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にしのサラリーマン時代

にしがサラリーマンで幸福のときを書いている。当時の知り合いや、子や孫たちに読んでもらいたい。

1年間の思い出

2008-03-31 23:53:25 | サラリーマン1年生
 入社して1年経った。その間、いろいろな出来事があった。世間知らずのわたしには、戸惑いの連続だった。

伝票に名前と金額を書いてハンコを押すと、なんで現金がもらえるんだ?
預金の出金は、預けた金を取り戻す行為だから理解できたが、会社の用事に使う現金を出すときは、理解できなかった。
フリーの出金伝票に理由を書いて自分の印を押す。すると、伝票と引き換えに現金が出る。ふしぎだなぁ。

 こんなこともあった。

複写の伝票を書くと、遠い支店に現金が届くという。でも、伝票しか送っていないのに送金できているという。不思議だなぁ。

 失敗もよくした。

電話の取り次ぎが終わっていないのに、受話器を下ろして切ってしまった。

電話口で先方の名前を伺っておきながら、受話器を置いた途端に名前を忘れてしまった。

個人の内密をうっかりしゃべってしまった。このときは、大きな問題に発展してしまい、店長代理と課長を伴って先様へ謝りに行ってきた。生涯一の失敗だった。

 用件を早とちりして間違えた。
 
電話で約束したことを忘れていた。これが、一番多い。会社で用意されているメモ用紙は書きづらいと、身勝手な私。ガリ版で自分専用のメモ用紙を作ったが、あまり効果はなかった。

会社文書を、無断で液に浸(つ)けてダメにした。当時の複写機は湿式で、透明な原稿しか複写できない。わら半紙など不透明な用紙では、紙を透明にする液に浸(ひた)してからコピーする。そうした原稿は、ビニールのように変質して、なかなか乾かず、元の紙には戻らない。だから、叱られた。

自分専用の収納印をはんこ屋で作り、業務で使っていたら後日、定期検査で判明。本社からきつ~く叱られた。上司にも迷惑をかけてしまった。

電動加算機を使って、「使うな」と叱られた。その上司は、ソロバンだけを勧めた。

現金の過不足は1円も許されない。もちろん、伝票、帳簿の計数もしかり。でも、合わないことが何回もあり、原因調査に、先輩には大分迷惑をかけた。

数えたらまだまだある。切りがないので、この辺で打ち切る。1964(昭和39)年3月。

後輩ができた

2008-03-17 22:57:54 | サラリーマン1年生
 速いもので入社して満1年経った。支店勤務のサラリーマン1年生の私は、2年生になった。先週から女性の新入社員が洲本へ4人入り、支店の空気が急に明るくなった。男性は2人の予定だが、本部研修を終えて4月に着任する。

 これで私にも、やっと後輩ができる。この1年、一番年下で何をするにも、ハイハイと受け入れていたが、今後はそうではない。でも、上司からはキツーいお言葉をいただいている。先輩として、もっとしっかりせんとあかんよ。
さらに、OJT(オン・ザ・ジョブ・トレーニング)として、ついた後輩に職務を教えてやらなければならない。そんなことを考えると、ちょっと不安もよぎるが、先輩面できると思うと、嬉しさもこみ上げてくる。ここまでが私の「サラリーマン1年生」でした。1964年3月のこと。

 次回4月からは、「サラリーマン洲本時代」として、2年目3年目を書いていくつもりです。

白浜へ社員旅行

2008-02-23 23:57:58 | サラリーマン1年生
 2月22日(土)、仕事を終えて3時半、深日渡しで、南紀白浜へ社員旅行に向かった。1泊しての翌日、バスで白浜名所を周遊した。記念写真のスポットではバスが停留する。降りて観光するよりも先に、写真屋さんの急(せ)きたてる声にひかれた。人波の流れに沿って行くとそこは被写体スタンド。みんな揃って立ち、写真を撮ってもらう。少し時間が経ち、バスが立ち寄る先に、注文待ちの写真が貼りだされるという。ガイドさんの勧めで早速、出来上がりの写真を見に行く。それを見て私はびっくり。 知らない人ばかりの中に私ら数人が写っているではないか。


