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にしのサラリーマン時代

にしがサラリーマンで幸福のときを書いている。当時の知り合いや、子や孫たちに読んでもらいたい。

妹が入院

2012-08-08 23:49:09 | サラリーマン6年生
 8月7日、下の妹が須磨の眼科医院へ入院した。早速、会社から休暇をもらい見舞いに行くと、母が付き添っていた。妹は、手術を終えたばかりで、今は安静にしているのだという。下の妹が高一になり、夏休みに入った1968(S43).8.8のこと。

 それにしても部屋のなかは暑い。個室にクーラーが無いのが当たり前の時代。扇風機の持ち込みはOKだという。早速、買い求めて街に出る。

 電気屋さんの看板を探しながら、少し歩くと見つかった。だが、小さなお店なので在庫が無い。しかたなく陳列台の1台を、譲ってもらった。包装をせず、紐かけだけで持ち帰った。金8,000円也。



再び若狭湾へ

2012-08-04 11:27:36 | サラリーマン6年生
 一週飛んで、また若狭湾へやってきた。今度はこじんまりと、豊中支店の有志とハワイアンのメンバーだけ。わたしは、先輩が借りてきた乗用車に便乗して、若狭湾まできた。湾岸沿いに走っていくと前方に、ぽっかりと穴が開いた岩が見えた。辺りは暗くて道に迷いそう。だが、ハンドルを握る先輩は、納得するように、もうすぐ着くはずとアクセルを踏んでいた。1968(S43).8.3~4のこと。

 民宿で一泊し、翌朝は借りた漁船でクルージングしたり、泳いだり。

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 ↑ 浜には我々しかいない穴場だった。この写真が汚れているのは、この後で琵琶湖にカメラを落として、ネガが泥水に浸ったため。



若狭湾和田浜でキャンプ

2012-07-20 23:58:28 | サラリーマン6年生
 7月20日~21日、若狭湾の和田浜で、大阪地区の合同キャンプがあった。我が尼崎支店は兵庫ブロックに属するが、大阪地区が近隣店まで募集を拡大してきたので、若手に混じって参加した。1968(S43)年7月のこと。

 去年は、業務多忙で本部主催のキャンプはなかった。その反動でなのか今年は大規模に計画された。500人以上がバスで日本海まで遠征するという内容だ。

 すでに、尼崎支店は、若人の会で琵琶湖行きを計画していたので、若狭への参加は敬遠気味。でもぼくはバンドで行かざるを得ない。なので、新入社員だけでもと強引に誘って、大阪地区へも申し込んだ。

 若狭湾というと日本海側。行ったことがないので何県にあるのか知らない。とりあえず大阪へ集合すれば、バスで連れて行ってもらえるう。その日は土曜日だが勤務は2時まである。少しだけ早退の許しを得て、急いで集合場所へ向かった。

 集合場所へは、数分遅れて着いた。みんなにペコペコ、謝りながら、バスに乗車するとすぐ発車した。

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 ↑ とたんに、遅刻の罰として、バス内で歌唱指導をやらされた。

 キャンプ地の日本海は大阪から4~5時間かかる。その長い車中は、リクレーションリーダーが用意したゲームや歌で時間をつぶす。目的地の和田浜キャンプ場に着いたときは、もう暗かった。

 大浜は、すでにキャンプファイヤの準備ができていた。全員そろったところで点火式。たちまち大きな炎が夏空に舞い上がる。ファイヤーを大勢で囲むと、アコーデオン先生の音楽にあわせて、ゲームやダンスのオンパレード。


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 ↑ われわれのハワイアンバンドも生演奏で盛り上げた。

 フラダンスの曲が流れると、フラガールに化けた男性がフラダンスを踊り出す。熱気とムードが渦巻く中で、時間一杯キャンプを楽しんだ。

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 ↑ 夜が更けてファイヤが消えだすとキャンプはフィナーレ。
 取り囲んでいたみんなは、たいまつの灯りで8軒の民宿へ散っていった。

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 ↑ 翌朝、グループ別スイカ割りに参加したが、割れずに笑われた。

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 ↑ 自由時間は、泳いだり、ボートを漕いだり。

 昼過ぎにバスが出発する。それぞれがバス11台に分乗して、大阪方面へ帰った。




日の岬でキャンプ

2012-07-13 23:52:08 | サラリーマン6年生
 7月13日~14日、紀北ブロックのキャンプが日の岬で行われたので、2年ぶりにバンドで参加した。1968(S43)年7月のこと。

