goo blog サービス終了のお知らせ 

にしのサラリーマン時代

にしがサラリーマンで幸福のときを書いている。当時の知り合いや、子や孫たちに読んでもらいたい。

駅の看板に目が留まった

2012-03-01 23:51:40 | サラリーマン5年生
 3月に入り、また後輩が入ってくる。それに合わせてところてん式に転勤がある。普通に勤めていると3年ぐらいで転勤になると、先輩が言ってた。とするとあと1年でわたしも転勤だな。もし転勤を拒むものなら辞めさせられる。辞めるとつぶしが利かないこの職業、路頭に迷うのは困る。そんなことを考えながら通勤していたら、駅のホームの看板が目に入った。「電子計算学院、4月1日開校、生徒募集中」と描いてあった。1968(S43)年3月、阪神電車今津駅でのこと。

19680301
 ↑ 「電子計算学院」の看板があった阪神電車・今津駅。(再現)

 電子計算学院ってどんな講義内容だろう? もしかして仕事に役立つかも。 そう思ったとき、中学時代の恩師、「まんりょうはん」の言葉を思い出した。
 「いま欧米では、コンピュータの開発競争しているんだ。中でも、アメリカに本社を置くアイビーエムという会社は、世界中に支社を持ち、世界のコンピュータの8割以上を占めているのだ」と。日本でも雑誌の裏表紙に I・B・M xxxと刷りこまれて、アイビーエム・コンピュータの使用を示している。当時、そんなことを農家の子供達に説いてどうなるんや。その時は理解できず、軽く聞き流していた。

 それから4~5年後、毎朝聴くラジオで、「コンピューターがお応えします」という番組が耳に留まった。聴取者から寄せられたよろず質問に、コンピュータが考えて、答えを三国一郎さんが応えるという内容だった。コンピュータが考えるといってもラジオに効果音が流れるだけ。宇宙の彼方から虻か蜂が飛来するような、そんなイメージ音だった。

 さらに2~3年経って先日のこと、支店の事務データを本部のコンピュータに移行する手伝いをした。よその課の仕事だが、暇人は手伝うようにと命が下ったのだ。今までの手書台帳から移行用紙へデータを書き写す。少人数でやるには量が大すぎるので、みんなで分担したのだ。書き写したデータは、その後どのようになったのか知らない。コンピュータが勝手にやってくれるのだと、誰かが言っていた。

 これからはコンピュータの時代だな。そう思っていたとき、駅の看板に出会った。何か良いことがあるのかもしれない。今の仕事は、将来失業したとき、つぶしが利かない。そう言った先輩の言葉を思い出したわたしは、パンフレットだけでもともらいに行く。場所は難波の大阪球場西隣とあるから、尼崎から近い。

 翌日は土曜日。半ドンの勤務を終えて午後、申し込みに行く。受講料は4万7千円は、給料2カ月分に近い。高いのでどうしようか? しばらく考えた末に、清水の舞台から飛び降りる覚悟でお金を払った。



神鍋スキー場は大雪だった

2012-02-05 09:46:39 | サラリーマン5年生
 先日、女の子にスキーをせがまれていたマツやんが、車を借りる準備ができたと言ってきた。おっ、そうか。ならば運転手を手伝うからぼくも連れて行ってくれ。そうして数日後女子2人を加えて、4人で神鍋スキー場へ車を走らせる。目指すは太田地区の北の壁ユートピアだった。1968(S43).2.10~11のこと。

 マツやんが借りてきた車はノークラッチのトヨペットコロナ。初めて乗るノークラッチ(AT)車だった。荷物を積んでガソリンを満タンにして尼崎を出発したのは昼の3時ごろだった。天気はよく、雨の心配はない。明るいうちに姫路を通過し、運転を交代しながら北上を続けた。

 神鍋のふもとにくると車が時折り滑る感じがする。路面が凍っているのかな。車中から見えるアスファルトは、雨上がりの路面のように見える。念のため車を止めて、降りて見ると、足が滑る。やはり凍っていた。それならとアクセルの踏み加減に気をつけながら走っていく。