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 ↑ 知っている人、数人だけの記念写真。

 今回の旅行、母店だけということで人数が少ない。そこで幹事さん、旅費を安く上げるために貸し切りバスを使わなかった。各人に周遊券を配り、空いたバスに適宜乗るのだと。団体行動をとっていてもバスがいっぱいになるとそこで発車。私ら数人は、後のバスへ分かれて乗った。その結果、知らない人たちとの記念写真になったのだ。貼り出された写真を注文するかしないかは自由だという。迷った挙句、これも記念になるかと、思い切って買った。1964(昭和39)年のことだ。

百円札がどっさり、レコードも。

2008-01-31 22:53:45 | サラリーマン1年生
 昨年、先輩に代わってレコード店の集金に出向くことになった。昨年といっても1963(昭和38)年の秋のこと。行って出された百円札に難儀した。

 1963100 ↑ ゴムバンドで止められた百円札がどっさり。1,000枚あまりある。この店を経営するご年配の女性が奥の部屋から持ってきたのだ。

 さっそく手で札勘をはじめる。千円札に比べ百円札は読みにくいのは、出納係でも経験済。しかも枚数が多いので手の湿り気がなくなってさらに読みにくい。なかなか捗(はかど)らない。そばで眺める女店主はイライラの様子だった。

 1度読みきって金額を確かめるも、店主は首をかしげる。もう一度読み直すと、一度目と額が異なる。さらにもう一度と、3回も読みなおして、やっと終えた。


 週が変わり、今度は「メクール」を持っておもむいた。メクールとは、指先に塗るクリーム。これを指に塗ったのでスムーズに読めた。

 それから数ヶ月経って、女店主が言う。「持って帰って、支店で読んで! あなたの読んだ枚数を信用するから」
そう言われて気を良くした私は、レコードを買ってしまった。橋幸夫と舟木一夫のLPを2枚もだ。プレーヤーがないのにどうして鳴らすのだろう。

 いま、ダンスの練習中で支店にはプレーヤがある。それを借りて、テープレコーダに録音できる。とっさに、そう考えていた。

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 ↑ 橋 幸夫 オールヒットメロディ集(1963 ¥1,500)


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 ↑ 舟木一夫 花のステージ(1963.11、¥1,500)


 クリスマスパーティが終わるとレコードプレーヤが無くなった。それもそのはず、ダンスの先生が持ち込んだプレーヤだったのだ。
 それから1か月。年が改まり1964年になる。安くて手頃なレコードプレーヤを見つけて買った。サラリーマン1年生は、いろいろと物要りだ。

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 ↑ コロンビア製レコードプレーヤ
電圧が変わると、レコードの音程が微妙に変化する。後でわかったことだが、家庭電源は、しょっちゅう電圧が変化しているのだと。
(この2年後、シンクロナスモーター駆動の3点セパレート ステレオを買うことになる)



 小学時代にさかのぼると、レコードについて2つの思い出がある。
小学6年の時、担任の飛T先生が、蓄音器を教室にもちこんだのだ。教壇の床に据えて、レコード盤を置き、針をピックアップに取り付けて下ろす。その前に、手回しハンドルでぐるぐるゼンマイを回すのだ。蓄音器のそばにいたわたしは、ハンドルの回し役を命ぜられたので、うれしくて一所懸命回していた。

 それから何カ月たったか?自宅の隣の竹やぶで、いちょうの葉っぱのように割れたレコード片を見つけた。となりのおじさんが捨てたものだ。それを拾ったわたしは、細い釘でレコードの溝をこすっていた。音楽の音は鳴らず、「ひゅうひゅう」とすれる音しか出なかった。1956年のこと。


