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にしのサラリーマン時代

にしがサラリーマンで幸福のときを書いている。当時の知り合いや、子や孫たちに読んでもらいたい。

はじめての宿直

2007-06-11 23:51:09 | サラリーマン1年生
 6月11日(火) 今日は、はじめての宿直だ。寝室へ電話機の切り替えをするなど、用務員兼運転手のY野さんに教わりながら、つとめた。
 午後10時15分、社内巡視を行う。屋上のネオンサインを消灯してから、和室にふとんを敷き10時半に就寝する。
 翌朝、夢から目が覚めた。いつもと部屋の様子がちがう。しばらくして、宿直で会社の部屋に寝ていることに気付いた。窓の外は明るくなっている。枕もとの腕時計を見ると5時30分。あれ! 針が止まっている。しまった、寝すぎたのではないかと、あわてて飛び起きた。寝ぼけた目をこすりながら、事務室の掛け時計をみると、まだ6時すぎ。よかった、朝寝坊していない。 
 朝の社内巡視を行ない、洗面していると、用務員のおばさん「M崎さん」が出社してきた。毎日、朝早く来て、ロビーや事務室のお掃除をしてくださっていたのだ。B府監査役が、この支店を開設した頃からのお知り合いで、長いこと続いているご奉公なのだと。
 新米のわたしは、朝の巡回をすべて終えて、宿直日誌に「異状なし」と書き加える。はじめての宿直、何も起こらなくてよかった。ほっとした一年生社員、1963.6.11~12のことです。


日曜日は農作業

2007-06-09 22:49:30 | サラリーマン1年生
 6月9日快晴。今日は日曜日なので、自宅(農家)の仕事を手伝った。
午前中は、栽培葉たばこの消毒作業、そして午後は、玉葱の収穫作業をした。

 葉たばこは、葉が命。葉っぱが斑点病に冒(おか)されると、商品価値がなくなる。栽培から乾燥まで掛けた手間や費用が報(むく)われない。そうならないように、若い葉っぱを消毒して病気から守る。ボルドー農薬液を手押し噴霧器(ふんむき)に入れて、一本一本の若葉に散布していくのである。毎年、父と母がやっているのだが、今年は少し手伝ってみた。結構、根(こん)がいる仕事だ。

 玉葱の収穫もまた、手間が掛かる作業だ。小学生のころから手伝っているので、その要領はよく分かっている。今日取り掛かる六畝の田んぼも、その小学生の思い出が多い田んぼだ。
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↑ 収穫まえの玉葱は、田んぼで葉が倒れている。

 小学3~4年の頃だったか、手伝うのを嫌っていると、隣の田んぼで同級生のマーやんやショウやんが手伝っている。その様子を引き合いに、ぼくや弟はよく手伝わされたものだ。またある年、父、ぼく、弟と三人それぞれが引き抜く畝を受け持ち、運動会の徒競走のように「引き抜き競争」をした。父の誘(さそ)いに載せられ、競争に挑(いど)んだのもこの田んぼだった。右手で2列引き抜き、左手で2列引き抜く。あのときの弟(2つ下、小2だったか)のやる気には感心した。だれが勝ったかは忘れたが、今度会ったらたずねたい。
 手作業で引き抜くのは毎年おなじ。引き抜いた葉っぱつき玉葱7~8個を茎部を藁(わら)で束(たば)ねる。もう1束(そく)同じものを束ねたら、わらの端を結び合う。これで、出荷時期がくるまで玉葱小屋につるして保存する。Tamanegi
← これが保存の玉葱。

 当時の収穫作業は機械化されておらず、すべてが手作業。束ねた玉葱は、手で提(さ)げると重い。にもかかわらず提げて運び、背丈より高いところへ吊るすので、結構ハードな肉体労働である。農業のなかで一番つらい作業であった。1963.6.9(日)のこと。


新米社員は遣い走りが多い

2007-06-09 22:41:47 | サラリーマン1年生
 経理係りに就いてからは、色々な雑用が多くなった。伝票による帳簿付けは、毎日ある。が慣れてくると時間が浮いてくる。そんなとき、事務担当役席の遣いで、電報局へ電報を打ちにいくことがある。電信扱いの為替というもの。電文は暗号で書かれているので文面はチンプンカンプンだか、折りたたんであるので見たことはない。でも、先方銀行の役席者は、暗号表を持っているので解読できるのだと。
遣い走りといいながらも、間違いは許されないので、気はよく使っていた。