 しばらく走ると前方の路肩に多くの車が止まっている。タイヤチェーンを付けているのか。ぼくらもまねして路肩に止めて、タイヤチェーンを付けた。再び走り始めると急にうす暗くなり、雪が降ってきた。うわー、よかった。チェーンの取り付けが間に合った。
 それにしても、尼崎出発時とは大きく違う天気だな。雪がだんだんと大吹雪になってくる。そんな中を、やっとの思いで宿泊所にたどり着いた。ストーブで暖まり、部屋に入ったら運転の疲れがぐっと出てきた。

 翌朝、眼を覚ますとものすごい降雪だ。すでに30センチ以上は積もっている。みんなは喜んで、朝食の後、滑りにゲレンデへ向かった。ぼくはまだ疲れが残っていて、ゲレンデに向かう気力が出ない。みんなには申し訳なかったが、ひとり宿舎部屋の、窓からゲレンデを眺めていた。

19680211
 ↑ そのとき眺めた窓からの景色。

 
 昼食をとり、一すべりして帰ることにした。荷物をまとめ駐車場へ向かうと、車が見つからない。雪の小山があちらこちらに散らばっている。これだろうと手探りで雪をなでおろすと、車が出てきた。エンジンがかかるかどうか心配したが、どうにかかかった。少し暖めてから帰ることにした。

 途中、三田の山越えは積雪で通行止め。地元の人が迂回を案内してくれた。それに従い、迂回をくりかえしながら舗装されていない山道をすすんで行った。車1台がやっとの細い山道が雪かきでさらに細くなっている。峠の山頂は、急カーブで下り坂になる。スリップをさせないよう、車の反動を利用してハンドルを切ったときは肝を冷やした。この雪の峠越えシーンは、後の夢によくでてきた。


 このころ、こんな歌(↓)が流行っていた。
19680201
 ↑ ケメ子の歌/ザ・ダーツ
(昭和43年2月1日発売)



つぶしが利かない

2012-01-31 21:37:54 | サラリーマン5年生
 今就いている職業は、首になったとき、つぶしが利かないぞ! 先輩からそう言われた。それではどんな職業がつぶしが利くのかと尋ねたら、法務関係の資格を持っての職業が良い。そう言いながら先輩は、「司法書士」でもやろうかと考えているが、奥が深いのでハードルが高い。そんな一人ごとをつぶやいて、わたしに、「何に就くんや?」と質問された。そう言われても、高卒で5年目を迎えたサラリーマンには、二の句が継げない。今の仕事を一所懸命続けるしかない。まさかの時の先の先まで考えることができなかった。1968(S43)年1月のこと。


寮のクリスマスパーティ

2011-12-17 20:58:11 | サラリーマン5年生
 12月17日(日)、寮のクリスマス・パーティが池田であった。1967(S42)年12月のこと。

 去年は、このような催しは無かったが、今年はある。寮の世話役が頑張ったのか、厚生課の助成があったらしく、費用負担はなかった。代わりに女性社員を誘ってくるよう幹事が言っていた。男子ばかりの寮生にとって、女性の参加は何よりも嬉しい。だが、私には無理な話だった。誘いに応じてもらえる人がいなかった。

 そとれとは別に、ハワイアン・バンドが生演奏で参加することになっていた。わたしは、バンドのメンバーでも参加するので、女性の勧誘は堪忍してもらった。


19671217
 ↑ 会議室が、飾り付けられてパーティー会場に化けていた。
 シャンペンやコメットの音とともにパーティーはにぎやかに始まり、寮生をつつんでいった。

