じだったからだ。1968(S43)年11月のこと。
電子計算機のプログラムが完成して運用してもらえると、こんどは新たな心配が湧いてきた。「計算が間違っていないか?」と夢でうなされる。目覚めて、「あぁー夢でよかった」と安堵する。
そんなとき、買って間もないこのレコード(↓)にも慰められた。

朝のくちづけ/伊東ゆかり(昭和43年10月10日発売)
電子計算機のプログラムが完成して運用してもらえると、こんどは新たな心配が湧いてきた。「計算が間違っていないか?」と夢でうなされる。目覚めて、「あぁー夢でよかった」と安堵する。
そんなとき、買って間もないこのレコード(↓)にも慰められた。

朝のくちづけ/伊東ゆかり(昭和43年10月10日発売)
10月19日(土)、尼崎支店の勤務もこの日まで。午前中にみんなにお別れの挨拶をしてから、午後、大阪の新勤務先へ挨拶に出向くことになった。急な転勤であり、ぼくとしてもやり残し感がある。でも、辞令後「一週間以内に赴任しなければならない」との社内ルールがあるので、後をよろしくと尼崎を発った。1968(S43)年10月19日のこと。
午後、辞令をもって新勤務先に到着する。そこには、先日のセンター見学で会った人、その方が上司となった。早速、センター長、企画調査部長へ挨拶に行くよう、指示された。
別のフロアーに居たセンター長に挨拶を済ませ、次がみんなが怖がるK池部長がいる本館へ一人で行く。バンドの練習でときどきお邪魔してたビルだが、企画調査部のフロアーには近づいたことがない。
アポなしでドアーを開けて入口でたずねると、「一番奥で椅子に腰かけて、両足を机上に上げている人だという」 土曜の午後なのでくつろいで居られたのだろう。近づくとすぐ正座に戻られ、こちらをにらんだ。俳優の伊藤雄之助にどこか似ている。
挨拶して辞令をお見せする。そしてお話を聞いていると、「君、両手を後ろで組むな! 前で組め」と、注意された。ぼくはハッとした。無意識に後ろ手を組んでいたのだ。上司の前で後ろ手を組むのがどれほど失礼なことか、このときハッキリ分かった。それ以来、人の後ろ手が気になってしょうがない。怖いK池部長のおかげで、後ろ手は直った。
午後、辞令をもって新勤務先に到着する。そこには、先日のセンター見学で会った人、その方が上司となった。早速、センター長、企画調査部長へ挨拶に行くよう、指示された。
別のフロアーに居たセンター長に挨拶を済ませ、次がみんなが怖がるK池部長がいる本館へ一人で行く。バンドの練習でときどきお邪魔してたビルだが、企画調査部のフロアーには近づいたことがない。
アポなしでドアーを開けて入口でたずねると、「一番奥で椅子に腰かけて、両足を机上に上げている人だという」 土曜の午後なのでくつろいで居られたのだろう。近づくとすぐ正座に戻られ、こちらをにらんだ。俳優の伊藤雄之助にどこか似ている。
挨拶して辞令をお見せする。そしてお話を聞いていると、「君、両手を後ろで組むな! 前で組め」と、注意された。ぼくはハッとした。無意識に後ろ手を組んでいたのだ。上司の前で後ろ手を組むのがどれほど失礼なことか、このときハッキリ分かった。それ以来、人の後ろ手が気になってしょうがない。怖いK池部長のおかげで、後ろ手は直った。
10月14日、また、本部に集められて、貸出のブラッシュアップ研修に参加させられた。冒頭で事務センターの見学があり、デスクサイズコンピュータの実物を始めて見た。1968(S43)年10月のこと。

↑ 研修会日程表
午前中は、見学やらZD(ZeroDefects:事務ミス撲滅)運動など軽いテーマで楽だったが、午後は、しんどかった。
でも、見学で見たコンピュータは初めてだが、その言語が先月まで通っていた電算学院で習った機種(NEAC-1240)と同じとは奇遇だった。

↑ NEAC-1240 デスクサイズコンピュータ
支店からテレックスで送信したデータは、こんな小さなコンピュータで集計していたとは、驚いた。
説明している担当者は、かなり年配の人だった。(1週間後にこの人の元で仕事するようになるとは、このときは想像だにしていなかった)
ZD運動の講師は、先月会った前尼崎支店長のT部さんだった。休憩時間ちょっとちょっと手招きなさるので近づくと、今日付けで転勤の辞令が出ているぞと耳打ちされた。うわぁー、びっくり仰天だ。半年後ぐらいにそうなればいいなぁなんて思っていたのが、予想以上に早かった。