 6月に入って女子の事務服は、夏物に変わっていた。男子は、制服がないので、自分で夏物を誂えるしかない。今日、6月8日は土曜日なので、3時に退社できる。帰りに、先輩がよく行く花野洋服店で、夏服を注文した。自前で買うのははじめて、誂えるのもはじめての洋服だ。15,300円のものを14,000円にまけてもらった。浮いたお金で、いつも行く散髪店へ。松本理髪は大人長髪:200円だった。1963(S38).6.8のこと。


今日から経理係

2007-06-05 19:32:53 | サラリーマン1年生
 入社以来の出納係は、昨日6月4日で終了、今日6月5日から、経理係を見習うことになった。

 わたしたち新入社員は、半年の間が見習い期間とされ、その間に2~3の業務を経験するよう命じられている。そのローテーションの一環で、今回、係りを異動したのだ。

 昨日まで出納をご指導してくださったK下先輩、有り難うございました。今日から経理をご指導くださるN川先輩、よろしくお願いします。

 経理係りの作業は、伝票仕訳け・集計表・日計表作成と総勘定元帳・損益補助簿の記帳が主な任務。

 今日は先ず、昨日の伝票を損益補助簿へ記帳することから教わる。ここでも、そろばん計算が必要となる。3時になるとシャッターが閉まり、窓口も閉まる。1日の伝票を集めて、勘定科目別に仕訳けてそろばんで合算する。左手で伝票をめくりながら、右手でそろばんをはじく。わたしの合算、今日、初日とはいえ、やはり誤りをだしていた。ここでもまた悪戦苦闘する農家育ちの青年だった。1963(S38).6.5のこと。


新入社員の合宿訓練を寺院で

2007-05-27 22:43:12 | サラリーマン1年生
 5月27日から28日、1泊2日の合宿訓練に参加する。新入男子社員(86名)が本社で講義を受けてから京都へ移動、支店を見学の後、宇治「緑樹院」で座禅を組む。

 入社して2カ月半。この職業を選んでよかったのかどうか、まだ迷っている。自分の気持が、理想と現実の間でゆれ動き、そして悩む。そんな青年たちの心境を、座禅(ざぜん)で払拭しようと組まれた企画である。(画像クリックで、拡大する)

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↑ 当時のファイルから「訓練日程表」


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↑ 座禅修行を終えて、全員で撮った記念写真。
 住職から法話や食事マナーを拝聴する。食事の終了時、茶碗にお茶を入れて「たくあん」でぬめりを拭き取り飲み干す。これにみんなは勇気が要った。二回目では慣れて平気になっていた。
 座禅では、警策(きょうさく)という細長い木板で、肩をたたいてくださる。姿勢が悪かったり眠っているときにたたかれるが、合掌して自ら要求することもできる。パンパンと出る音はおおきいが、そんなには痛くない。たたいてもらうと、心が落ち着く。仕事のもやもやをも忘れさせてくれる。修行というよりは、仕事を忘れさせてくれる息抜きの遊びであった。1963.5.27日・28日のこと。 2007.5.27記


またミスか?お金が合わん

2007-05-27 13:48:43 | サラリーマン1年生
 サラリーマンになって2カ月、先輩からいろいろ教わりながら仕事をしている。まだまだひよこのよちよち歩きだ。

 出納係りでは、お金が足りないことがときどきある。「現金、その場かぎり」、慎重に扱っていても起きるときは起きる。自分の責任だといって、弁償して済むというものでない。入社時の訓示では、「たとえ1円といえども徹夜してでも探せ!」だと。

 そんなことでお札の勘定には念を入れる。何度も何度も勘定してミスを防ごうとする。普通に「縦て読み」をして、さらに扇状に広げて「横読み」もする。ミスを繰り返すうちにミスがなくなってくる。先輩や上司に励まされながら、ミス撲滅にチャレンジしていた。

