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にしのサラリーマン時代

にしがサラリーマンで幸福のときを書いている。当時の知り合いや、子や孫たちに読んでもらいたい。

淡路島まつり

2008-07-31 22:20:05 | サラリーマン2年生
 洲本では、毎年、8月1日から3日間、淡路島まつりという夏祭りがある。大浜公園で打ち上げ花火があがり、人形浄瑠璃(じょうるり)や自動車ショーと合わせて、弁天境内では、多くの連が集まって阿波踊りに興じた。我らの支店も35人で連を結成して、踊りに参加した。


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 ↑ 揃いのゆかたで、参加した洲本支店連。先頭ののぼり提灯につづいて女性陣。
男性陣は、そのあとに続いた。


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 ↑ 女性陣につづく男性陣。
 私は、阿波踊りは初めて。先輩の姿を見よう見まねで踊り始めた。手拭いで結ぶハチマキは、なぜかみんなと結び目が違う。
 途中休憩の後、太鼓のたたき役を交代しようと申し込んだが、新米の私には任せられんと拒まれた。仕方なく、両手を頭上にあげて、手の位置、足の角度を気にしながら踊っていた。「・・・おなじ阿呆なら、おどりゃにゃ損々」と。

 他の企業・団体の連も大勢で参加していたので、弁天境内から大浜付近は、人人人でにぎやかだった。


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 ↑ 大浜の広場まで移動しての記念写真。(男性陣のみ)1964年8月1日のこと。


「若人の会 比叡山で避暑」

2008-07-27 22:39:02 | サラリーマン2年生
 今週は比叡山へ避暑に行く。若人の会の一部の有志だけだが楽しかった。1964(S39)年7月25~26日のこと。

 土曜日は2時まで勤務がある。2時を過ぎたらサッサと仕事を片付けて本土(本州のこと)へ渡る。明石渡しだったか、それとも関西汽船で神戸中突堤行きだったかは覚えていない。とにかく滋賀県の大津まで行き、開通したばかりの湖西線に乗り換えて、琵琶湖西岸の湖の家にたどり着く。若者ばかり、どんちゃん騒ぎをするでなく、女性陣が作るすき焼きをわいわい言いながらつついた。

 翌日、朝寝坊気味のみんなは、急いで朝食をいただく。湖西線のダイヤは本数が少ない。急がない次の便に間に合わない。駅への近道を寮母さんから聞いて湖の家を飛び出す。街路地を探りながら歩いて行くが、駅は見えない。どうやら迷ったらしい。田んぼのあぜを通ったりして近道を探りながら2~30分歩いた。やっと遠くにコンクリート高架が見えてきた。あの線路の方向だ。やっと着いたその駅は人の気配がない。この駅、営業しているのだろうか? 不安ながらコンクリートむき出しの階段を上ると2階がホームになっていた。待つこと数分、列車が来たきたのでやれやれと、みんなは飛び乗った。途中、ケーブルカーに乗り換えて比叡山にたどり着いた。
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 ↑ ケーブルカーを降りて、全員で記念写真。


同期の一人が転勤

2008-07-25 15:53:40 | サラリーマン2年生
 先週、社内野球で洲本支店が優勝したが、その優勝に貢献したワキさん(仮称)が今週、天満橋支店へ転勤することになった。ワキさんと私は、同期入社の2年生。平均3年で転勤があると聞いていたが、まだ1年と4か月。どうして転勤するのだろう? 本人の希望なのか、聞いても答えてくれなかった。
 同じ支店で同期生が3人(男性)いた。が、1人はすでに福良出張所へ、そして今回の転勤。これで男の同期性はいなくなった。仕事で張り合うことはなかったが、ライバルが居なくなるとちょっとさみしい。 

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 ↑ 2か月に1回ある母店子店の合同社員会、後半はワキさんの送別会となった。
3年連続で持ち帰った優勝旗を後ろに立てて記念写真。1964.7.20のこと。


去年に続き今年も優勝

2008-07-14 23:57:37 | サラリーマン2年生
 ブロック予選で勝ち残った洲本支店は、7月5日(日)から園田グランドで準々決勝に臨んだ。対戦相手は本部、11:00からの開始。おりからの暑さに負けそうだったが、ポリタン(リポビタンのライバルドリンク剤)のお陰で5対2で勝てた。