 岬というので海辺を想像していたが違った。くねくねと曲がった川べりを上った山奥に、キャンプ場があった。

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 ↑ マイクロバスを降りて、山を背景にパチリ。
 大阪からやってきたキャンプ応援隊。リクレーション・リーダーって役の人もいたかな。 
 出迎えてくれた紀北ブロックの幹事(?)さんが撮ってくれた。

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 ↑ まずは腹ごしらえ。余興の演奏は、うす暗くなってからだ。



本物の裕次郎さんと慎太郎さん

2012-07-04 21:11:06 | サラリーマン6年生
 7月4日だったか6日だったか、会社帰りに石原裕次郎さんを見た。参議院の全国区に立候補している、兄の石原慎太郎さんの選挙応援に来ていたのだ。1968(昭和43)年7月のこと。

 会社から阪神電車で帰るわたしは、今津駅で降りて、阪急電車・今津線に乗り換える。19680704
 ↑ 阪神/今津駅を降りたら、大きな声が聴こえてきた。
  眺めると駅前に、石原慎太郎の選挙カーが来ており、観衆が大勢集まっていた。よく見ると、石原裕次郎もいる。交互にマイクを持ち兄の応援演説をしていた。

 「ウワァー、本物の裕次郎だ!」 この春、映画「黒部の太陽」で観た本人が、いま目の前にいる。わたしは、やや興奮気味に観衆のなかにいた。見物人の誰かが言った。「大阪で演説してから神戸へ行く途中、ここへ立ち寄ったらしい」と。 案の定、選挙カーが神戸に向かって消えていった。余韻から冷めたわたし達は、再び帰路についた。

 その後の7月7日、参議院議員選挙が行われた。その結果は、新人の石原慎太郎さんが301万票を獲得し、全国区をだんとつのトップ当選だった。有名人では、青島幸男さん、横山ノックさんも当選、後にタレント議員と呼ばれていた。



6年ぶりの試験

2012-06-29 23:57:46 | サラリーマン6年生
 電算学院へ通いだして3か月過ぎた。6月22日と28日は、3か月間習ったことの実習試験と筆記試験があった。試験というと、高校以来6年ぶりだったので、緊張した。1968(S43)年6月のこと。

 その日は会社勤務が5時まであった。5時が来たからといっても丁度には帰りづらい。20分ぐらいして女子社員が帰りだすので、ついでにぼくも出た。「お先に失礼します」と先輩や上司に言って出る。出ると向かいの銀行の電光掲示時計が5時20分を指していた。

 最近ついたこの時計は、豆球の光りで時刻を表示するめずらしい時計であった。これも、デジタル時計というのかな。デジタル・コンピュータを学び始めてから、いろんなデジタル品が目に留まるようになった。



エレキベース

2012-05-31 21:14:02 | サラリーマン6年生
 バンド仲間のO瀬くんが転勤したのでエレキベースを弾く人がいなくなった。急きょわたしが弾くことになった。ウッドベースならぼくは弾けないが、エレキベースに変わっていたので引き受けた。1968(S43)年5月のこと。

 エレキベースは一般ギターより弦が2本少ない。でもギターの低音弦4本と同じと思えばなんとか弾ける。だが、引き継いだ楽譜には、音符ばかり載っている。1音1音の音符は苦手だ。ということで、コードをばらばらでつま弾くことにした。バンド・リーダーに音譜を書き直してもらうのも気が弾けるので、仲間の譜を見せてもらうことにした。

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 ↑ ギターのコード譜を見て、エレキベースを弾く。

 暗記苦手のぼくは、スリーコードすら覚えていない。そこで親指を折って主和音(Ⅰ)を呼び、下属和音(Ⅳ)コード名、属和音(Ⅴ)コード名を指折り数えて導くありさま。これで、大方の楽曲は弾けるようになった。



つつじのおもいで

2012-04-29 23:48:36 | サラリーマン6年生
 4月29日が来ると、須磨浦山上のつつじを思い出す。(昭和)天皇誕生日で祝日であったこの日、暇つぶしにさそった人が、須磨浦公園へ連れて行ってくれた。須磨といえば、源平合戦のひとつ「一の谷の戦い」で有名なところらしい。そんなことは知らなかったが、線路近くまで山が迫っていた。

 山陽電車の須磨浦公園駅を降りると、ロープウエイで山上へ上れた。山上からは大阪湾が広がる。淡路島も浮かんで見える。山肌に目を向けると、斜面のところどころにつつじが咲いていた。


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 ↑ つつじが咲いている斜面。

 近づいてしゃがむと、なつかしいつつじだ。淡路島では毎年、こどもの日に、地域の子供が集まって山で遊ぶ。その里山に咲いていたつつじと、同じ種類のようだ。それ以来、何度か須磨浦の山上に上るが、それが4月29日だった。