 いろいろと物入りだというのに雑誌も買っていた。

↑ 1月20日を過ぎると明星2月号が店頭に出ていたので買って帰った。


中山寺成就院で合宿訓練

2008-01-10 19:31:10 | サラリーマン1年生
 1月9日~10日、入社してもうすぐ1年になる同期生(男性)が中山寺成就院で、合宿訓練をした。前回の訓練は座禅が主で楽しかったが、今回は、試験があったので、しんどかった。終わったらホッとしたが、これから先、わたしはどんな人生を歩んでいくのだろうか? サラリーマンを投げ出して、父の農業を継いでいるのだろうか? そんな気持ちにさせる、すこしつらい訓練でもあった。

クリックで拡大します。
  ↑ 社員訓練日程表

 日程表では、17:00終了だが1時間ほど早く終わった。5時をまわると薄暗くなり、記念写真が撮れなくなるという理由からだ。なにはともあれ、早く切り上げてくれたので、終わってホッとした。

クリックで拡大します。
 ↑ 帰りの参道(階段)、みんな揃っての記念写真。1964.1.10

初出勤は、さい銭勘定

2008-01-05 23:21:20 | サラリーマン1年生
 正月2日は、住吉(住吉神社)さんのおさい銭を数えるため、わたしは出勤した。洲本にも住吉神社があるとは、この日まで知らなかった。

 M野先輩が住吉さんに出向く役目。予定の時間、元旦のおさい銭を預かってきてくれた。ドンゴロスの袋には、硬貨がいっぱい入っている。主に10円だが、1円、5円、50円、100円なども混ざっている。これを選別しながら数えなければならない。それをするのが今日のわたしの役目。袋をエイヤーと持ち上げるがこれまた重い。農家出身なので、玉ねぎが詰まった俵や木箱(8貫詰め)を持ち上げることがあるが、それよりも重く感じた。

 さっそく、硬貨計数機に入れて選別と勘定を始める。だが、なかなかはかどらない。不良硬貨が計数機内の流れを邪魔しているのだ。波打つように曲った硬貨が邪魔している。その度にモーターを止めて、不良硬貨を取り出す。どうも、使っている計数機は古いうえ、調子そのものも悪いのだという。

 そのうちに先輩の、「まだ終わらんのか?」の声がする。その度に言い訳を繰り返した。これがわたし、サラリーマン1年生の今年の初仕事であった。1964(S39)年1月2日。


年末は残業

2007-12-31 23:35:46 | サラリーマン1年生
 今日、12月31日は火曜日。サラリーマン1年生が迎えた初めての大みそか。会社は営業があり休みでなかった。夜中まで残業する長い一日でもあった。3時に入口のシャッターが下りる。これは平日と同じだが、夕方からが違っていた。一度戻った営業マンが二度目の営業活動に出る。わたしも、商店街へ出て、お得意先の御用を承りながら廻った。事務所にもどって入金処理をする。大方の営業マンが帰り、入金処理が片付いた段階で帰宅が許された。タクシーチケットを貰い、急いでタクシーに乗ると、宮田輝司会の紅白歌合戦がラジオから聴こえてきた。残り時間わずかだったが、いつも楽しむ年末気分に浸りながら帰ると、年が変わっていた。1963(S38).12.31のこと。


ダンスパーティ

2007-12-23 20:43:38 | サラリーマン1年生
 今日は土曜日。社員一同によるダンスパーティの日だ。業務が定刻3時に終わるようにと、朝礼時に忠告あり。毎週、練習したダンスの成果を出すようにと、店長からもゲキが飛ぶ。
 仕事を終えて、みんなとともにパーティー会場へ向かった。ダンスホールへ入るのは初めてなので、わくわくしていた。ネオンがともる夜の街並みは、昼間と全然違う。洲本の歓楽街にあるダンスホール、夜更けまで踊って楽しんだ。1963.12.21(土)のこと。


冬のボーナスが出た

2007-12-10 23:59:03 | サラリーマン1年生
 12月10日、待ってた冬のボーナスが出た。聖徳太子(萬券)が2枚。背広代の一部を親から借りていたので、それを返すと残りわずかとなる。でも、買いたい電気製品がある。最近流行ってきた「電気やぐらこたつ」である。先日、パンフレットをもらっていたので価格は分かっている。初めての電機屋さんへ飛び込んだ。