 次は準決勝、1週間後の12日(日)の予定。決戦までのウイークデイは強風注意報や、大雨注意報が出る程の悪天候。当日朝になってやっと天気が回復した。
われら洲本ナインは、土曜日の内から塚口の定宿(旅館さとう)に泊まり込んで翌日に備えた。

 12日、午前9時になっても四日市支店がまだ来ない。


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 ↑ 15分待ったが、これ以上待てないと、1チーム外れての開会式になった。


 ブラスバンドの演奏のもと、プラカードを先頭に選手入場、開会の挨拶、前年優勝の洲本支店から優勝旗返還、社長杯返還、社歌斉唱と式が進んだ。

9時45分、始球式に続いて洲本 対 高田の準決勝が始まった。
背番号16の私はベンチウォーマー。いつも試合の終盤に(ほぼ試合が決まってから)出番がくる。

 このユニホームをもらうまで、野球のユニフォームに手すら通したことがない私。昨年、主将のマノさん(仮称)から「15番までと少し違うが、これを着て」と手渡された16番ユニフォーム。たしかに胸元のチーム名の大きさが違ううえ、みんなはFUなのに私のはHUになっている。腕やズボンのアクセントラインも細い。1着足りなかったので同じスポースショップへ追加注文したら、微妙にちがうものができてきたんやと、すまなさそうにおっしゃるマノさん。でも、16番といえばあの巨人軍の名選手で名監督の川上哲治さんと同じじゃないか。本式の野球はしなくても、小学時代はGYマークの野球帽をかぶっていた私には、いい番号だと思った。今年入った後輩には、若い番号を着てもらい、私は去年とおなじ16番のままベンチ入りした。

 試合は、2回の表に洲本が2点を先取。さらに4回に2点6回に1点と順調に得点し、相手はまだ0点。これで勝負が見えた。代打で私の出番だ。ボールは飛んだが、守備の正面をつきヒットにはならなかった。また打席が回ってくることを期待して守備についた。
準決勝は規定で7回まで。最終回の裏、相手が2点をかえして追い上げてきた。ライトを守っていて一瞬ひやりとしたが、それ以上は加点されず試合終了。4:2で洲本の勝ち、いよいよ決勝だ。

 決勝は午後2時から、田辺支店と決まった。休憩が十分とれた洲本支店。先攻初回から2点取るなど、優位に試合が進み、結果8:4で洲本の勝ち。

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 ↑ 洲本支店は、一昨年から3年連続しての優勝だ。1964(S39)年7月12日のこと。


そこは青い空だった

2008-06-30 23:55:33 | サラリーマン2年生
 軽快な曲が流行っている。「若い歌声」(1963/11/5発売)に続いての橋幸夫・吉永小百合のデュエット曲「そこは青い空だった」(1964/4/25発売)だ。
昨年末、レコードプレーヤを買ってからは、EPレコード(通称ドーナツ盤)をよく買う。

 「若い歌声」も好きだが、「そこは青い空だった」も好きだ。歌詞を覚えたら、朝の通勤時、唄いながら自転車をこいでいる。
ボーイング 727(セブン ツー セブン)が新しいジェット機なんだと、教えてくれた曲。田舎の山里に住むサラリーマン2年生は、些細なことにも感心していた。

 枕元にプレーヤを置いて、レコードをかけて寝ていると、プレーヤを切り忘れて、朝まで回っていることがある。
オートターン/オートオフなんて機能がないので、レコード盤の終りの溝まで到達しても回転が止まらない。手でピックアップの上げ下げが必要なのだが、曲を聴いている間に眠てしまうのである。会社の仕事に疲れて、よくやる。

 ときおり、隣の部屋に寝ている祖母が、切り忘れの音に気付いて電源プラグを抜いてくれてたこともあった。1964(昭和39)年春~初夏。


自転車を買い変えた

2008-06-30 23:12:57 | サラリーマン2年生
 入社2年目にして、やっと新しい自転車にありつけた。これまで乗っていたのは、高校進学祝いに親が買ってくれた中古もの。まだ5年目だというのに、中古ゆえか老朽化が進んだ。

 購入当時(5年前)は、新しい自転車は1万3千円もしていた。現金収入の少ない百姓の我が家では、簡単に手が出せない価格。そこで、父が、父の同級生で自転車屋をやっているギョウブの自転車屋に頼んで、中古と修理品で安く組み立ててもらった。実に、新車の半値以下の5千円でだ。

