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にしのサラリーマン時代

にしがサラリーマンで幸福のときを書いている。当時の知り合いや、子や孫たちに読んでもらいたい。

お嫁に行くんだね

2016-03-05 23:00:00 | サラリーマン9年生
 日曜日のお昼前、テレビを点けると水原弘が、譜面を片手に持って唄う姿が映った。のど自慢のようだが、違う。その舞台に腰掛けてじっと水原を見守る人もいる。どうやら、その人のために水原が唄っているようにも見えた。1971(S46)年の暮れか、1972(S47)年の新春ごろのこと。

 初めて聴く曲だが、いい歌だなぁ。唄い終わると審査員の批評が始まる。背景にはNHK「あなたのメロディ」と番組名が掲げられていた。

 アマチュアが作詞・作曲して、その音楽をプロの歌手に唄ってもらう。そんな番組だとやっと解かった。何回かのコンテストを経て、アンコールの多い曲を放送していたのだ。

 番組を見て何日経っただろうか。同年4月にレコード店の棚に陳列されていたので買って帰った。


 ↑ お嫁に行くんだね 唄:水原弘 1972(S47)年3月5日発売

 この曲が出る前年、年長の従兄弟がお嫁さんをもらい、つづけて別の従姉妹がお嫁さんに行った。いずれも、父の名代で結婚式に出席したが、うらやましかった。
 そしてその年、会社のバンド仲間が4月に結婚するとの案内状が届いた。楽器を持ち込んでの宴席演奏になりそうなので、何曲かを練習始めた。「ハワイアン・ウェディング・ソング」「ここに幸あり」や、新しいところでは前年に流行った「瀬戸の花嫁」など。

定期・通知のオンライン化

2016-02-22 23:00:00 | サラリーマン9年生
 2月21日から定期預金と通知預金のオンラインが稼働した。アプリケーションを担当したのはBさんとTさん。これで、オンライン・リアルタイムのアプリケーションは、普通預金、当座預金、定期預金、通知預金の4科目になった。1972(S47)年2月のこと。

 全業務を一気にオンライン化せず、業務を区切って開発する。その方針で開発してきて三段階目を終えたのだ。プログラミング要員も徐々に増えてきた。

 勤務3年を越したわたしに、課長から意向を問いただされた。「これから10年、この職場に勤めてくれないか」と。もともと営業が苦手なわたしだから、この居残り話は、願ったり・叶ったり。農家の跡取りだが継ぐ気はない。農業から脱出できる機会を狙っていたので、希望が湧いてきた。

 職場内はみんな支店から来た人ばかり。営業で得た知識・経験をコンピュータシステムに活かしてほしいと、アプリケーション開発につかされる。アセンブラー言語習得後、意気揚々とコンピュータを動かしていた。

 このころ、ボーリングブームが続いており、職場でもマイボールを持つ人が出てきた。わたしもまねしてマイボールを買った。


 ↑ 課のボーリング大会


 ↑ マイボール一式。金欠と言いながら、よく、買う金があったなぁ!
 40年あまり、押し入れに眠っていた。(2016年3月に廃棄処分)

追突

2016-01-29 23:00:00 | サラリーマン9年生
 1月28日、休暇をもらえたのでひとり、ドライブに出る。手に入れて2カ月の中古のブルーバード。どこへ行くともなく走ると、国道2号線を走っていた。
 この道は1ヵ月前、クリスマス(イブ)パーティを終えた帰り、二人の女の娘を乗せて送った道だ。どのあたりで降ろしたかなぁ。キョロキョロとわき見をしながら走っていると、前車のブレーキに気付くのが遅れた。あわててブレーキを踏んだが遅かった。(わたしの目にはあまり目立たない)前車のバンバーを凹める追突をしてしまったのだ。1972(S47).1.28のこと。


 ↑ 追突前、こんな感じで走っていた。(再現写真)
 事故後、大したこと無いので示談成立。(修理代金を持って)翌日逢うことを約束して、別れた。


 ↑ 翌日、約束の場所へ行き、修理見積もり16,000円を払い、一件落着。
 その結果、またまた金欠生活に再突入。女の娘を誘い出すなんてしばらく先になりそうだ。

 そんな沈んだとき、青春ドラマ「おれは男だ!」を観ると癒される。主題歌' さらば涙と言おう 'は、ドラマの主役の森田健作が唄う。元気がもらえる曲なのでレコード(昭和46年3月発売)を買ってよく聴いた。

 そのころマスコミは、もうすぐはじまる札幌冬季オリンピック(2月3日~13日)の準備状況を報じていた。前年に発売(競作)されたオリンピックのテーマソング「虹と雪のバラード」が、なかでもトワ・エ・モワの曲がよく流れていた。