19671217_2
 ↑ バンド演奏、下手なわたしも後部で演奏、場を盛り上げる。

 チークダンスがちらほら始まったが、いつの間にか止んだ。すると、だれが用意したか聴きなれない音楽が流れる。それに合わせて、十人ほどの女性のダンスがはじまった。ミニスカートに白いソックス。両手を大きく振りふり、前後・左右にボックスを描くように踊る。プロのダンスを思わせるほど、踊りが揃っていた。聞くと、事務センターのキーパンチャーたちだという。この時の男性陣、ダンスの邪魔にならぬようにと周囲の壁に張り付いて、フロアー中央をただ眺めるばかりであった。


店長が代わった

2011-11-13 00:16:05 | サラリーマン5年生
 11月になって店長が転勤した。厳しいなかにやさしさを秘めた方だった。行先は本社だ。うらやましいなぁ。代わって、来た人は体格がよくて大きな人。笑顔が印象的な人だが、近寄りがたい。でも、あたらしい職場の雰囲気を感じながら、みんな頑張っていた。1967(S42)年11月のこと。


尼崎支店、秋季旅行は六甲山

2011-10-14 23:54:55 | サラリーマン5年生
 10月14日(土)は秋季リクレーション、予算が無いので近場の六甲山での食事会となった。六甲山ホテル前でバスを降りて山頂を少し散歩。時間が来たのでホテル前までもどると、そこではなかった。ホテルの傍のテント張り屋形へ誘導された。肉を焼く匂いがそこかしこに漂っている。初めて食べたジンギスカン料理だった。1967(S42)年10月のこと。

19671014
 ↑ 六甲山頂


寮の近くのたばこ屋へ

2011-09-30 23:39:44 | サラリーマン5年生
 1967年ごろだった。寮の反対側、踏切向こうのたばこ屋へよく行くようになった。かわいい娘さんがお店番していたからだ。
 最初は、煙草の銘柄を伝えて買う。何回目からだったか、「いつもの」と言って売ってもらおうとした。顔を覚えてもらえたかどうかを確かめたのだが、だめだった。

 4~5年前、ぼくが高校のときに流行った、「♪煙草屋の娘」(歌:佐川ミツオと渡辺マリ)を真似したかったのだが。


押入れにコントラバス

2011-08-24 23:30:21 | サラリーマン5年生
 8月に入って実家へ帰省したときのこと。洲本支店へ立ち寄ると顔見知りの人が半分ぐらいに減っていた。洲本を離れてまだ1年半なのに、男性社員はほとんど転勤で入れ替わってた。でも女性社員は新入以外は懐かしい人ばかり。裏の食堂ではお世話になった用務員のM崎いまおばさん。元気に暮らしているようで安心した。1967(昭和42)年8月のこと。

 そのおばさん、女の子がさみしがっているから早く帰っておいでよと、独り言を言いながら、宿直室へ案内された。押入れを開けて白いシーツをめくると、そこには大きなコントラバス(ウッドベース)が横たわっている。僕たちが作った音楽クラブの楽器だ。演奏仲間が転勤でいなくなってからも、戻ることを信じて押入れの布団を放り出して、保管していたのだ。おばさん、ありがとう。でも、ぼくはもう、戻ってくる気持ちをもっていない、と言いかけたのだが、おばさんの目をみると言葉に詰まった。

 それともうひとつ、さみしがった女の子とは誰なのか。若かったぼくには尋ねる勇気もなかった。


ボーナスで扇風機

2011-07-13 23:52:51 | サラリーマン5年生
 7月13日、待ちに待ったボーナスが出た。早速、欲しかった扇風機を買いに電気店へ走った。1967(S42)年7月13日のこと。

 昨年は、転勤してきたばかりで、物要りが多く、扇風機を買うまでの余裕がなかった。たまたま寮の部屋も北側で涼しかったので扇風機は無くても辛抱できたが、今年は違う。南側の部屋に移っていたので、夏は暑い。毎日の通勤電車の窓から見える電気店に、早く行きたかった。田舎なら盆節季払いの付けで買えるが、見知らぬ土地では現金を持たないと売ってくれない。
 さっそく、ボーナスの一部を引き出して、門戸厄神駅近くの電気店に立ち寄った。