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 ↑ そこには、「日立赤外線ミラクルこたつ」という商品が並んでいた。早速、注文して、届けてもらった。
翌日届き、大勢の足が温もれるので、家族全員が喜んだ。1963年12月のこと。

 それまでの暖房といえば、火鉢であった。大きな火鉢と小さな火鉢。でも、火鉢では手を温めるだけなので、足元は温もらない。煮炊きするかまどは、足も手もあぶれる暖房器だったが、ばあさん専用であった。


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 ↑ 昔から使っていた炭火火鉢(左)と、3年ほど前(1960年)から使い始めた煉炭火鉢(右)。

二度目の社員旅行

2007-11-26 09:16:22 | サラリーマン1年生
 11月23日(祭)、24日(日)は、社員旅行で広島~岡山方面へ行ってきた。
洲本母店と福良・津名の両子店が一緒に行ったので、にぎやかだった。

 前の日の夕方、仕事を終えたものから順次、淡路島を出発して大阪駅に集合。22:00発の普通列車で岩国へ向かう。
1泊目は夜汽車の中だった。列車は満員で、座席にすわれず立ったまま、寝なかった人もいた。わたしは、みんなと離れたところだが、座われたので眠ることができた。

 岩国駅に着いた早朝は、連休の初日、勤労感謝の日だ。朝食をとるため旅館に向かうと、「ケネディ アメリカ大統領が暗殺される」のニュースが、速報で流れていた。みんな、びっくりした。
ニュースをほどほどにし食事を終えてから、錦帯橋~岩国城~宮島・・・広島平和記念公園~記念館・・・ここから2班に分かれて広島の宿屋へ入った。

19631123全員で記念写真
 ↑ 宮島で全員の記念写真を写す。


 宴会場に出てきた料理はカキづくし。はじめて食べる生ガキには抵抗があったが、フライはおいしかった。おかげで胸がむかつくまで食べてしまった。H上様の幹事で宴会も楽しかった。

 連休二日目、宿をあとにバスで広島駅。ここから特急「ツバメ」に乗り、姫路で乗り換えて、明石渡しで洲本へ帰った。
幹事さん、みなさん、お疲れ様でした。チョンガーのわたしは、宿直が当たっていた。1963.11.24のこと。

テレックスで年賀状

2007-11-15 23:38:19 | サラリーマン1年生
 今日11月15日は、預金を手伝ってくれるK 山先輩がいなかったので、忙しかった。K 山先輩は為替(かわせ)が本業で、先日入ったテレックスの研修のため、本部へ出かけていたのである。1963(昭和38).11.15のこと。


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 ↑ これがテレックス装置。
 テレックスとは、ダイヤルで相手先の端末装置を呼び出して、こちらのキーボードを押して文字を送ったり、反対に、受信電文を受けたら紙に印字できる電電公社から借用の電信装置である。

 この装置では、文字を送らず紙テープに鑽孔(さんこう:穴を開ける)することもできる。鑽孔したテープは、紙に試し印字して、文章に間違いがないことを確認してから、あらためてテープを掛けて送るのである。
先輩が習ってきたことを、そばで見たり、聞いたりしてわかった。

 いままで、役席が書いた暗号電報(頼信紙)を、1km先の電報局へバイクで運んでいたが、今後は、その必要はない。電報局へはわたしも何回か運び役をしてきたが、その仕事から解放されるのだ。
(テレックスは、電信為替の端末機として重宝するが、昭和48年の為替のオンライン化でお役御免となる。10年間の寿命だった)



 テレックスをこっそり使用
 機械好きのわたしは、宿直の日が来るたびに、先輩の許しも得ないでこっそりと、テレックス操作を練習していた。手引書がそばにあったので読むと操作できた。紙テープに鑽孔できようになり、そのテープから印字できるようにもなった。12月のある日、郵便局で買ってきた年賀状をテレックスで印字して、友達に出した。