母と伊弉諾神宮へ

2016-01-01 22:54:48 | サラリーマン9年生
 1月1日、実家で朝寝坊していると、「お雑煮が伸びるので早く起きてこいよ!」 と、おふくろに起こされた。1972(S47).1.1のこと。

 起きて、雑煮を食べ終わると、「これから伊弉諾神宮へ交通安全のお守りをもらいに行こうよ」という。「交通安全なら近くの神社でいいじゃない」と言うと、「絶対、伊弉諾神宮へ行きたい! だから乗せていってくれ」という。
 おふくろにそこまで言われると、断れない。早速、二人で行くことにした。


 ↑ 自転車にも乗れない昔人間のおふくろの道案内で、西淡湊から海寄りの道を北へ車を走らす。やっと郡家の標識を見つけ、やがて伊弉諾神宮に着いた。
よく考えたら、わたしは2回目の詣でだ。前回は7年前、成人式にセットされた新成人の団体バス移動なので楽だった。昔馴染みの同級生ばかりなので、遠足の雰囲気でもあった。だが今回は、母と二人。何を探すでもなくキョロキョロしながら、拝殿に向かう。

 拝殿で祈願してからは、交通安全のお守りを買い、ぐるっと境内を一周して帰ることにした。


 ↑ 早速、お守りの札をつりさげて、帰路についた。
 隣村まで帰ってくると、今度は、回り道をねだってくる。よくよく尋ねると、おふくろの仕事先で1・2度行ったことがある先だという。そこに、年頃の娘が居るから寄って行こうと、強引に家の近くまで案内された。

 少し離れたところの路上から家の方向を眺める。数分ほど眺めただろうか、「変に思われるよ!早く帰ろう」とわたしが言い出し、車のエンジンをかける。「いい娘ならもうじき見つかるよ!」とわたしは言い逃れを言って、帰ることにした。

 そうか、忘れていた。2か月まえ、母から寮に「いい娘がいるよ」との手紙が来ていたことを。隣村だと農業を継ぐ嫁にうってつけだと、母の策略。これには応じられないと、正月からすこし抵抗してしまった。

はじめて、フェリーで帰省

2015-12-31 22:00:00 | サラリーマン9年生
 12月31日(金)は年末だが営業日である。営業店では遅くまで残業しているだろう。でも、センターでは持ち場によって退社時刻がきまる。すでに18:00を過ぎている。わたしの勤務時間は終了だ。早速帰省を申し出て退社した。去年までの帰省は電車と客船で帰ったが、今年は自分の車で、フェリーに乗って帰ることにした。1971(S46).12.31のこと。

 会社を18:00過ぎに出て車で走ること半時間あまり、はじめて行く「甲子園フェリー」乗り場に着いた。切符を買おうと窓口へ行くと、すぐ出るから急いでといわれる。出帆時刻が迫っていたのだ。

 乗船すると意外にもガラガラ。乗客が少なく長椅子を独り占め出来てしまうぐらい。

 長椅子の客席ではテレビをみんなで観ていた。歌謡番組のようだ。森進一が「おふくろさん」を歌っている。あれ! もう紅白が始まっているのかな? よく観ると違っていた。レコード大賞の発表番組だった。

 この曲、わたしには、くすぐったくてあまり好きになれない。「おふくろ」と呼び捨てにするわたしには、どこかが違っていた。
歌詞の意味するところに非はない。何回も聴いていると、まんざらでもない。帰省途中でもうじき「おふくろ」に会えると考えるうちに居眠ってしまった。何分ほど経ったか、フェリー着岸のアナウンスが流れたので目が覚めた。


 ↑ 甲子園フェリー(写真は1985年就航のもの)

ダンス・パーティー

2015-12-24 23:22:02 | サラリーマン9年生
 12月20日、ユニバックのSEさんから、クリスマス・イブのダンスパーティ券を2枚をもらった。早速、昨日の太閤園で知った女の娘に電話をする。でも、はじめての電話でもあり突然過ぎると断られた。
それでもと近くの喫茶店で待ってみたら、切符2枚を手渡すことができた。1971(S46).12.20のこと。

 24日、パティー当日の夕刻が来た。わたしは車を社ちかくに置いたまま、女性二人を梅田駅で迎えた。そして三人でパーティ会場へ向かった。
 会場ではすでにパーティーが始まっており、SEさん等が大勢踊りまくっている。そこへ二人の女の娘も踊りの仲間に入れてもらった。
 パーティは盛んになりつつもさそった娘とはまだ踊れない。踊りたくてもパートナーチェンジができない。いつも誰かと組んでおり、時間だけが経ってゆく。とうとう気になる人とは踊れずじまい。今日はそのまま帰ることになった。
 早速、車をまわしてきて、二人を自宅近くまで送って行った。夜もだいぶ更けたクリスマス・イブのこと。
 そのことを、女房に聞いてみたら、「そうだったかしら、忘れた」とそっけない返事。

