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にしのサラリーマン時代

にしがサラリーマンで幸福のときを書いている。当時の知り合いや、子や孫たちに読んでもらいたい。

父も日和山

2009-03-20 20:52:03 | サラリーマン2年生
 古いネガをスキャナで取り込んでいたら、撮った覚えがない父(47)の旅先写真が出てきた。ネガのままでは父だと分からず、ピンボケなので、焼き付けの注文をしていなかった。サラリーマン2年生の終わりごろ、1965(昭和40)年2~3月のネガフィルムから。

 そういえば一度だけ、父にカメラを貸したことがある。農協の団体旅行に参加するのでカメラを貸せという。カメラを触ったことがない農家のおっさんだが、うまく使えるだろうか。大枚はたいて半年前に買った一眼レフ。壊されないかと心配になったが親を信じて、新しいフィルムを装てんして貸してあげた。当時のカメラは、今と違って露出や焦点距離はすべて手動式。距離の合わせ方を伝授してあげた。

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 ↑ 旅先で誰かにシャッターを押してもらったのであろう。ピンボケの本人が1人だけとはちょっとさびしい。だが、背景がきれいに撮れているので場所は分かる。この何日か前に、私も会社の仲間らと行ってきた場所、城崎の日和山だから。

 出発前、自分のコートはボロボロだから、サラリマン2年の息子のコートを着て行った。それにしても、フィルムの巻きあげが分からなかったのか、カメラに自信がなかったのか、他人や景色が1枚も撮られていない。写っていたのは、この一枚だけ。5年早く、この写真に出会っていたら、生前のおやじに確かめられたのに、今はできない。(残念)2009.3.20記


若人の会:水仙郷へ

2009-02-22 23:17:47 | サラリーマン2年生
 2月下旬の日曜日、灘黒岩の水仙郷へ行ってきた。'65 のこと。若人の会の誰かが、水仙が見ごろだと聞いてきたので、急に決まった。おなじ南淡町に住んでいながら、山の反対側の様子は知らなかった。海岸沿いに立派な道が通じたこと。「すいせん」の名所が出来つつあることも。

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 ↑ 南淡町(後に南あわじ市になる)灘黒岩の水仙郷。1965.2下旬撮影。
水仙はピークだったのかもしれないがアングルが悪い。花より団子の弁当シーンが写っていた。
淡路島で一番高い「諭鶴羽山(ゆづるはさん、608m)」の南斜面にあり、2月とは思えぬ暖かさだった。

2009.2.10現在の同じ場所 ↓20090210
 ↑ 南あわじ市灘黒岩水仙郷  南あわじ市から借用しました。




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 ↑ 伊丹公民館の水仙。
水仙をみると故郷の水仙郷を思い出す。先日、公民館の裏庭で水仙を発見。おもわず、携帯で撮ってしまった。2009.2.21撮影。


若人の会:日和山へ

2009-02-17 23:40:29 | サラリーマン2年生
 1965(昭和40)年2月13~14日、洲本支店の若人の会で城崎、日和山へ一泊旅行した。日本海は少ししけており、風があって寒かった。


↑ 城崎温泉「福田屋」
  「温泉」であったまって「すき焼き」でワイワイ飲み食いして泊めてもらったところ。

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 ↑ 沖に見える島に、龍宮城があるのだとか。

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 ↑ 寒い中、御苦労さん。




はじめてのスキー

2009-02-07 23:15:01 | サラリーマン2年生
 2月7日は日曜日。わたしは、誰かの呼び起こす声で目を覚ました。まだまだ眠い。寝ぼけまなこをこすりながら、周りを見渡すとS水先輩の顔。先輩の顔を見て、そこが神鍋高原のスキー宿であることにやっと気がついた。

 私は昨日からスキーツアーに参加していたんだ。福良に勤める先輩に誘われて、はじめてのスキーバスツアー。昨日は土曜日、仕事を終えてから二人は、夕方発のツアーバスに乗り込んだ。洲本ターミナルでは空いていたバスだが、途中で人を乗せてほぼ満員になり、フェリーで明石へ渡った。そこから4~5時間、目的のスキー場に向って走った。