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 ↑ 近づいて見るとこんな感じ。これは、違う場所のつつじだが。



 ↑ そのころ買ったレコード:「夜明けの二人」/B面:「夢見るジェーン」唄:橋幸夫



社員旅行で日本平へ

2012-04-22 00:54:21 | サラリーマン6年生
 4月20日は土曜日なので勤務は14時まで。仕事を時間通り終えて、旅にでる。行きはバスで浜名湖の舘山寺で泊る。宴会・宿泊後、翌日もバスで東名高速道路を走る。高速道路は出来てから5年とまだ新しい、1968(S43)年4月のことだった。

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 ↑ 宴会・宿泊した舘山寺のホテル前で、バスを待つ。


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 ↑ 宿を発ってから登呂遺跡へ立ち寄った。が、記憶に残るものほとんどなし。


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 ↑ お控えなすって! と、なぜやっているのか?
 よく見ると石垣の前に銅像が写っている。それがあの有名な清水の次郎長。とすると、清水市梅蔭寺に立ち寄ったことになる。全然思い出せなかった。

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 ↑ 三保の松原でやっと全員揃っての記念写真。
 砂浜や松林を散策するのも、旅行の決まりのパターン。海からの風が気持ちよかった。

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 ↑ 新幹線静岡駅ホーム。列車が入ってくるのを友達の8mmカメラで待ち構えた。
 はじめての8mm撮影だが、どのように撮れていたかは確かめていない。

19680405夜明けの二人
 ↑ そのころ、この曲や夢見るジェーン(この曲のB面)を聴いていた。



開講式に臨む

2012-04-01 21:19:40 | サラリーマン6年生
 4月1日、電子計算学院の開講式に出席してきた。いよいよ、半年間の講義がはじまるのだと思うと、久しぶりに胸がはずむ思いがしてきた。1968(S43).4.1のこと。



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 ↑ 開講式のあとで記念写真。
  顔も名前も知らない人ばかりだった。

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 ↑ 前半の講義日程
 日程表によると、週3日間を26週つづけることになっている。続けられるだろうか? 火・水・金が基本に組まれているが、予備日は土・木・水。仕事の残業が前もって判れば、予備日でなんとかなるが、予備日も残業になると欠席にならざるを得ない。会社には、内緒なので、行けるところまで行こうと、決心を新たにした。 



'68映画「黒部の太陽」

2012-03-24 18:27:39 | サラリーマン6年生
 3月24日、日活映画「黒部の太陽」を大阪梅田で観てきた。日曜日だというのにたったひとりでだ。1968(S43).3.24のこと。

 一か月ほど前のこと。前売り券の斡旋が本部回覧であった。周りの人を誘って行こうとしたが、誰一人、申し込まない。結局、わたし一人だけとなった。どうやら、友達同士では、内々に行くつもりなのかも。

 いよいよ当日、誰かに出会うかもしれないと、きょろきょろ見渡したが、誰にも会わなかった。おかげで落ち着いて鑑賞出来た。
「黒四ダム」か。 将来、奥さんをもらったら、一緒に行ってみたいものだ。もらった冊子であらすじを振り返りながら、電車で独身寮へ帰った。

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 ↑ 入場券の半券が、映画冊子の中から出てきた。



'68新入社員歓迎会

2012-03-18 14:56:57 | サラリーマン6年生
 3月17日の日曜日、先週入社した新入社員の歓迎会が、奈良であった。去年はプログラムをもらいながらも参加しなかったが、今年はクラブ紹介を兼ねたバンド演奏で参加した。1968(S43).3.17のこと。

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 ↑ クラブ紹介を兼ねて、演奏する。
 わたしも一応メンバーなので、演奏に参加した。いつもながらK田さんが弾くスチールギターには、聴き惚れてしまう。当時流行っていたマヒナスターズの和田弘さんの演奏をまねしているらしい。持ち歌もマヒナの曲が多かった。

 去年入社したタケやん、新入社員ながらもテナーサックスは抜群にうまい。中学時代からブラスバンドをやっていたらしい。誰にも教わらず我流のわたしとは雲泥の差だ。
 ベースを弾くのは同じ母校の後輩のO瀬君。O瀬君はこの半月後、転勤したのでバンド演奏はこれが最後になった。


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 ↑ 舞台での余興のあとは、たたみ座敷で「フォークダンス」をして遊んだ。ぼくも輪に入れてもらったが、高校以来だったので、踊り方を忘れていた。