 二人を降ろしたあととんだ事態になる。車のガソリンがほとんどなくなっていたのだ。
 このままでは路上でエンストしまう。そう思いながら、国道や府道を迷いながら走り回る。深夜のためどこのスタンドも閉店状態。これでは寮に帰れない。そう思ったとたん覚悟を決めた。次に見つける閉店スタンドの前で車中泊をしようと。

 冬の車中泊は寒さでなんども目が覚める。やっと朝になり、1番で給油してもらった。
これで路中エンストの心配がなくなり、余裕で車を飛ばせた。寮に帰ってはいつもの朝食のあと、出社した。

'71 クリスマス パーティ

2015-12-19 23:00:00 | サラリーマン9年生
 12月19日、大阪ブロック恒例のクリスマスパーティが太閤園であった。日曜日なので寮からマイカーで出向く。お酒は飲めない方だし、かわいい娘でも乗せる機会ができたらいいなぁとおもい。いい加減なことを考えながら車を飛ばした。買ってから半月あまりの車で、どこへでも乗って行きたかったのだ。1971(S46).12.19のこと。



 ↑ 昼間は、子供達のための家族パーティ。



 ↑ 夕方から大人向けの音楽会。



 ↑ のど自慢もあり。



 ↑ ダンスで疲れた合間は、生演奏で時間を過ごした。

 毎年のことだが今年も軽音楽の演奏でパーティに参加した。演奏が終わり、喫茶コーナーへ休憩しに行くと、元支店の上司クーさんに出会う。そのテーブルには見知ら女の娘が2人居る。紹介してもらうと、前の支店の女の娘だとわかった。どうやらわたしが転出した2年後に入ってきた人らしい。

 帰り際、車で送ろうと申し出たが、先約があって断られた。

はじめて、自動車を買った

2015-11-21 22:44:04 | サラリーマン9年生
 2ヶ月前に異動してきた「ハーちゃん」と呼ばれる人がいた。貸付業務をバリバリやる先輩(3つ上)と聞いていたのでどこか近寄りがたい。
 そのハーちゃんが、20万円の中古車がある、買わないかと近寄ってきた。前の支店で知り合った鉄工所からもらった話だと紹介された。そんな誘いを受けて、その鉄工所へ連れて行ってもらった。1971(S46).11.19(金)のこと。

 5時過ぎ、会社へ乗ってきたハーちゃんの車で鉄工所へ向かう。鉄工所では売り手側の主任さんが出迎えてくれて、車を見せてくれた。


 ↑ 自動車部の主任さん


 ↑ 見せてくれたのは、濃い緑のブルーバード1300でした。タクシーに使っていたので10万km走っているが、一通りの点検はしてあるので、十分乗れるよとのこと。
また、今は緑だが、白色に全面塗装してから渡してあげるというから、契約成立。中古車といえども、高根の花のマイカーを手に入れるチャンスがきたと、またもや清水の舞台から飛び降りる決断だった。


 ↑ 数日後、再び行くと、真っ白に塗りかえられていた。
お金を払い、引き渡された車に乗って、独身寮まで帰った。

 中古でも20万円は高い。なにしろ、独身でまだまだ安月給のサラリーマン。4カ月分の月給に相当した。この1年間、オンライン・システムの開発に従事していたので残業が増えていた。おかげで、その手当で払えた。おかげといえば、親切な先輩が異動してきたことも挙げられる。有り難うございました”先輩”。

六甲方面へピクニック

2015-11-03 23:00:00 | サラリーマン9年生
 11月3日、会社仲間等で六甲方面へピクニックに行った。先週のみかん狩りは南の方に住む仲間が多かったが、今回は西の方面の人が多かった。1971(昭和46)年11月3日のこと。


 ↑ 六甲山の最寄駅から市街地を抜けて山へ向かう。



 ↑ 道路の舗装が未だの道をリーダーの案内に従ってさらに歩いて行く。


 ↑ だいぶ歩いてお腹が空いたので休憩。

 山麓から下り、神戸の市街地が目の前に見え出すと、みんなの足が急に軽くなっていた。

みかん狩り

2015-10-24 23:00:00 | サラリーマン9年生
 10月に入り、オンライン・アプリケーションの追加開発が順調に進んだので、ここらで一息入れようとみかん狩りに行った。本来なら、課全員での社員旅行となるべきだが、若い社員が多いので会費の積み立てがそんなにも貯まっていない。それで近場のみかん農園へのみかん狩りとなった。場所は違うが昨年に引き続いてのみかん狩りだったので、参加者は少なかった。1971(昭和46)年10月24日のこと。