 途中のトイレ休憩では、初めて買うタバコの銘柄に迷ってしまった。最終的には着てる衣裳色に合わせて、赤いパッケージのスリーエイ19650206にした。そんなにカッコつけても、吸うと噎(む)せるばかり、味などわかるはずがない。バス内では、人の歌を聴いたり歌ったり。ワイワイ騒いでいたら友達ができた。明日のスキーは楽しくなるぞ。スキー宿に着いてみんなと、ふとん大盛りのホームコタツで雑魚寝した。



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 ↑ 昨夜ぱらついていた雪は上がって、一転スキー日和になる。
私の初滑りを歓迎しているようだ。指導員の説明を受けながら、貸し靴を貸しスキーにセットできるようになって準備OK。はじめは横ばいで高台へ上がる練習。その後徐々に斜滑降に挑戦する。やがて、滑れるようになったと思ったら帰る時間になっていた。

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 ↑ 指導してくれた方や、バスで友達になった方と記念撮影。
 帰りのバスでは途中下車して(富島?へ)帰っていった。 住所・名前を正確に聞いていなかったので、この写真は渡せず。(ごめんなさい)1965(S40).2.7
 このころ、この曲を聴いていた。


 そのバスだが出発時間は深夜を予定。夕食終わって深夜まではトランプなどで時間をつぶす。明石まで戻ってからも、始発フェリーのダイヤを待つため、全員休憩所で仮眠。熟睡しそうになったら、たたき起されて再びバスに乗る。終点の洲本に着いたのは、8日(月)の7時半になっていた。出社にはちょっと早いなと思いながら事務所を覘くと、すでに用務員のおばさん(m崎さん)が来ていた。毎日こんなに早いと知り、頭が下がった。1965(S40).2.8

給与計算がコンピュータ化

2009-01-24 02:44:59 | サラリーマン2年生
 今月からけったいな形の給与計算書に変わった。いつもN川課長の手書きなのに、今月のは横に細長くてちいさい。本社に電子計算機が導入されて、その機械に適したサイズなのだと説明された。1965(昭和40)年1月24日のこと。


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 ↑ これが、そのけったいな給与計算書。
横に細長くて、財布やポケットに入れにくい。会社の台帳は、糊で貼りつけている。まねして、厚紙に貼り付けて保存していたら、その後、40数年たって出てきた。


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 ↑ 前月(昭和39年12月)までの給予計算書。
給料日の前日に、課長がそろばんで計算しながら、作ってくれていた。今後は、その手間がなくなり、楽になったと。


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 ↑ NEAC1210電子計算機。
 これでみんなの給料が計算できるのか。どれがコンピュータなんだ。コンピュータとはこんなにバラバラな形をしているのか。知らなかった。支店にあるバロース計算機とは全然ちがう。昭和40年1月号の社誌で初めてコンピュータの形を知った。

 これまで私は、コンピュータは神秘な音を出す四角い装置だと想像していた。毎朝、出勤前に聴くラジオ番組が不思議な効果音を出していたからだ。たしか、「三国一郎のコンピュータがお答えします」と言ってた(?)ように記憶する。 聴取者から寄せられた質問に、コンピュータが考えて答えを出すように演出された番組。コンピュータが考える合間、宇宙を連想させるような神秘な効果音が流れる。それを聴いて、コンピュータとは珍しい音を出すものだと私は信じた。

 この写真を見たとき、コンピュータは大きな箱だとのイメージは裏切られた。しかし神秘な音はどこからか出るのか? コンピュータは神秘な音を出すものだと信じる私は、その部分はどれだろうかと見続けていた。


 それより6~7年前の昭和33~4年、中学校の先生が言っていた。コンピュータは、全部が舶来なんだ。国産のコンピュータって1台も無いんだと。
 この先生、先生の中では若手でまだ20代(?) 薄緑色の「ポインタ」という単車に乗って学校へ来ていた。ほかの先生達は、「ドリーム」、「ベンリー」、「ヤマハ」など流行っている単車なのに、この先生だけはみんなと違っていた。
そのユニークな先生が、コンピュータメーカーの話をしてくれた。↓
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 ↑ 先生が指し示す雑誌の裏には、IBMXXXXと印刷されていた。1958(S33)ごろの中学校の先生(まんりょうはん)の理科か社会科の授業でIBMを教わった。