 記帳作業も正確性が要求される。農家の仕事しかしたことがない青年は、そろばんは苦手。高校時代、3級の検定にのぞんだが駄目だった。でも機械好き青年は、事務室の片隅にあるこんなAddx_1
「電動加算機」に目をつけていた。ある日、思いきって手元へ引き寄せ、そろばん代わりに使っていたら、上役からしかられた。「現金収支の記帳計算ぐらい、そろばんでやれ!」と。仕方なく、ゆっくり・ゆっくり「そろばん」の珠をはじいていた。

 25日の給料日や月末が近づくと憂うつになってくる。来店客が多くなると扱う伝票が増える。そんなときミスが出やすいのだ。おのずと札勘が慎重になり、お金を読む時間が延びてくる。待ち客が増えてくると、クレームにならないようにと先輩の目が光ってた。
先輩と二人のときは安心だが、食事中など、ひとりでの対応にはまだまだ不安が残る新米社員だった。1963.5のこと。


初めての社員旅行

2007-05-04 23:10:33 | サラリーマン1年生
 5月4日土曜日、いつもは3時までの仕事を、早めに切り上げて支店だけで旅行する。1963(昭和38)年のこと。洲本港から深日渡しの船に乗り、新和歌浦への一泊行程。初めて参加するわたしは、遠足気分で旅行かばんをさげて行った。みんなは、そんな大げさなかばんは持っていない。よく考えたら、一泊だもんね。手ぶらで十分だった。それを意識してからは、さげている自分がはずかしくなった。大したことではないが、新入社員には気になる持ち物だ。次回からは、持って行かなくなっていた。


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 ↑ アルバムの写真に、かばんをさげている私がいた。2007.5.4記


新入社員歓迎会

2007-05-04 21:19:00 | サラリーマン1年生
 入社1ヵ月たった4月14日(日)、本社の企画で歓迎会を開いてくれた。1963(昭和38)年のこと。会場は大阪の体育館。まだひよこの社員がぞろぞろ。先輩たちが、音楽や、かくし芸で私たちを和ましてくれた。

 びっくりしたのは、投げ釣りの実演だ。上座から釣竿をふりあげて、ぼくらの頭上を越して疑似餌を飛ばす。2度・3度天井に当たって失敗。4度目は疑似餌を変えて成功。どうも、錘(おもり)が軽すぎたと、言い訳をしていた。

 本当のおもりなら、怪我に見舞われたかもしれない。でも、安全性を確保しての演技。これをやった人は、わたしが勤める洲本店の先輩だった。前触れもなく来ていたのでビックリした。いつも大きい自動二輪で営業にまわる。ちょっと怖さを感じる、声と身体の大きなHiragami先輩。わたしたちを会場で驚かせ、笑っての演技は印象深い歓迎となった。

 音楽演奏は、プロでなく社内のグループだ。社員なのに奏でられるとは、その先輩達がうらやましかった。後に、この先輩たちに大変お世話になる。2007.4


2回目の給料日

2007-04-25 19:37:27 | サラリーマン1年生
 4月25日(土)は入社2ヵ月目、2回目の給料日だ。1963(昭和38)年のこと。1回目の3月は、勤務日数が少なく半分もなかったが、4月は1ヵ月分まるまるもらえる。上司から手渡された給料明細を見て、私は微笑(ほほえ)んだ。

 早速、電気店へ駆け込み、欲しかったテープレコーダーを買う。定価21,000円。もらった月給を全部はたいても買えない額なので、5回払いの月賦にしてもらった。

 これで、ラジオから流れてくる歌謡曲が録音できる。レコードもプレーヤーも持たない青年が選んだ、最初の音響機器だ。(トランジスタラジオは、高校のとき買ったが家族で利用しているうちに行方不明) 

 3年前の昭和35年、高校2年の橋幸夫が「潮来笠」でデビューした。その後の曲も流行っている。 歳がそれ程違わない(私の方が1つ若い)のに、しっかりしている。テレビドラマとはいえ、飛行機の整備士で努力する姿には感銘した。それ以降、主題歌の「雲が呼んでいる」や、「北海の流氷」は好きになった。駆け出しサラリーマンを元気にしてくれる。こんど放送されたらテープに録音するぞ。
 現金を毎月もらうことになった農家の青年は、半分を貯えに回し、のこりで元気を買うことにした。(画像クリックで拡大)