 ↑ みかんを腹いっぱい食べた後で、記念写真



 ↑ 別グループのところでもパチリ。

鋭気を養って翌日からまた仕事に励んだ。
その何日後に、久しぶりにヒットの兆しのレコードを伊東ゆかりが出したので、買ってきて聴いた。


 ↑ 「誰も知らない」 伊東ゆかり
 1971.10.25発売。

'71.8 琵琶湖近江八幡国民休暇村でキャンプ

2015-08-08 23:00:00 | サラリーマン9年生
 8月7日から8日にかけて、大阪地区のキャンプ大会にバンドで参加した。今年も琵琶湖畔だが、前年の湖西でなく湖東の近江八幡国民休暇村キャンプ場であった。1971(S46).8.7~8のこと。


 ↑ 琵琶湖近江八幡国民休暇村のキャンプ場。キャンプファイヤーを囲んでみんなで楽しむ。ハワイアン・バンドの演奏に合わせて、いつものメンバーがフラダンスを披露していた。


 ↑ 琵琶湖近江八幡国民休暇村のキャンプ場で水泳を楽しんだ。


 ↑ 琵琶湖近江八幡国民休暇村のキャンプ場


 ↑ 琵琶湖近江八幡国民休暇村のキャンプ場


当座開発のBGM

2015-08-02 23:00:00 | サラリーマン9年生
 普通預金オンラインの次は当座預金のオンライン開発だ。積み残しになっていたリエントラント(多重処理)化やオンライン中のセンターカットなどは、予想以上に開発時間を要した。

 大型コンピュータは1台しかない。本番処理をやりながら開発するには、コンピュータが空いている休日か夜間だけとなる。休日か夜間でのテストは、能率が悪い。それゆえ予定が1カ月以上も遅れた。

 そして8月2日、やっと当座預金アプリケーションの本番がスタートできた。1971(S46).8.2のこと。


 ↑ スケジュールが気になるのか、UNIVACのシステム・エンジニアとの打ち合わせも頻繁に行われていた。



 ↑ 黒板の予定を見ると、7月最終週から8月が示されている。



 ↑ 音楽テープを持ち込んだ事務室の片隅。


音楽テープには、ラジオ体操とジミー竹内のドラム演奏が収録されていた。

 ↑「自由の女神」/ジミー竹内のドラム演奏

 会社へラジカセプレーヤーを持ち込んで、休憩中に聴いていたら、いつのまにか、執務中にも流すBGMになっていた。

 コンピュータ事務室は、別棟のパンチャー室(全員女子)と違って男性ばかり。コンピュータ・プログラミングを行う部屋だ。テンプレート(流図器)で流れ図を書いている人。アセンブラー(言語)でコーディングしている人。いずれも鉛筆で手書きする作業ばかり。延々とつづけていると嫌になってくる。そんなとき、音楽が流れると気分の転換がはかれた。

 何年か経ってこの曲をかけると、耳に残っているらしく「当時の開発を思い出す」と、同僚仲間が言っていた。わたしもそうだ。

オンライン採用の一つの考え方

2015-07-26 23:00:00 | サラリーマン9年生
 1971(昭和46)年の社内誌を見ていたら、未読の記事に出会った。「オンライン採用の一つの考え方」と題したわたしの上司の上司の、そのまた上司の投稿だ。当時のオンライン・システムは、経営トップの関心ごとであり、設計方針が経営者側から下達される。その根拠が今頃判り、恥ずかしい限りだ。太平洋戦争中の学徒出陣で戦地へ赴かれた経験のあるこの方は50歳ぐらい。コンピュータ担当役員兼部長であった。1971(昭和46)年7月のこと。



 標題


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葛城山へ

2015-07-04 23:00:00 | サラリーマン9年生
 7月に入り、仕事の見通しが立ったので、休日出勤から解放された。誰かと出かけようと思ったが、付き合っている女の子はいない。そこで、この春、システム開発の合宿(桜橋の寮)で出会った女の子を誘った。

 女の子が居る寮母さんは、わたしが甲東園寮でお世話になったひと。なんとかしてと頼んだら、応じてくれた。青森から縁故で入った娘なので、寮母さんの了解には、きびしいものがあった。そして、やっとピクニックに連れ出すことができた。1971(S46).7.4のこと。



 ↑ 大阪駅前の本屋に立ち寄って「ハイキングガイド」ブックを買う。さっそく本に載っている奈良の葛城山へ登ることにした。



 ↑ 葛城山は去年団体で行って、今年は2回目。
  今回は違う人と二人。彼女は歌唱ブックを持ってきていた。初めてのデートで照れくさかったが、ピクニックソングを何曲か歌って、下山した。ネガ写真には、山頂での数枚しか写っていなかった。