↑ 研修会日程表
午前中は、見学やらZD(ZeroDefects:事務ミス撲滅)運動など軽いテーマで楽だったが、午後は、しんどかった。
でも、見学で見たコンピュータは初めてだが、その言語が先月まで通っていた電算学院で習った機種(NEAC-1240)と同じとは奇遇だった。

↑ NEAC-1240 デスクサイズコンピュータ
支店からテレックスで送信したデータは、こんな小さなコンピュータで集計していたとは、驚いた。
説明している担当者は、かなり年配の人だった。(1週間後にこの人の元で仕事するようになるとは、このときは想像だにしていなかった)
ZD運動の講師は、先月会った前尼崎支店長のT部さんだった。休憩時間ちょっとちょっと手招きなさるので近づくと、今日付けで転勤の辞令が出ているぞと耳打ちされた。うわぁー、びっくり仰天だ。半年後ぐらいにそうなればいいなぁなんて思っていたのが、予想以上に早かった。
10月3日、電算学院を無事卒業できた。いつ、ケツ割るやわからんから、同僚のE子ちゃん以外、会社には内緒にしていた。だが、もうばれてもよい。一日おきだが、阪神電車から地下鉄に乗り継いで難波球場の近くまで通う。それにしてもよく続いたなぁ。もう、行かなくてよいと思うと、うれしくなってきた。1968(S43)年10月のこと。

↑ NEAC-1210電子計算機
前半の実習に使われた日本電気製のコンピュータ。
500ワード(ワード=6桁)の磁気ドラム記憶。
マシンランゲージによるプログラミング。
入出力:キーボードタイプライタ
:紙テープリーダ/パンチ。
その夏のある日、阪神百貨店の前で「バイオリズムによる占い」に遭遇した。しばらく立ち止まって占いを眺める。依頼人の生年月日をキーボードから入力するだけで、タイプライタがカタカタ動き出す。印字が止まると帳票を引きちぎって手渡された。
見せてもらうと、帳票には2本のカーブが星印(アスタリスク)で、表現されていた。そのコンピュータは奇遇にも前半の実習機と同じ型のものだった。

↑ 卒業証書はもらったが、たいした内容を学んだわけでない。また、人に見せられたものでもないが、将来、大きくなった孫の目にでも留まればよし。

↑ NEAC-1210電子計算機
前半の実習に使われた日本電気製のコンピュータ。
500ワード(ワード=6桁)の磁気ドラム記憶。
マシンランゲージによるプログラミング。
入出力:キーボードタイプライタ
:紙テープリーダ/パンチ。
その夏のある日、阪神百貨店の前で「バイオリズムによる占い」に遭遇した。しばらく立ち止まって占いを眺める。依頼人の生年月日をキーボードから入力するだけで、タイプライタがカタカタ動き出す。印字が止まると帳票を引きちぎって手渡された。
見せてもらうと、帳票には2本のカーブが星印(アスタリスク)で、表現されていた。そのコンピュータは奇遇にも前半の実習機と同じ型のものだった。