 世界一のコンピュータメーカーであること。アメリカに本拠をおいて、世界の各国に工場を置き生産していることなど。
それからというもの、雑誌の値段とともにIBMxxxxを見てはその先生のことを思い出していた。
 教わってから6年後の月刊「明星」にもまだ、IBMXXXXと印刷されていた。

'65成人式

2009-01-15 17:26:09 | サラリーマン2年生
 1965(昭和40)年1月15日(金)は成人の日で祝日。わたしも、二十歳になったので町主催の成人式に出席した。式会場は少し離れた場所、用意されたバスに乗りあって、会場に集合した。

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 ↑ 該当者数。
 同年生れはこの倍以上居るはず。どうやら島に残っている人だけの出席だった。

 バスの道中、ラジオから今日にふさわしい歌が流れていた。
それがこの曲だ。↓

 ↑NHK成人の日の歌「若いこだま」(橋幸夫の歌)
 それ以来、この曲を聴くたびに、元気がもらえた。(感謝)
Playボタンをクリックすると音声が再生されます。

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 ↑ わたしの中学校区の記念写真。
中学卒業以来のなつかしい人たちにも会えた。

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 ↑ となりの阿・中学校区の写真。
 この地区は、和装で美女のかたが大勢いた。その美女に近寄りたくて撮りました。(失礼しました)1965(S40).1.15

ダムと門崎

2009-01-12 23:52:58 | サラリーマン2年生
 親戚のいとこが親と一緒に来たので、みんなで大日川ダムを観に行った。1965(S40).1.2

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 ↑ 帰省していた弟も歩いて参加。
 足もとの道は、小石がごろごろ転がる土の道路。むかしは、雨水の流れでできた、くぼみが多い山道だった。が、工事車が入るようになってからは、道幅が広ろげられ平坦にならされていた。


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 ↑ 昨秋(1964.9)完成した大日川ダム。やっと堤防の上まで仕上がったと、日雇いで働いていた父の説明が続く。

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 ↑ ダムの内側はこんな様子。
 水をため始めて4か月。まだ、水がそれほど溜まっていない。底の方に少し水面が見える程度。

 これよりさかのぼること10年(昭和30年)、わたしがまだ小学生のころ。日雇いで働く父に、忘れた弁当を届けたことがある。ダム工事が始まってまもない、現場はまだ、水がチョロチョロ流れる谷川でしかなかった。それから10年経ち、大きなコンクリート堤防ができて、いまは水を溜めはじめている。
 すでに、むかしの谷川は水面に沈んでなくなっていた。すこし寂しい気もするが、水田の水不足が解消されるので、うれしい。

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 ↑ コンクリート堤防を渡って、対岸で写真を撮る。山肌には岩石むき出しのところがところどころあり、初々しい。

 父の説明では、山肌にクラッシャーと呼ぶ岩石を砕く装置があって、採掘した岩石をベルトコンベアで運び入れて、細かくくだいていたのだという。

 父の仕事は、クラッシャーの入り口で岩石を誘導する役目。クラッシャーは、岩石を砕くので大きな音が出る。そばに付きっきりの仕事なので、だんだん耳が慣れてくる。とうとう職業病というか、難聴になってしまった。労災の認定を受けようと聴覚検診を受けたが、わずかに聴こえると判定されたので労災保険は出ないのだという。

 それから十年、わたしの妻の実家近くに、外国製の補聴器を売る店を妻が見つけた。超小型耳かけ式は、デンマーク製にかなわないと店員がいう。性能はそうだろうが値段も倍ぐらい高かった。プレゼントしてあげたら、いらい、その補聴器が手放せないと言う。釣りに行って海に落としたり失なったら、同じ製品をこっそりと取り寄せて、付けていたらしい。