 5年たった今、紳士乗りの新車は1万8千円もする。サラリーマン2年目では未だまだ(税込1万8千円と)安月給。そこで、ちょっとでも安い婦人乗りを選んだ。婦人乗りだと将来、妹へ譲ってやれるので、無駄にならないと考えて。

 さっそく、いつも行く写真店のシマダ自転車屋に注文する。そして今日、新車に乗って帰ることになった。空気を一杯入れてもらったグリーン色の新車は、軽快に走る。1964(昭和39)年6月の話。


試し撮り

2008-05-01 23:56:40 | サラリーマン2年生
 おニューのカメラで春祭りに参加した。だが、だんじりを担いでいたのでシャッターチャンスが少なく、撮ったのは十数枚だった。ハーフサイズなので24枚撮りフィルムで48枚撮れる。フィルムカウンタを見ると20枚以上残っている。このまま現像に出すには現像代がもったいない。何かを撮ろうと思案したが、絞りに自信がない。そこで、絞りとシャッタースピードの関係をいろいろ変えて、試し撮りをした。F1.8のレンズは初めてなので、より多くの経験を積んでおきたかったから。

 撮った写真は、焼き付け費用を安く上げるため、このようにべた焼きにしていた。
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 ↑ 買ったばかりの雑誌を蛍光灯スタンドのそばに寄せて、30cm上から撮っている。1964.4月のこと。


 フィルムに写っている雑誌が見つかった。(↓)
表紙の三田明くん・いしだあゆみさん、いずれも若いなぁ。たぶん、17歳と16歳かな。
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 ↑ 当時の雑誌(1964年5月号)が実家の屋根裏から出てきた。44年間のホコリとともに。2008.4撮影


はじめてのだんじり担ぎ

2008-04-14 23:03:27 | サラリーマン2年生
 4月12日、1964(S39)年の祭りは日曜日だったので参加できた。社会人になって2年目のこと。その前の年は金曜日だったので参加できず、翌年の今回が初参加となった。だんじり唄の練習も出きていない。唄うときは、自信なさそうに小声で唄っていた。

 私はもっぱら、カメラで写真を撮る役に徹していた。でも、カメラを買って使うのが今日が初めて、慣れないカメラなので現像できてくるまで心配だった。1964(S39).4.12のこと。


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一眼レフを買った

2008-04-06 00:25:17 | サラリーマン2年生
なかなか買えないカメラ。
 3年前、弟と二人で金を出し合って買ったカメラ(マミヤ)は1年前に手放した。都会へ出る弟へ(有償で)譲ったので、僕の手元からカメラがなくなった。サラリーマンになったのでいつでも買える。そう思っていたのだが、なかなか買えない。どうせ買うのならレンズ交換できるカメラがいい。そうはいっても4~5万円もする。僕の給料、3か月分に相当する。そのうえ、欲しいものが次から次と出てきて、カメラは後回しになっていた。

Camerap
 ↑ 雑誌広告による当時のカメラ価格。「明星」1964.2月号。

祭りが近づき、カメラが欲しくなってきた。
 去年(昭和38年)の春祭りは、金曜日で仕事優先、駆け出しサラリーマンは休みにくいため、祭りに参加しなかった。でも、今年は、日曜日だから出てくれと祭礼団の責任者から連絡が入っていた。だんじり担ぎに参加するなら是非ともカメラを持って行きたい。ということで、カメラ屋を覘いたら、給料1か月半で買える一眼レフがあるではないか。これなら買える。ハーフサイズということに少し躊躇したが、店員の勧めもあったので、思い切って買った。

Mycamera
 ↑ 来週の4月12日(日)の祭りには、新品のカメラ(写真右、オリンパスPenF)を持って行こう。(左は、1年前まで持っていたカメラ)1964(昭和39)年4月のこと。



映画「光る海」

2008-04-02 23:46:16 | サラリーマン2年生
 4月2日(木)、会社を終えて夕方、映画館で吉永小百合の映画を観た。月刊誌「明星」にあらすじが紹介された青春映画、「光る海」だ。都会では正月に封切り上映されたが、こちらでは3か月遅れての上映だった。

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↑ 1964年2月号、載っている記事も表紙も吉永小百合。
 
1964022
↑ あらすじの続き。

洲本市弁天通りのタイガー映画館で料金は¥120。1964(S39).4.2のこと。