↑ 卒業証書はもらったが、たいした内容を学んだわけでない。また、人に見せられたものでもないが、将来、大きくなった孫の目にでも留まればよし。
9月21日、早いもので、あれから半年過ぎた。半年前、清水の舞台から飛び降りる覚悟で月給の2カ月分を支払い、申し込んだ電子計算学院。受講料の元を取るには何としても、学んだことを活かすことだ。そんな思いから、昨年までお世話になった前尼崎支店長のT部さんに、相談しに大阪へ出向いた。1968(S43)年9月のこと。
土曜日の勤務を終えて、大阪へ着いたときは夕方だった。「なんじゃ、相談とは」 企画調査部へ赴任されて近寄りがたい存在になられたその方、私がアルコールが苦手なことをご存知だった。
新地の手前の喫茶店で、電子計算学院の修了見込みや、近い将来への希望を聞いてもらった。帰り際、「怖い(?)企画調査部長に、それとなく話してみるわ」と言っていただいた。
怖いと言えばこんなことがあった。支店に、名前を名乗らない電話が架かってきた。わたしが受話器を取るといきなり、「支店長に代われ」と告げられた。「どちら様ですか?」と尋ねると、「ええから代われ」と繰り返す。傍で聞いていた課長が機転を利かせて支店長に、「企画調査部長から電話です」と伝えていた。
後で聞くと、女の子でも電話口の声で判るのだと云う。わたしには判らなかった。恐持(こわも)ての企画調査部長は、俳優の「伊藤雄之助」に似た方で、わたしは入社したときから、気になっていた人だった。
土曜日の勤務を終えて、大阪へ着いたときは夕方だった。「なんじゃ、相談とは」 企画調査部へ赴任されて近寄りがたい存在になられたその方、私がアルコールが苦手なことをご存知だった。
新地の手前の喫茶店で、電子計算学院の修了見込みや、近い将来への希望を聞いてもらった。帰り際、「怖い(?)企画調査部長に、それとなく話してみるわ」と言っていただいた。
怖いと言えばこんなことがあった。支店に、名前を名乗らない電話が架かってきた。わたしが受話器を取るといきなり、「支店長に代われ」と告げられた。「どちら様ですか?」と尋ねると、「ええから代われ」と繰り返す。傍で聞いていた課長が機転を利かせて支店長に、「企画調査部長から電話です」と伝えていた。
後で聞くと、女の子でも電話口の声で判るのだと云う。わたしには判らなかった。恐持(こわも)ての企画調査部長は、俳優の「伊藤雄之助」に似た方で、わたしは入社したときから、気になっていた人だった。
9月14日は第二土曜日で、半年に1回ある利盛り作業の日。担当外であっても女子社員たちは、自分の仕事を終えてから、作業を手伝っていた。女子社員でないわたしも、経験あるので少しだけ手伝った。でも後輩女子は手伝う気配がない。このままでは、仲間外れになるので、そうならないように、手伝いを指示した。1967(S43)年9月のこと。
半年まえに転勤してきたばかりの娘。すんなり引き受けてもらえると思ったら、違った。課長が言っていた通り従順ではない。「そんな手伝いは、課長からするように聞いていない」 そう言って、帰りかけた。うわー、困った。日々のOJTを任されていたわたしの、面子が丸つぶれだ。
なんとしてでも手伝ってもらいたい。追っかけたら、近くのバス停に立っていた。バスが来るまでに説得して、やっと戻ってもらった。
席に戻っても、万年筆の先端でわたしの手のひらを刺すなど、ふざけた態度をとる。わたしも頭に血が上り、声を張り上げていた。我に返って手のひらを見ると血がにじんでいる。拭き取ってもインクは消えない。まるで刺青のようになった。

↑ 万年筆の先が刺さってできた、手のひらの刺青

↑ そのときの万年筆。インクカートリッジの寸法が最近のものと合わないが、スポイトでインクを補給すればまだ使える。関連会社から褒美にもらった万年筆なので、大事に使ってやるつもりだ。

↑ このころ、「夕月」/黛ジュン(1968.9.10発売)をラジオでよく耳にした。
半年まえに転勤してきたばかりの娘。すんなり引き受けてもらえると思ったら、違った。課長が言っていた通り従順ではない。「そんな手伝いは、課長からするように聞いていない」 そう言って、帰りかけた。うわー、困った。日々のOJTを任されていたわたしの、面子が丸つぶれだ。
なんとしてでも手伝ってもらいたい。追っかけたら、近くのバス停に立っていた。バスが来るまでに説得して、やっと戻ってもらった。
席に戻っても、万年筆の先端でわたしの手のひらを刺すなど、ふざけた態度をとる。わたしも頭に血が上り、声を張り上げていた。我に返って手のひらを見ると血がにじんでいる。拭き取ってもインクは消えない。まるで刺青のようになった。

↑ 万年筆の先が刺さってできた、手のひらの刺青

↑ そのときの万年筆。インクカートリッジの寸法が最近のものと合わないが、スポイトでインクを補給すればまだ使える。関連会社から褒美にもらった万年筆なので、大事に使ってやるつもりだ。