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↑ 初めて買ったテープコーダー「ソニー TC-211」の取説表紙。
5インチまでのオープンリールに録音できる。この時代は、まだカセットが発明されていなかった。44年も昔のこと。

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↑ 5インチのオープンリールをセットしたところ。
左のリールから磁気テープ(1/4インチ幅)を取り出し、ヘッドを通して右のリールへ巻きつける。


 わたしが、はじめてテープレコーダを見たのは、上記を購入する6・7年前のこと。小学校5年か6年(S30~31年)のときだった。1台50万円以上もする「コロンビア」製っだったと記憶する。PTAに寄付をお願いしてやっと買ってもらえたと、担任の飛T先生が教室へ持ち込み披露していた。そして、いろいろ教えてくれたが、何を録音していたかは覚えていない。
 それから6・7年後、トランジスタラジオで有名になったソニー社が、小型のテープコーダをも発売したのである。


はじめての給料

2007-03-25 23:45:19 | サラリーマン1年生
 1963(昭和38)年3月25日、はじめて給料をもらった。みんなは、1日から末日までの給料を5日手前の25日にもらうのだ。でも勤めはじめて二週間の新入社員は、月額を25日で割った日当を勤務日数分だけもらう。日数が少ないので、もらえる金額は少ない。でも、初月給にちがいない。うれしーーい。

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 ↑ 給与袋。
 このなかに給与明細が入っていたが、現金は入っていない。たずねると、普通預金口座に振り込まれていた。

 前日、総務課長がそろばんパチパチして作ったのがこの手書きの給与明細だ。
 わたしの額は、1万円にも満たない。それもそのはず、初任給は1ヵ月16000円の契約。2週間では月額の半分にもならない。両親に何を買ってあげたかは思い出せない。「無駄遣いせずに貯金しておけよ」は、耳にたこができるぐらい聞いた。2007.3.25記


はじめての勤務は洲本支店

2007-03-20 22:11:18 | サラリーマン1年生
 1963(昭和38)年3月20日。この日、はじめての営業店へ出勤する。みんなより先にと定刻より半時間あまり早く行ったが、すでに、大勢が来ていた。同期生の2人もすでに来ていた。みんな早いなぁと思いながら、控え室で待つこと30分。はじめて聴く朝礼の開始ベルにあわせて、起立。わたしたちの紹介をいただいた後、今後のスケジュールに沿って、自分の席につく。
 いよいよ始まったサラリーマン人生。とはいっても見習いだが、ともかくがんばろうと、自分に誓う青年だった。(写真はクリックで拡大する)

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 ↑ 赴任の洲本支店
 淡路弁をしゃべる青年の勤め始めは、洲本支店。
 自宅から自転車で駅まで10分、賀集駅から洲本駅まで30分、淡路電鉄の電車を利用する。淡路島にある(当時あった)唯一の電車。 これから何年かこの電車で通勤することになる。

 通勤の衣装は、就職祝いに親からもらったスーツ。青年がはじめて手にした洋服、上下セットで13,000円もした。現金収入が少ない農家のこと。農閑期に親父が、土方仕事に出て稼いだ給金、1ヵ月分では足りない額だ。おふくろに誘われて、一緒に街の洋品店へ買いに行ったので、値段をよく覚えている。
 あのときはまだ子供、まともに礼を言っていなかった。いま言いたくても、もう遅い。この文章、天国に届くものなら届いててほしい。「親父・おふくろ、スーツ、どうもありがとう!」

 これからの半年は見習い期間。男子同期生3人はバラバラに分かれて、出納・経理・預金を2ヵ月づつ先輩について見習う。わたしは出納係りの見習いからだ。

 現金授受カウンタの内側に、二人席の出納係りがある。現金を取り扱うので、小さな穴が開いたガラスのついたてが立っている。その内側に先輩社員と二人が座り、お客様へのあいさつからはじめる。
 お客様が来た。「いらっしゃいませ」  お客様が帰られる。「ありがとうございました」  これの繰り返し・・・・2007.3.20記
 追記
 このころの各農家では、農協をステーションとする有線放送でラジオ番組が流されていた。憩いの時間がくると、NHK「今日の歌」が流れる。そして
橋幸夫の「北海の流氷」(1963(S38).3.20発売)19630320