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 ↑ コンクリート堤防の上から、下流方面を眺めるとこんな景色。
 険しい谷間、大日川の源流にダムが築かれたのがわかる。
盆地のように遠くの平野が観える。そのど真ん中にこんもりとした森がある。7年後の昭和47年、(当時の)皇太子殿下と美智子妃殿下が天皇家の墓ということでみえた場所、「淳任天皇の御陵」だ。その向こうの山が、南辺寺(なんべいじ)山脈。それを超えると、淡路島の南西端である門崎(とさき)である。



 翌日(1965.1.3)、その淡路島南西端の門崎(とさき)へ行った。↓
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 ↑ ここが門崎(とさき)、鳴門岬ともいい淡路島側の先端である。
 観える海が渦潮で有名な鳴門海峡。遠くに見えるのが徳島県鳴門市の先端で孫崎。おおきな鉄塔には送電線が架かり淡路島へ電気が送られる。淡路島は関西電力の管轄だが、不足時に四国電力から融通してもらうらしい。送電線の下にうず潮の場所があるが、潮流によって渦が巻いたり・巻かなかったりする。残念ながら今日は巻いていない。時間つぶしに弟が、岩山に登るというので、手前でカメラを構えて待った。
 よく見ると、叔母さんやいとこも海面まで下りていた。寒いのによくやるなぁ。
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 ↑ 20年後の1985(S60).6.8、おなじ場所から観る鳴門海峡は、この橋(大鳴門橋)で一変する。
 海に張り出した岩山はどうなったのかと、この写真を44年前の写真と見比べた。よく見ると、橋脚のつけねに少しだけ覗いて写っている。それを見つけてわたしは喜んだ。

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 ↑ 先端に行くには尾根をとおる。そこには、こんな小さな鳥居が立っていた。
 鳥居に小石が乗っている。何のためだろうか? 何かの祈願だろう。真似してひとつ乗せた。すると弟が鳥居にぶら下がり揺らしかけた。こら!、鳥居を揺さぶってはだめ。尾根の神様が怒って石を落とすぞ!(笑)

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 ↑ 叔父・叔母・いとこら全員で記念写真。
 寒くなってきたので、渦潮はあきらめて帰ることにした。1965.1.3のこと。

家族写真

2009-01-11 23:26:49 | サラリーマン2年生
 弟が帰省して久しぶりに家族がそろった。カメラを買い替えてから、いつも被写体を探していたところだったので、さっそく家族全員で撮った。

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 ↑ 祖母と両親、それに弟・妹の計7人が私が育った家族。
祖母が入った家族写真は、これがはじめて。写真を撮ると寿命が縮むと、明治30年生まれの祖母の口癖。なんとか説き伏せたら、着物を着かえて入ってきた。1965(S40)年1月2日のこと。

 還暦おやじが還暦を迎えた時は、祖母・母ともすでに他界、その後、父も亡くなる。


'65新年祝賀会

2009-01-06 23:04:45 | サラリーマン2年生
 1965(S40)年の元旦は、勤務店で新年祝賀会、昼から地元青年団の新年会と続いたので、あわただしかった。

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 ↑ 勤務店での新年祝賀会。
サラリーマン2年目の今年、初めて祝賀会に出席した。
稲荷神へ奉げたお神酒は、おいしかった。同席した職場の先輩たち。1965(S40)年1月1日、於、洲本支店。


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 ↑ 地元青年団の新入歓迎新年会。
今年、中学を卒業する(学生服の)3人を迎え、庵のおっさん(前列中央)を招いてすき焼きを囲んだ。1965(S40)年1月1日、於、生子の公会堂。

 今、改めて見ると、だんじりの乗り子が3人この写真に写っている。小学3,4,5年生の3人が1954(S29)年4月12日の春祭りに乗り子を務めた。なつかしいなぁ!もう一人6年生がいたが写っていない。そういえば、この場所がだんじりの太鼓と唄を練習したところでもあるのだ。

 今もそうだろうが、3月の下旬から4月上旬に練習する。だんじりに乗る地元小学生が3~4人選抜されて、年行司のもと太鼓の打ち方を練習する。基礎を教わった次には、祭礼団とともにだんじり唄を合唱練習する。この練習の途中、休憩で出たせんべいは格別の味だった。湯呑のお茶に固いせんべいをつけて、ふにゃっと軟らかくなってから食べる。この食べ方を知ったのはこのときだった。でも、家に帰ってその話をしたら「祖母から人前でそんなことしたら、いかんぞ」と注意された。
 それからというもの、瓦せんべいや生姜せんべいなど硬いせんべいに出会うと、そっとつけて食べることがある。その度に当時のことを思い出す。2009.1.6記