↑ このころ、「夕月」/黛ジュン(1968.9.10発売)をラジオでよく耳にした。
8月17日、夏はやっぱり海だと、分解掃除を済ませたカメラを持って友と、洲本市の大浜海岸へやってきた。1968(S43).8月のこと。
先週は琵琶湖で楽しんでる最中、カメラを琵琶湖に落とすなど、散々な目に合った。それを取り返そうと、洲本の大浜海岸へやってきた。やっぱり潮風はいい。夏はやっぱり海の方が楽しい。
3年前まで勤めていた地域なので懐かしい場所だ。だが、護岸工事で海岸が変わっていた。工事を終えて間が無いのか、赤い山土が砂に混じっていた。

↑ 防波堤工事を終えたばかりの海岸。

↑ 三熊山に近づいていくと昔通りの大浜海岸が広がっていた。
小学時代の遠足にはじまり、何度も来たところだ。来るたびに思い出が積み重なる。
今回、支店や海の家へ寄らないつもりだったが、東京(銀座)へ転勤した元上司にばったりと出会う。とっさに、家族で来られていると思い、長い挨拶もせず、会釈だけで別れた。
「たそがれの銀座」(唄:黒沢明とロス・プリモス)というムード歌謡が流行っていたときだった。
先週は琵琶湖で楽しんでる最中、カメラを琵琶湖に落とすなど、散々な目に合った。それを取り返そうと、洲本の大浜海岸へやってきた。やっぱり潮風はいい。夏はやっぱり海の方が楽しい。
3年前まで勤めていた地域なので懐かしい場所だ。だが、護岸工事で海岸が変わっていた。工事を終えて間が無いのか、赤い山土が砂に混じっていた。

↑ 防波堤工事を終えたばかりの海岸。

↑ 三熊山に近づいていくと昔通りの大浜海岸が広がっていた。
小学時代の遠足にはじまり、何度も来たところだ。来るたびに思い出が積み重なる。
今回、支店や海の家へ寄らないつもりだったが、東京(銀座)へ転勤した元上司にばったりと出会う。とっさに、家族で来られていると思い、長い挨拶もせず、会釈だけで別れた。
「たそがれの銀座」(唄:黒沢明とロス・プリモス)というムード歌謡が流行っていたときだった。
8月10日、土曜日の仕事を2時に終えてから、若人の会で琵琶湖へ泳ぎに行った。湖の家を予約してあったので、夕食まで大分時間がある。早速、水着に着かえて湖畔に向かう。すでに、ボート乗り場は、順番待ちで行列ができていた。時間待ちの間、写真を撮っているとボートの順番がきた。早速、乗ろうと、カメラ片手にボートに足をかけたら、ボートが傾き、ぼくは、カメラとともに水中に沈んだ。1968(S43).8.10のこと
沈んだところは、背が立つところだったので、溺れはしなかった。気が付いたらカメラを手放していた。こりゃいかん、水の中だ。それに気づいて再び潜り、カメラを引き揚げた。うわー、えらいこっちゃ。中のフィルムも水に浸っていそう。そう思いながらフィルムを巻き戻し、カメラの水を拭き取った。
汚れ水に使ったカメラは、分解掃除するまで使えない。誰かがそういうので、その後は撮影出来ず。カメラも心配だが、撮影済みのフィルムも心配だ。写真がだめになっていないか、そんなことばかり考えていたら、その後の記憶まで飛んでしまった。

↑ 琵琶湖の水につかった写真。
泥水に浸かった撮影済ネガでは、やはり画像が不鮮明だった。写っているボートは傾いたもの。

↑ その夏は、この曲「天使の誘惑」が流行っていた。そして年末にレコード大賞を受賞した。
沈んだところは、背が立つところだったので、溺れはしなかった。気が付いたらカメラを手放していた。こりゃいかん、水の中だ。それに気づいて再び潜り、カメラを引き揚げた。うわー、えらいこっちゃ。中のフィルムも水に浸っていそう。そう思いながらフィルムを巻き戻し、カメラの水を拭き取った。
汚れ水に使ったカメラは、分解掃除するまで使えない。誰かがそういうので、その後は撮影出来ず。カメラも心配だが、撮影済みのフィルムも心配だ。写真がだめになっていないか、そんなことばかり考えていたら、その後の記憶まで飛んでしまった。

↑ 琵琶湖の水につかった写真。
泥水に浸かった撮影済ネガでは、やはり画像が不鮮明だった。写っているボートは傾いたもの。

↑ その夏は、この曲「天使の誘惑」が流行っていた。そして年末にレコード大賞を受賞した。