19670713
 ↑ 購入の扇風機(現金で11,000円)
 首振り角度 0°~100°前面角度調節、切タイマー、リモートスイッチ付き、30cm卓上扇


キャンプリーダ講習会

2011-06-11 23:50:21 | サラリーマン5年生
 6月10~11日、キャンプリーダーの講習会に参加せよと、先輩に言われたので参加した。大阪近辺の支店だけ集合がかかったので60名だけの参加だった。さっそくバスに分乗して大阪府の北端、摂津高原の大阪府総合青少年野外活動センターへ向かう。1967(S42).6.10のこと。

 着くなり、レクの意義や理論の講義がはじまる。歌やゲーム、キャンプファイヤ、フォークダンスなど野外活動を一通り教わる。YMCAの方のご指導など、少し堅苦しい話もあったが、今まで教わったことがなかったので、今後の役に立つであろう。謝々。

19670611
 ↑ 解散前に班ごとに写真を撮った。知り合いはサイトウ君とクロダさんの二人だけだった。

 


春季社員慰安旅行

2011-05-31 23:01:14 | サラリーマン5年生
 4月15日から16日は社員慰安旅行。早いもので尼崎支店へ来てから3度目の参加になる。3月に入ったばかりの新入社員も一緒に行けると思ったら違った。入る前にプランを組んでいたので予定外だという。残念。入った女子社員3人には申し訳なかった。1967(S42)年4月のこと。

19670416
 ↑ 京都のホテルロビーでのスナップ(しかもネガだけ)しかない。
 全員の集合写真がない。どのような旅行コースだったのかも覚えていない


5年生なったらまた研修

2011-04-07 23:49:57 | サラリーマン5年生
 転勤して1年過ぎた。阪急電車今津線で終点まで行き阪神電車に乗り換えて、通勤することにも慣れてきた。寮生活も1年過ぎてサラリーマンになって5年目になる。さくらの季節が近づきこれから陽気で楽しい春になると思っていたら、一泊二日の社員研修がやってきた。しかも今回は去年の自衛隊体験訓練と違って、頭の訓練らしい。前もって予習しておけよと、「企業観相術」なる本が早くから送られてきた。これだと、さくらの花見どころではない。1967(S42)年4月5~6日のこと。


 19670405
 ↑ 事前の自習書「企業観相術」

196704056
 ↑ 研修会日程


サラリーマンになって5年目を迎えた

2011-03-31 00:05:23 | サラリーマン5年生
 1967(昭和42)年3月になりわたしのサラリーマン生活は5年目に入る。勤める尼崎支店にも女性の新入社員が3名入ってきた。一昨年の不景気のあおりで男性社員の採用が減り、当店には男性がひとりも入ってこなかった。
でも、若い女性社員が入ったので男性のわたしとしては、うれしい。毎年、そんな気持ちで後輩を迎えていた。


 3月21日、春分の日だというのにどこ行くあてもなく寮でごろごろしていたら、友達が誘ってくれた。仁川ピクニックセンターへ行こうと。
仁川ピクニックというから阪急電車に乗って仁川駅まで行くのだと思いきやさにあらず、乗らずに歩いて行くという。ついて行くと電車道(今津線)とは反対の方向へ向かう。寮の裏道から関学のそばを通り抜けて、進んで行くと甲山らしき山が見えてきた。

19670321
 ↑ 帰り道、どこからきたのか野良犬が、ぼくらに付いてきた


 寮に帰っても暇だったので駅前のレコードショップへ立ち寄る。
橋幸夫ファンのぼくは、レコード「夜は恋する/バラ色の二人」を買って帰った。
19670315
 ↑ 「バラ色の二人」を聴く
と元気がもらえる。エレキベースのプチプチサウンドにサックスのしゃくり音が気持ちいい。さみしがり屋のぼくにはたまらなくいい曲だ。