'64クリスマスパーティ

2008-12-20 23:06:10 | サラリーマン2年生
 12月20日は日曜日。会社は休みだが職場のクリスマスパーティがあるので、いそいそと出かけた。昨年はサラリーマン1年生でパーティに参加するのがやっとだったが、今年は違う。サラリーマンの2年生だ。すくなくとも、年下の女の子と踊れるかもしれない。後輩は何人参加しているだろうか、行くのが楽しみだ。
 ということで、パーティー会場へ向かった。1964(昭和39)年のこと。

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 ↑ 先輩達は、はやくもダンスに。

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 ↑ ダンスの合間にのど自慢。カラオケシステムなんてない時代、バックは生演奏だ。

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 ↑ 踊るパートナーを探しているうちに、時間が過ぎていく。

テーブル席では、飲んだり食べたりダンスを眺めたりで、大いにもりあっがていた。


秋の社員旅行

2008-11-23 23:52:23 | サラリーマン2年生
 11月22日~23日は、今年唯一の連休。その前日の土曜日から夜行バスを利用して、二日半がかりで富士・箱根までの遠出の社員旅行ができた。熱海に泊まり、帰りは、開通したばかりの新幹線に乗る。初めての新幹線ということで、ホームでは新しい車両をバックに記念写真の連続。私も、先日買い換えた一眼レフでたくさんの写真を撮った。1964(昭和39)年11月21日~23日のこと。

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 ↑ 夜行バスが富士山の裾野に着いたときは、まだ薄暗い夜明けだった。

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 ↑ 十国峠へつながるケーブルカー。その登り口の駅前にほぼ全員集合。なにやら修学旅行みたい。

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 ↑ 夕べお世話になった「つるやホテル」。
 昨夜、数人で「お宮の松」を観に行こうと、海岸を散歩するも松は見つからなかった。しかたなく帰ると、ホテルの前にあるではないか。バカみたい(笑)。
その前で、翌朝写真を撮る。

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 ↑ 帰りの新幹線熱海駅。開業2か月めの新幹線ホームは、真新しい。列車がゆっくりと入ってきている。

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 ↑ ホームに到着の列車を背に、パチリ。

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 ↑ 列車が熱海を走りだし、みんな席についた。すると、窓の外に富士山が観えた。予想をしていなかったのであわててカメラを取り出した。通路から窓ガラス越しに撮った富士山。

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 ↑ 秋の社員旅行は、もうすぐお開き。新しいカメラの撮り初めも、このシーンで幕を閉じる。


 巷には、「お座敷小唄」が流行り、前夜の宴会でも誰かが歌っていた。
それ以来、”富士の高嶺に降る雪も・・・”と聴くたびに、今回の富士・箱根旅行を思い出す。


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 ↑ これが、その「お座敷小唄」。


 ちなみに、このとき利用した新幹線の車両は、ゼロ系と言うらしい。そのゼロ系は、2008.11.30限りで、(山陽)新幹線から消えるらしい。
44年間、ご苦労さまでした。

カメラを買い替えた

2008-10-31 22:47:08 | サラリーマン2年生
 4月に買ったカメラを下取りに、新しいカメラを手に入れた。
 下取りといっても、すんなりと行かなかった。カメラケースの内側だが、マジックインキで名前を書いたのがいけなかった。そこで、カメラ屋さんからの提案を受け入れ、店頭陳列で、高値に売れるのを待つことにした。陳列すること2か月。やっと買い手がついた。

 売れたカメラは、買ってまだ半年しか経っていない。初めての一眼レフということで当初は気に入っていた。でも、何といってもハーフサイズカメラ。大判に引き延ばすと、ピントの甘さが目立ってしょうがない。夏の社内野球でチームが優勝したおり、生意気にも、写真屋気取りで撮った全員写真。上役からの要請で大きく引き伸ばして、支店の会議室に飾ってもらうことになった。伸ばすと、アラが目立って見れたものでない。それゆえ、大損覚悟で買い替えることにしたのだった。写真左がハーフサイズカメラ、右が普通サイズの一眼レフカメラ。1964(S39)年10月のこと。