が流れてきた。何度も聴くうちにこの曲を覚えた。歌詞をメモし、メロディーをギターで何とかしようと思い立ったが厚かましかった。数か月前に買ったギターと教則本だけでは、ものにならなかった。でも、この曲は、落ち込んだ時元気をもらえたので好きだ。


サラリーマン集合研修おわる

2007-03-19 21:52:37 | サラリーマン1年生
 1963(昭和38)年3月19日。この日、7日間続いた新入社員の初期研修が終わる。あすから赴任先へ出て、実際の仕事を見習うのである。

 淡路弁しかしゃべったことがない青年は、いきなり都会へ行くことに怖さを感じていた。そこで、淡路島で何年か勤め、いくらか標準語が話せるようになってから、神戸市、そして大阪市へ転勤できることを希望していた。その希望通り、最初は淡路島の支店勤務となる。2007.3.19記


サラリーマン研修はじまる

2007-03-12 11:30:18 | サラリーマン1年生
 1963(昭和38)年3月12日。この日からわたしたち新入社員は、銀行員になるための研修を受ける。何しろ、みんな、高校(一部大学)を卒業したばかりの新米ばかり。各部署や支店に赴任する前に基本のノウハウを習うのである。(画像クリックで、拡大)

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 ↑ 研修日程表。
 お金に対して「1円の過不足をも許されない」との訓示に、新入社員は、信用を重んじる会社の原点を感じる。
 電卓・パソコンがない時代だから、「そろばん」の練習や試験がある。お札を数えるテクニックも教わる。なかでも、接遇と呼ばれるお客さま応対は、奥が深く難しい。
 農家育ちの人間には、鎌・くわ・耕運機で田畑を耕せても、受話器を持っての話術は不慣れ。なので、電話など応対のトレーニングはドキドキ・ハラハラ。同じ状況の仲間が周りにいると、自分とおなじだとホットしていた。
 農家の青年がサラリーマンになる喜びを抱いて研修に励むのでした。2007.3.12記


サラリーマンになった日

2007-03-11 19:01:19 | サラリーマン1年生
 1963(昭和38)年3月11日。この日から、青年のサラリーマン人生が始まる。高校の3学期から伸ばしはじめた頭髪は、伸びきっておらず、ややいがぐり頭。衣装は、着納めとなる学生服である。(画像は、クリックで拡大)


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 ↑ 入社式の式次第と社歌。
 国歌「君が代」は定番。社歌」は、有名な人(服部正)の作曲だが、初めて聴くメロディなので拡声器の声に合わせて唄う。
 今日は式だけで開放されたのでやれやれ。日没まで大分時間がある。同じ旅館に泊まる同期等、いつしか市電に乗って、大阪市内見物で時間をつぶす。
 修学旅行以来の見物だが、物見遊山の気分にひたれない。今日、出来立ての新米社員ばかり。未知への不安はちょっぴりあるものの、将来への夢と希望を大きくふくらませていた。2007.3.11記


サラリーマンになる前の日

2007-03-10 18:23:41 | サラリーマン1年生
 1963(昭和38)年3月10日。40数年まえの今日、淡路島から船に乗って大阪へ向かう青年がいた。高校を卒業して間もない18歳のわたしだ。明日の入社式に出るため、前日から大阪へ向かっている。
 大阪行きは、1年前の入社試験以来。田舎育ちで都会に不慣れな青年は、案内図や地図をたよりに、宿泊所を探すのである。サラリーマン人生スタートの前日のこと。(画像は、クリックで拡大)


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 ↑ 会社からもらった案内状。
当時は、ワープロが無いので、漢字タイプライターで謄写版印刷されたもの。

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 ↑ 宿泊場所と付近の地図。
ここに大勢宿泊して、入社式と社内研修に臨む。 
 入社女子は1週間前に終えていたので、今回は入社男子だけの90人。そのうち、わたしら地方出身者10人が立花旅館に泊まる。この日から同期生と顔なじみになる。
 3月といえどまだ寒く、ガスストーブを囲んで明日の入社式はどんなものだろうかと、談じてから寝る。

 今でもあるだろうかこの旅館。当時は、市電(ちんちん電車)とよぶ路面電車が走っていたが、その後、地下鉄とバスに取って代わられ、今はもう走っていない。2007.3.10記