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 ↑ テレックスで打った年賀状。小さなカタカナと数字でしか印字できないので、こんなイメージである。

 ある女友達から、「テレックスの係りをやっているのですか?」の返事が来た。カナタイプと言わず、テレックスだと見破ったのはこの娘1人だけだった。その友達は、どうやらテレックスを操作する仕事に就いていたようだ。

今日は日曜農業

2007-11-10 23:23:14 | サラリーマン1年生
 今日、11月10日は日曜日。午前中は耕運機で田を耕し、その日のうちに玉ねぎを植えた。

 数年前までは、畝つくりだけに10日ほどかかっていた。牛にすきを引かせて荒く耕し、土が乾くと、鍬(クワ)を使い、また牛をつかいを繰り返して土をこなごなにする。そんなしんどい仕事が、農業の機械化で1日に短縮し、1人の仕事に変わってきていた。
 わが家も2年前(高二のとき)、遅ればせながら機械化に突入した。父親の年収の3分の1にあたる大金(十数万円)をつぎ込んで耕運機を買った。その日から、耕運機の操作は私の役目となっていた。今年もまた、玉ねぎを植えるシーズンが来たので、会社勤めの合間に、耕運機の操作に精を出していた。1963.11.10(日)のこと。(写真クリックで拡大)


耕運機とわたし
 ↑ 稲の取り入れを終えて、稲株だけ残った田んぼ。
ここを耕すのは、尺4(耕す幅が1尺4寸)の耕運機。小型ゆえ耕すスピードは遅かったが、5反(たん)百姓ではこれぐらいでいいのだと、父親に諭された。

たまねぎが植わった田んぼ
 ↑ 今朝まで稲株だけだった田んぼは、その日の夕方には、玉ねぎ畑に一変していた。
その変りかたは、まず、耕運機で耕して畝(うね)をつくる。その畝の表面に4筋の細い溝を堀り、玉ねぎの苗を1本1本、手で植えるのである。
溝切りや手植えは、家族全員で行うので、10歳ごろから手伝っていたが、たいへん疲れる作業だった。

社交ダンスのレッスン

2007-11-02 23:29:12 | サラリーマン1年生
 今日11月2日は土曜日なので仕事は3時で終わる。その後、社交ダンスの練習を社内の会議室で行った。先日、店長の提案で、講師を呼んでダンスを練習することになり、店のみんなは拍手喝采。今日は、その講師が来てくれる練習の初日となっていた。

 私のダンスといえば1年前、高校3年の体育祭でフォークダンスを踊ったのが最初であった。今度は、これまた初めての社交ダンス。 まずは講師の合図で、「スロー・スロー・クイッククイック」。スロートロットとか言っていた。男女がペアーを組み、練習が夜まで続いた。

 これからクリスマスまで毎週末、店長命令(?)で練習が続くのである。12月下旬のクリスマスイブは、賑やかなダンスパーティにするのだと、みんな練習に励んでいた。1963.11.2のこと。



稲こきを手伝った

2007-11-01 00:11:18 | サラリーマン1年生
 10月は稲刈りや稲こきなど、米の収穫作業で忙しい。昨日もそうだったが今日も会社から帰ると、父と母が庭で脱穀作業をしていた。どうやら私が帰るのを待っていたようだ。お月さんの明かりも少しはあるが、納屋に延長コードを張って、電灯を明々と点けていた。

 よっしゃ、私も手伝うぞと、田んぼに干してある残りの稲を運び込んだ。買って2年目の脱穀機は、調子よく動いていたが、古い発動機の音は、となり近所に響き渡っていた。

 3年前に買った耕運機搭載のエンジンをなぜ使わないのだ。新しいのなら音が小さく、あまり近所に響かないのになぁ。でも取り換えがうまくできなかったのか。それじゃ、しかたないな。

 この頃は、どこの家でも大きな音を鳴らして農作業をしているから、お互い様。どこからもクレームはこないはず。1963.10.のこと