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 新しいカメラは、月給の2倍の34,000円。古いカメラが20,000円で売れたので、お足し14,000円。冬のボーナスが待ち遠しい、サラリーマン2年生の秋だった。



聖火ランナーに同期がいた

2008-10-10 15:07:17 | サラリーマン2年生
 10月10日(土)、午後3時過ぎ、聖火の最終ランナー坂井君が162段の階段を上って聖火台に聖火を点じた。
その聖火とは、第18回東京オリンピック大会のもの。それに関連するローカルな記事が、社内誌(1964(S39)年11月号)に載っているのを、44年も経ってから見つけた。

 記事は、東京オリンピックが始まる2週間前、9月27日(日)のできこと。
 私が勤める会社の社員2人が国内を聖火リレーする10万人のうちの2人を務めていたのだ。2人と私は同じ歳で、1963(S38)年春、同じ会社に入社した同期生。同期なのに私は、走っていることすら知らなかった。淡路島勤務の私とはかけ離れた存在だったのだ。
 彼らが走ったコースは、京都府福知山市と和歌山県橋本市。それにしても二人の走る日がよくもまぁ同じ日になったものだ。

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 ↑ 京都府福知山市を走る同期生。
  9月27日、午前9時過ぎ。小雨の中、次の中継点で出迎えの拍手を受けつつ、次のランナー引き継ぎ点(大山神社前)まできたところ。


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 ↑ 和歌山県橋本市を走る同期生。
  9月27日、午前11時40分ごろ。菱田産業前から橋本専売公社前までの約2キロメートルにおよぶ市内のメーンストリートを走る。


 2人とは、入社時の集合研修で顔を合わせる程度だったが、さわやかな印象を持った。高校時代スポーツをやっていたので、スポーツマンらしさが評価されて、地域の聖火ランナーに選ばれたのだろう。
今度会ったらお二人に、ご苦労さんでしたと、言いたい。1964(S39)年のできごと。


台風20号で支店が浸水

2008-09-27 23:58:17 | サラリーマン2年生
 9月25日朝、出勤してびっくり。街全体が水浸しになっていたのだ(写真左)。前日から日本列島へ近づいていた台風20号、室戸岬では瞬間風速76メートルを記録、25日未明に淡路島を縦断していた。
 中心気圧が960ミリバール(=hPa)と大型だったので、被害が大きかった。台風通過が満潮時であったので海面が上昇、大川の水かさが増えて堤防が決壊するなどで、街全体が水浸しになった。支店事務所は、床が上がっていたので水浸しにはならなかったが、裏庭やガレージには、コンクリートブロックや土嚢が山積みされていた。昨夜の当直や防災に当たった人のご苦労がうかがえた日だった。サラリーマン2年生(19歳) 1964年9月25日のこと。


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 ↑ 左の写真は当時の社内誌から。 右のビル(洲本支店)は2000年ごろまであったが、今はなかった(駐車場になっている)。


 数後日、床上浸水したところを見舞うと、畳を上げて床下いっぱいに土砂が溜まっている家があった。今後の清掃を考えると途方にくれるとおっしゃっていた。道具もなく非力な私にはどうしようもなかった。


「慶野の松原でキャンプ」

2008-08-03 23:43:26 | サラリーマン2年生
 先週は島まつりで賑やかに踊ったが、今週は慶野の松原でキャンプを実施した。去年は、洲本大浜の予定だったが、台風の影響で中止になり残念だったが、今年はできた。好天気にめぐまれて、飯ごう炊さん、カレーを作って食べた。おいしかった。1964(S39)年8月8日~9日のこと。


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 ↑ 慶野の松原に全員到着。点呼を兼ねて集合写真をパチリ。


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 ↑ 飯炊き当番の方、暑いのにご苦労さんです。

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 ↑ イワさんが作ってくれたカレーライス。あっという間に鍋が空っぽになった。